第六話
ファミレスの店内には、知らないボサノバの曲と客の話し声、店員の声、皿やカトラリーを置く甲高い金属音が響いていた。同じ年代の店員が、笑顔で接客してくる。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
「あ、待ち合わせなんで、後で、二、三人来ます」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
窓側の四人席を案内され、メニューをテーブルに置かれた。
「あ、とりあえずドリンクバーで」
「承知しました。では、あちらになりますので」
「はい」
麗奈は、ドリンクバーに向かい、氷たっぷりでウーロン茶を入れた。席に戻って、窓を見る。雨はますます強くなり、外の車は水しぶきを上げて走っていた。
ふと気づき、スマホでチャージ金額を調べる。
まぁ大丈夫か。一応、ここの支払いは私が持たないとだよね。
時計を見ると、十六時まであと一〇分だった。その時、ファミレスの入り口が開きドアベルが鳴る。麗奈が背筋を伸ばして見ると、入ってきたのはポニーテールをした女学生だった。同じ学校っぽいが、陸斗も詩織もいない。人違いか、と思った刹那、その人物は麗奈を見つけるや否や、近寄ってきた。
「君が、稲村か?」
麗奈は慌てて、起立した。
「は、はい! え、あの、サッカー部の?」
「ああ、初めまして私は、大城美琴。二年三組でサッカー部のマネージャーだ。鵠北小出身だよ」
「あの、陸斗や詩織は」
「うん。一緒に来ると言っていたのだが、私は本来こういった人の話を流すようなことは好かない。だから、もし話すとしても最低限の人間にしか話さないと言って、同席はご遠慮願った」
ずいぶん、男っぽい話し方をする人だな……。
麗奈の心の声を見透かしたように、大城は、麗奈の顔を見てくすりと笑った。
「ああ、私の喋り方、独特だろう? こうでもしないと男子ばっかりのサッカー部ではやっていけなくてね。一年の時は面倒くさいことが沢山あったんだ。まったく男はバカばかりだ」
大城は、麗奈にウインクをしてきた。思わず麗奈も頬を緩ませる。
「激しく同意です」
鞄を座席に置くと、大城は大きな声で店員を呼び止める。
「ドリンクバーひとつ!」
店員が近寄ってくるが、妙にニヤニヤしている。
「でっかい声で誰かと思ったら大城ちゃんか。何よ、今日はシフトじゃないでしょ」
「プライベートでも、社割って使えますか?」
「使えません。でも一応店長に聞いてあげる」
「すみません。ちょっと後輩と話すのに寄っただけなんです。たぶん長居はしません」
「わかった」
そう言って店員が去ると、大城はドリンクバーでメロンソーダを入れ来て、麗奈の前に座った。
「もしかして、ここでバイトしてるんですか?」
「まあ、週二でね。サッカー部優先だけど、他の人には秘密だぞ」
「すごいですね」
「普通だよ」
大城はストローを使わず、ごくごくとメロンソーダを半分くらい飲んだ。麗奈は周囲でバイトをしている人間はまだいなかった。たった一年の差なのに、大人っぽく、そして妙に男っぽい。麗奈はつい、大城に見とれてしまった。コップを置き、ハンカチで口元を拭くと、大城は前のめりに両肘をテーブルについた。
「さて、本題といこうか。先ほども言ったが、私はこういう噂話の類は好きではない。だが君が、井上宙くんに初恋をして、彼を想って彼のことを知りたい。そういうことでいいんだな?」
初恋。そう言われて、麗奈は少し顔が熱くなるのを感じた。大城はまた、人の心を見透かすような眼で、麗奈の瞳をじっと見つめている。麗奈は、座り直し、背筋を伸ばして大城の目を見た。
「はい、その通りです。私は彼のことを好きです。それと正確に言うと彼の元の苗字を知りたいのです。幼い頃、私は彼と会っていて、その名前を教えてもらったようなのですが、どうしても思い出せないのです」
「苗字? 井上宙の前の苗字ということか?」
「そうです。名前を憶えていると約束したはずなのに、幼い頃すぎて記憶が断片的なんです。私が彼の名前を思い出すことで、彼の救いになる気がするんです」
大城は視線を外し、腕を組み、顎に手をかけて少し考え始めた。麗奈のウーロン茶の氷が解けて、小さな音を立てた。
「そういう事なら、もしかしたら無駄足だったかもしれない。すまないが私は、彼の名前を井上宙以外知らない。だが、その約束の大きさは私にはわかるような気がする」
「と、言うと?」
「そうだな、どこから話そうか。えっとまず、私は、両親が共働きで、ある学童に通っていた。それは小学四年の六月ごろだったと思う……」
私はその日、サッカークラブの日で学童に到着したのがみんなより遅かった。
学童は、保育室に入ると、まずその日の宿題や復習をやることになっている。みんなが勉強している中、私は静かに自分の机に座った。
すると、プレイルームで一人、すでに遊んでいる見知らぬ子供がいた。
それが井上宙だった。その日に転入してきて、学童にもその日から入ったらしかった。
彼は、クッションで作られた小さなボロボロのサッカーボールを蹴って、室内用の小さなゴールにシュートしていた。私は学童でサッカー仲間が出来たと嬉しくなり、急いで宿題を終わらせ、彼と遊んだ。だが、小学校の時の学年の差は大きい。小三の彼が小四の私にかなうはずもない。でも彼は負けん気が強くて一生懸命ボールを奪おうと必死だったな。私がリフティングを教えると、彼は必死に練習して、初めて三〇回出来た時、頭を撫でて褒めたらすごく嬉しそうな笑顔をしたのを覚えている。
学童は、いろんな子がいる。私もそうだったが、大抵は行く時は嫌がり、遊び始めると楽しくて今度は帰るのが嫌になる。でも皆、親が迎えに来ると、一様にほっとした顔になるのが定番だ。
だが、井上宙だけは違ったんだ。
彼は、母親が迎えにくるといつも顔が曇った。何度か、私の後ろに隠れてぎゅっと私の裾を掴んでいたこともあってね。私は、それが妙に気になっていた。
麗奈は、公園で自分の手を握ってきた女性の顔を思い出す。苛立ち靴の中で足の指を縮こませ、拳にも力が入る。
「まさか、家庭内暴力……」
大城は首を振った。
「いや、そこまでではないと思う。私も疑って彼の身体を確認したからね。私と彼との接点はそれだけさ。夏休みが開けた頃には、彼はまた転校してしまった」
大城は、どこを見るでもなく、半分残っていたメロンソーダのグラスを持って、意味もなく揺らした。
「ただね、彼が居なくなったあと、母親が迎えに来た時の浮かない顔の事を、私は自分の母親に話したことがあるんだ。そしたら知っていることを教えてくれた」
大城はグラスを置いて、外を見た。ファミレスの大きな窓ガラスに、大雨が辺り続けている。風も強いのか歩行者は傘を斜めにしてゆっくり歩いていた。
「井上宙の母親は、幼稚園の時に亡くなっていて、父親が再婚して今の母親になったとらしい。そして当時の一年前、父親も事故で亡くなった。彼が不運だったのは、その新しい母親に生活力があまり無かったという点だ。育てることが出来ないなら手放せばお互いのためなのに、残された父親の財産を目当てに彼を手元に置き続けた。仕事も続かず、再婚相手をずっと探していたらしい……という、あまり聞きたくない話だった」
麗奈の頭の中で、また火花が散ったように記憶が蘇る。サルビアの花の中、宙が持っていた小さな毬のようなサッカーボールの映像を思い出す。
「今、思い返せば、彼はキッズ携帯も持っていなかった。あの小さなサッカーボールだけが彼の……」
小さい頃の宙を想うと、麗奈の胸は締め付けられるようだった。気づくと大粒の涙が溢れ、テーブルの上に落ちていた。大城は慌てて麗奈の横に移動してナプキンを麗奈の顔に押し付けてきた。
「すまない。ちょっとショッキングだったな。もう少し和らげて話すべきだったか」
「いえ、こちらこそ、取り乱してすみません」
軽くため息をつくと、大城は席に寄りかかった。
「で、彼は今、クレープ屋をやってるんだって?」
「はい。会社に入って、通信の高校に通っているそうです」
「そうか……」
大城は、麗奈の前にある、氷がとけて茶色と透明の二層になったウーロン茶を見つめた。
「なぁ、稲村」
「はい」
「私は、中学の時大けがをしてね。本気でなでしこジャパンを目指していたが、選手としては駄目になってしまったんだ。ほら」
テーブルの下で、誰にも見えないように、大城はスカートをめくり太ももを麗奈に見せてきた。大きな傷跡が腿に走っている。
「だが、サッカーに携わっていきたくてね。だからマネージャーをやってるんだ。ゆくゆくは、チームに帯同するアスレティックトレーナーになりたいと思っている」
麗奈は絶句して、傷跡を見たあと大城の顔を見た。
大城はニコリと笑って、スカートを戻すと、半分残っている自分のメロンソーダに手を伸ばして引き寄せた。
「稲村、私はかわいそうか?」
「いえ、そんなことないです。目標をもっていて、本当にすごいと思います」
「だろ? そういうことだよ」
「昔の井上宙がどうか知らないが、今の彼は堂々と人生を進めている。その歴史を持ってな。変に感傷に浸ると返って失礼かもしれんぞ」
「確かに」
「よしよし」
大城は麗奈の頭を撫でると、また微笑んで立ち上がった。
「さて、私はもう帰るぞ。用事があるんだ。井上宙によろしく」
大城は、残ったメロンソーダを一気に飲み切ると、テーブルの会計表を掴んだ。
「お、大城さん、ココは私が!」
「バカ言え。後輩におごらせるワケに行くか」
そういうと対面に置いてある自分の鞄を持って大城はレジに向かう。麗奈は立ちあがって見送った。大城は立ち止って振り返った。
「あ、そうだ。君からも陸斗に言っておいてくれ。恋愛にうつつを抜かして練習サボるな! とな」
「す、すみません」
「なんで君が謝る。意味がわからん。たのんだぞ」
焚きつけたの私なんです……。
大城は、注文を取った店員と談笑して、すぐに店を出ていった。麗奈も出ようと思ったが、おごってもらって一口も飲んでいないのは失礼と感じ、薄くなったウーロン茶を一気に飲み干そうとした。だが、入りきらず、途中で口を離してしまう。
「なんか、いろいろスゴイ人だな」
もう一度、グラスを持ち上げなんとか飲み切ると、麗奈もファミレスを出た。
店に入る前よりも、鼠色の雲が空にのさばり、より一層雨が強くなっている。傘を風上に向かって傾けると、麗奈はバスターミナルを目指して歩き出した。
大城さんの言う通り、変に宙のことを憐れむのは、失礼だと思う。だが、大城さんの情報には、公園に来た男の話は無かった。たぶんその後、義理の母親は再婚したのだ。そして家から早く出たいと思うような家庭環境で、宙は過ごしたのだろう。
屋根付きのバスターミナルで、麗奈は傘を畳んだ。海浜公園行きのバス停に並ぶ。
宙にとって、まだ暗闇はまだ目の前ある。……そんな気がする。
屋根を外れた雨粒か、風で運ばれ頬を更に濡らす。麗奈がターミナルの天井を見ると、鳩が数羽、骨組みに留まって寄り添っていた。
いつもなら沢山の人がいる海浜公園も、さすがに人影は見えない。流れた雨が地面を流れ、所々に水たまりができ、芝生や、ランニングコースはぬかるんでいるように見える。
もしかして、今日は臨時休業しているかな……。
麗奈も、ずっと傘をさしていたのに、肩も背中もビショビショだ。真夏なのに足元が寒い。しかし、公園の入り口までつくと、市民プール前のキッチンカーに灯りが点いていた。
麗奈は早歩きでキッチンカーに向かう。スカートが腿にまとわりつく。
車内で座っていた宙は、麗奈に気付くと、びっくりして立ち上がった。
「い、稲村さん! こんな雨の日に来るなんて、びしょ濡れじゃないですか。ちょっと早くこっち入ってください!」
麗奈が車の背部に回ると、宙は慌てて裏口を開けてくれた。傘を閉じて中に入ると、手ぬぐいを頭にかけてくれた。洗濯洗剤の匂いを感じる。
「とにかく身体拭いてください。風邪引きますよ。あとドア閉めてください」
頭を拭きながら、麗奈はドアを閉める。すると宙は売り場の窓も閉めてしまった。
「え、いいんですか? 営業してるんでしょ?」
「これのが、少しでも温度上がって乾きやすいでしょう? それにこんな雨じゃ誰もきませんよ」
麗奈はつい笑ってしまう。
「じゃなんで、お店開いてるんですか」
宙は、顔を赤くして麗奈を見ると、すぐに視線を外す。
え、もしかして私を待って……
麗奈は恥ずかしくなりタオルで顔を隠した。胸のあたりが軽くなり、温かくなる。
くそう、幸せだよう。
「あれ? その傘、子供用のじゃないですか?」
宙の何気ない言葉に、麗奈は突然、今日の出来事が頭に蘇った。
小さなボロボロのサッカーボールを持った、幼い日の井上宙。
明るかった心が急に暗転した。小さな折り畳み椅子を出して渡してくる宙の顔をまじまじと見つめる。
また瞼が熱くなり、麗奈はバレないように、すぐにタオルでまた顔を拭く。宙は麗奈の異変にすぐ気が付き、顔つきが変わった。
「大丈夫ですか? 具合でも悪いですか?」
「大丈夫……です。宿題の進みはどうですか? お家でやってます?」
「まあ、ちょっとだけ。あのやっぱりわからないところがあって」
宙は足元の鞄から数学の問題集を出してくる。麗奈は折り畳み椅子にすわり問題集を受け取った。だが、表紙の字が歪んで見える。涙が止まっていなかった。
あれ、止まってない。
麗奈はまた顔を隠して、タオルで涙を拭いた。だが宙を不憫に思う気持ちが上回り、涙腺が分泌をやめてくれない。無言で俯いたまま、麗奈は静かに体を震わせた。
「なにか、ありました?」
宙は大きな身体をまげて、心配そうに麗奈の顔を覗きこんできた。このまま言葉を発すると本格的に泣いてしまいそうで、麗奈はただ首を振った。
宙は、小さく息を吐くと、脳天を書いて折り畳み椅子に座った。
雨音だけが聞こえる。いろんな場所にあたって様々な音色が響く。
こんな時、いつもの妄想力が働けば、すぐ楽しくなるのに。
麗奈が何も言わずいると、宙は無言で立ち上がり、何か作業を始めた。するとチョコレートを焦がしたような香りが小さな厨房内に立ち込める。液体をカップに注ぐ音がすると、俯いていた麗奈の視界に白いマグカップが現れた。白い泡の上にようなチョコレートソースで格子模様が出来ていた。
「チョコ―レートコーヒーです。モカジャバとも言うらしいけど、これも今練習中なんですよ。温まりますよ」
両手で受け取ると、カップの熱さが心地よく感じた。一口飲む。濃い目の苦いコーヒーに泡立てられたミルクがまろやかに溶け合い、チョコレートソースが混ざると甘みを感じられ、ホッと安心するような感覚だった。なにより、温かい飲み物が喉を通り食道、胃に入っていくのがわかる。
あたたかい。思ってた以上に身体が冷えてたんだ。
「おいしい。初めて飲みました。こんなコーヒーもあるんですね」
「そうなんですよ。コーヒーも奥深すぎて、私はクレープで精いっぱいなので、こちらの沼は趣味程度で抑えています」
ありふれた『沼』という表現が、妙に面白いく感じて、麗奈は自然とクスリと笑った。
それを見ていた宙も、笑顔になる。
「稲村さん、この仕事のこと取材したいって言ってましたよね」
「はい」
「私、明日休みで、合羽橋に道具を見にいこうと思うんですけど、良かったら一緒に行きますか? 明日から夏休みですよね」
え、それって、もしかしてデート? やば、ヤバ! どうしよう!
「い、行きます!」
「じゃあ明日、バスターミナルの上の広場に朝九時に」
「はい!」
急に心がまた軽くなり、目を閉じて鼻から香りを楽しむようにチョコレートコーヒーを飲む。すると、瞼の中でコーヒーカップが映り、その中からベートーベンのようなキャラクターが香りと共に出現した。久しぶりの妄想に麗奈は唖然としてそれを見た。ベートーベンが急にウインクすると指揮棒を振りだす。すると棒で示した所から、太鼓を持ってモーニングを着たちっちゃいオジサンが、また麗奈に向かってウインクしてくる。そして突然太鼓を叩く。ベートーベンは次々に棒をふり、次々とオジサンが増えていく。太鼓の音は雨音と連動され、音楽に変わって大合奏になっていく。そのオーケストラの中心で、バラをくわえた宙が、麗奈に手を差し伸べる。麗奈は、スリットの入った赤いドレスを着ていて、口紅をひいている。宙の手を取り急に二人は、音楽に合わせて熱いダンスを始めた。二人の足もとから花畑が生えてくる。宙が麗奈を引き寄せて、顔を近づける、そして二人の唇が少しづつ接近していく……。麗奈は頬が紅潮して、瞳を閉じた……。
「稲村さん? 大丈夫ですか?」
「は! な、なんでしょう?」
「いや、今、すっごいニタニタしながら、コーヒーこぼしそうになってたから心配しちゃって、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。すみません。あんまり美味しくて」
こ、こわ! 幸せと妄想が暴走して意識を失っていた。怖い、自分が怖い。
宙は、吹き出すように笑った。その笑顔が、また麗奈の心を明るくする。
「稲村さんは、たまにそういう時ありますよね」
「そ、そうかな」
閉めた窓を少し開け、宙は雨の様子を確認した。
「いつまで降るんですかね」
「あ、ちょっと待って」
麗奈はスマホで、雨雲レーダーを開き、雲の行方を見る。
「十八時過ぎには、通り過ぎるみたいです」
「へぇ、すごい。そんなことまでわかるんですか」
「今度、スマホも教えます。こんなの簡単だから」
「お願いします」
心も体も温まってきて、麗奈はやっと涙が止まったと感じた。
「で? どこがわからないんですか?」
「はい、確率の辺りなんですが、数式がちょっと……」
麗奈の持っていた問題集に付箋がついており、宙がそこに指を入れた。麗奈がそこを開くと確率の基礎のページが開かれる。サイコロの挿絵が載っていた。
「ああ、これはですね」
蒸した車内で、チョコレートコーヒーの香りと、雨音が二人を包む。
麗奈の心の中では、バラを加えた宙と赤いドレスを着た自分が、花畑の中をずっと踊っていた。
次の日、地面はまだ昨日の雨の痕跡を残していたが、空は青く晴れていた。駅で待ち合わせた麗奈と宙は、東海道線で上り電車に揺られ、かっぱ橋道具街まで一時間と少しということだったが、麗奈は一方的に話し、あっという間に目的地まで着いてしまった。
宙の私服は意外にシンプルでアイアングレーのカラーシャツとスラックス、そしてなぜかクーラーボックスを背負っていた。麗奈は執筆ばかりであまりに出不精。服になど興味がなく精一杯選んで、白いワンピースにおしゃれっぽい麦わら帽子、お母さんから借りた小さな黒いポーチだった。電車の窓ガラスに映る二人。あまりに大人っぽい宙と小学生のような自分に釣りあいが取れないと感じた。
田原町の改札を出て、地上に上がると、地元とは違い車通りの激しい通りに出た。背の高いビルがずっと続く街は、歩いている人々も大人が多く、どこか忙しない。麗奈は、はぐれないように宙に少し近づいた。
「ここ、よく来るんですか?」
「いや、二回目くらいです。前は社長に連れられて一度。商品だけなら地元の市場でも取り寄せできるんですけど、ここはなんでも実物があるので」
「何を探しに来たんですか?」
「トンボとレードルです」
「トンボ?」
「鉄板の上で伸ばすT字型の道具です」
「ああ、いつも上で回してる」
「私は、背が高いせいか、すこし屈んだ状態で動作をするので手元が不安定なことがあって、何か使いやすい道具はないかなと」
「なるほど」
「キッチンカーの仕事は、お客様に作業を見せる部分も仕事に入るので、いかにも職人技という見せ方を研究する必要もあるんです。効率的な事を言えば売れ筋の商品などは、ある程度作り置きを貯めて、すぐ出せるようにしてもいいのですが、それだと醍醐味が無くなるというか、やはりお客様は作り立てを求めてくるので、作業しやすい道具は大事になってきます」
「ふ~ん」
「あ、ここに入ります」
宙は、店に入るといきなり店員に話しかけ相談を始めた。店員もすぐに案内をして棚まで案内してくれた。宙の目つきで真剣さが伝わる。
「私、お邪魔になるので入り口付近で待ってます」
「わかりました。なにかあったら電話してください」
「はい」
見たこともない色々な種類の道具が、数えきれないほど揃っている。包丁は美術品のようにガラスケースに並び、刃ではなく握る部分の柄まで沢山並んでいた。
なるほど、ここまで来る意味がわかった。奥が深いんだな調理の道は……。
麗奈が関心していると、宙が手ぶらで戻ってくる。
「行きましょう」
「え、買わないんですか?」
「いいのはありましたが、他の店も見たいので」
「はあ」
店を出ると、またすぐ向かいの店に宙は入った。麗奈は辺りを見回す。似たような道具展がずらりと通りを埋めている。
こ、これは覚悟を決めてついていかねば……。
唇を強く締め、麗奈は宙の後を追った。
二時間も回り、宙は柄が長く軽い竹製のトンボと、重いステンレス製のトンボを買い、レードルも形の違うものを数本買っていた。宙の顔にわくわくとし表情が伺える。もう十三時を回ろうとしていた。
「さて、もう一つの目的に向かいます」
「え? もう一つ? どこ?」
「ついてきてください」
宙は何も言わず、ずんずんと街を歩いていく。宙は興奮しているのか、歩くのが速かった。麗奈はついて行くのがやっとだった。ふと気づくと外国人が多くなっていることに気が付く。どう見ても観光客だ。次第に観光客は増えていき、あらゆる人種がひしめいている。
「あれ? ここは……」
先に進んで、やっと麗奈はここがどこだかわかった。目の前に巨大な赤い提灯が現れる。そこには雷門と書かれていた。
「浅草寺?」
「そうです。かっぱ橋は、浅草が目と鼻の先ってやつです。そして、ここは日本有数の観光地。出店も様々な種類の店があるんです。クレープ屋も何店舗も出店していて、他の店の味を見比べるにはもってこいの場所なんです」
「あ、じゃあ目的は浅草寺じゃなくて」
「そうです。滅多に来れないので、今から片っ端にクレープ屋を巡って代表的なクレープを買って食べ比べです」
「ええ、何それ楽しそう!」
「だからお誘いしたんです。私一人では食べきれない。持ち帰りで買ってどこかで一緒に食べましょう」
「クレープって持ち帰りがあるんですか?」
「あります。こう透明のカップに入れたり、フードパックに入れたり。それも各店舗どうしてるか見たいんです」
「なるほど」
「では、行きましょう」
そう言うと、宙は麗奈の手を掴んでひく。麗奈は、嬉しくて握り返した。
それから、二人で、端から順にクレープを買った。クレープ屋と言ってもコンセプトも変わっていたり、宙が考えたように総菜を挟んだような食事のようなクレープあり、店に並ぶたびに宙はメニューを凝視して、写真を撮っていた。子供たちが遊んでいる近くの公園に入る。ベンチは無かったが、花壇の縁に腰かけた。
「買った順に食べましょうか」
「そうですね」
宙は、クーラーボックスから、フォークと紙皿を出して麗奈に渡す。
透明のカップに入った一店舗目のチョコと苺のクレープを切り分け、麗奈に渡す。
「どうぞ、食べてください。よかったら感想もお願いします」
宙も切り分けて、食べ始める。それを見て麗奈も食べてみる。
全然違う。麗奈は一口ですぐそう思った。最近、宙のクレープを食べているが、生クリームだけでこんなに違うのか感じた。濃厚さ? 何か知らない香りが混じっている。その香りが、ガツンしたクリームの存在感を与える。
「ここはリキュールを結構入れていますね。キルシュだな。もしかしたら具材によって変えてる可能性ありますね。他のも食べてみたいな」
「リキュールってお酒ですか?」
「そうです。具材によって合うのが違うんです。キルシュだとシンプルな苺やチョコ、コアントローはチーズケーキ系に使われます。ウチのも少しラム酒が入っています。どうしてもウチはキッチンカーですから、材料に限界はありますけど。多分、生地ももっちりしてますね。粉も何か入ってますね」
麗奈は、そう聞いてもう一口食べる。言われるとお酒と解る。クーラーボックスの上に紙皿を置くと、ポケットからメモ帳を取り出し、店名と味の感想を書き始めた。
「感想、ありますか?」
「いやぁ、美味しいとしか言えないです。けど、一口で違うって思ったから、わざと特徴としてやってるんでしょうけど、何回も食べると飽きそうかなって思いました」
「なるほど」
「まぁ、クレープはそんな何回も食べるものではないかもですけど。インパクトという意味では成功なのかな。どっちが正解がわからない。すみません、なんか偉そうで」
「いえ、すごく参考になります。次の行きましょう」
宙はクーラーボックスに一軒目のクレープをしまい、二軒目のを出しはじめる。麗奈はポケットティッシュを出してフォークを拭いて、宙を見た。
「いつも、こういう研究してるんですか?」
「まぁ、地元の店は全部回りましたね」
二軒のクレープを切り分ける宙を見て、麗奈は肩の力が抜ける。
真面目だなぁ。
「やっぱり宙さん、クレープ大好きなんじゃないですか」
「は?」
「いやこの間、なんでクレープ屋さんになったかって聞いたら、十年で車貰えるとかそういう話ばっかりだったから」
「ああ、そういう」
宙は、切り分けたクレープを麗奈の皿にのせたあと、クレープの入ったカップを持ったまま上を見上げて、小さく息を吐いた。
「稲村さん、買ったクレープの値段見ました?」
「見ました! どれもすっごい高かった。ビックリ。観光地価格だからですかね」
「それもあるんですよ。だけど今は材料高騰で本当に値段は上げないとやってけないんです。みんな高くなってるからお客様の財布の紐も硬くなっているというか、今の飲食は本当に厳しい。普通にやっているだけじゃ、生き残れないんですよ。うちの社長も良く唸ってますよ。今までの価格じゃ利益が残らない、時代が変わったって」
麗奈は母がスーパーで同じような事を言ってため息をついていたことを思い出した。
「クレープは、もちろん好きですよ。でも将来、この仕事をずっと続けられるかは分からない。だからこそ、真剣に真面目にやらないとダメなんです」
麗奈も膝に紙皿を置き、ビルに囲まれた狭い空を見上げた。
「わかります。小説の世界もそうらしいですから。漫画や動画は伸びてるけど小説は本当に売上が落ちてるってよく聞きます。結局の原因は少子化に行きつくらしいですが、そんなの私にはどうしようもない。だから将来、本が出せるようなプロになれても食べていけないかもしれないんです小説家って仕事は」
「え、そうなんですか? すごい成功者なイメージでした」
「そういう人もいるけど、ほとんどは副業してるって話です。でも、それでも私は小説が好きです。私は、自分の考えた物語を文章で表現して感動させたい。私が今まで読んできた素晴らしい作家たちと肩を並べたい。だから勉強もして他の仕事も考えてます。だけど怖い。いつかこの国に文章を誰も読まない日が来たらどうしようって思う」
宙は麗奈と目が合うと、苦笑いをした。
「複雑な時代に生まれちゃいましたね」
「ホントに」
「食べましょうか」
「はい」
それから、麗奈と宙は、クレープを食べながら色々な話をした。クレープの話、小説の話、詩織と麗奈の話、社長の話、しかし麗奈はどうしても小さい頃の話は切り出せなかった。宙も、なぜかその事には触れてこなかった。それでも麗奈は人生で一番楽しい一日だった。
地元の駅に着いたのは、夕焼けが始まったころだった。
改札を出て、朝待ち合わせしたバスターミナルの上の広場で、二人は立ち止った。帰宅に行きかう沢山の人通りが流れる。
「大丈夫ですか? 疲れましたか?」
「少し。でも楽しかった」
「取材の方はどうですか? 今日でだいぶクレープ屋さんのことはお話したつもりですけど」
「はい、だいぶ。宙さんが真剣なこともすごく解りました」
宙は、少し寂しそうな顔で俯いた。その顔で少し麗奈の顔がざわつく。
「あの、もう一つお話があって」
「なんですか?」
麗奈は、緊張してポーチのチェーンを握る手に力が入った。
「私、移動になりそうなんです。海浜公園のキッチンカーには、もしかしたらもう何日もいられないかもしれない」
ぐらっと地面が揺れるような感覚に陥る。言葉が出ず、ただ麗奈は宙を見た。
「夏休み前とはいえ、観光客の入り始める七月にしては全然売れていないという話になっていまして。社長は修行も兼ねて一人で任せてくれるつもりだったんですが、他の社員から、いくらなんでも入社したてのそれも十六歳の私に、単独で店をやらせるのは早すぎるのではないかという意見が多数を占めて、社長も……」
「そんな、ではどこに」
「まだ決まってないです。ウチは関東圏にたくさん車を置いてますから、もしかしたら県外かもしれません。だから……」
「だから……?」
「宿題は、自分でなんとかします。今までありがとうございました」
「売上が上がれば、いいってことですか?」
「わかりません。しかし私は元々、まだ修行中の身なんです。一か所をずっと任されるほど、腕もノウハウも身についていませんので」
電車が走る音と振動が伝わってくる。麗奈は俯いたまま固まってしまった。自分の足元だけが見える。
宙に会えなくなる。あそこは八月いっぱいと聞いていたから、少しは覚悟があった。でもさすがに突然すぎる。
胸に大きな穴が空いたようだった。自然と涙が溢れてくる。麗奈は被っていた麦わら帽子で、顔を隠した。
「寂しくないんですか? そんなの」
宙は、何も答えなかった。麗奈は震える声を絞りだした。
「私、長生きすると思うんです」
「え?」
麦わら帽子の隙間から、宙の靴が見えた。
「お爺ちゃんもお祖母ちゃんも、八十歳超えてるのに市民農園とか借りて野菜作ってるし、まだまだ元気だし。きっと私も百歳くらいまで生きちゃうと思うんです」
「稲村さん?」
麗奈は、麦わら帽子で隠したまま宙の胸に顔をつけた。
「私は、あなたを一人になんてしません。だから……」
また宙は沈黙した。しかし、帽子を押さえている手とは逆の手に、そっとハンカチを渡してきた。麗奈は、帽子の中で涙と鼻水を拭く。
「そっか。どこかで私のことを聞いたんですね。まあそうですよね。陸斗くんもいたし。だから昨日少し変だったんだ」
帽子を下げると、宙は腰に手をかけ、どこでもない場所を見ていた。
「稲村さん、私はね。はやく一人前にならないとダメなんです。寂しいとか言ってる場合じゃないんです」
麗奈を背にして、宙は俯いていた。
「産んでくれた母も父も、突然居なくなった。沙耶香さんも、公園に来ていた母親のことです。彼女も最初は気丈に面倒を見てくれたけど、新しい恋人が出来て、その人の間に子供も生まれて、私のことが邪魔になった。そう言葉に出すわけじゃないけど、感じるんです。ここは私の居る場所じゃないって」
「だから一人前なんですよね。わかります」
「わかってないですよ!」
ずっと優しかった宙が、急に突き放した言い方をしてきて、麗奈は驚いた。宙の拳が強く握られているのが見える。その拳で宙は自分の頭をいきなり殴った。
大きな声を出したことを一瞬で後悔したんだ。
麗奈は瞬間的にそう思い、宙の拳を背後から握る。彼の手はまだ震えていた。
「私はひとりで生きられるようにならないとダメなんですよ」
その言葉が、どれほどの過去と彼の意思が詰まっているか、麗奈は計りしれなかった。
返す言葉が見つからない……。
麗奈は、せめて、そっと麦わら帽子を宙の頭に被せる。そして無言で背中に額を押し付けた。宙の体温が伝わってくる。それが精一杯の表現だった。
今度は宙が、その麦わら帽子で顔を隠した。
「どうして……そんなに優しくしてくれるんですか?」
麗奈は、高い宙の後頭部を眺める。
「わからないんですか?」
「わかりません」
「好きだからです」
間髪入れない麗奈の返答に、宙は硬直した。
「あなたが好きだからです。だめですか?」
「そ、そういうのはズルいですよ」
「ズルいって言われても」
「だったら……」
「?」
「だったら、どうしてあの時来てくれなかったんですか?」
「あの時?」
「覚えてないんですか? 私は確かにあなたにメッセージを残したはずです」
メッセージ? なんのこと? 私はまだ大事なことを忘れている?
麗奈が記憶を総動員させていると、宙は不意に振り返り麦わら帽子を麗奈に被せ返してきた。
「ほら、忘れてるじゃないですか」
「え、いや、それは記憶の問題で……」
麦わら帽子を取って、宙を見た。宙は優しく、そして寂しそうに微笑んでいる。
「いいんです、昔のことですから。私とあなたは違う。きっと友達もたくさんいたんでしょう。でも、あの時の私にとって数少ない友だちの一人だったんです」
私も?
「私も稲村さんのことは大好きです。でもね、約束なんてしないほうがいい。果たされない方の気持ちも考えてください」
私もあなたを傷つけた一人ってこと……?
宙は、あとずさりするように一歩離れた。
「今日は楽しかったです。まだ数日は海浜公園にいると思いますから、じゃ」
「え、宙さん」
宙は踵を返すと、走って階段を降りて行ってしまった。麗奈は一人、広場に取り残される。なんだか身体に力がうまく入らない。麗奈は近くのベンチに座りこんだ。
え、メッセージって何だっけ? え、でも私、好きって言ったよね?
がっくりとうな垂れたあと、今度は上空を見上げた。もうだいぶ暗くなり始めている。
「あたし、フラれた……のか」
またサルビアの花が脳裏にちらつく。
どこかで車のクラクションが鳴り、また電車が入ってくる音がする。人々が行きかう駅前広場で、麗奈は茫然と記憶を辿っていた。




