第五話
その夜、自分の部屋で麗奈は、指先が動かず点滅するカーソルの前でずっと、真っ白なワードの画面を見つめていた。
井上……宙。
何回考えても、しっくり来ない。そして、鮮烈で眩しい赤色に咲き誇るサルビアの花と共に思い出す、幼い頃の宙の言葉……。
『忘れないで、僕の名前は……』
今もバス停近くにある団地の花壇に咲くあのサルビア。小学校三年の夏、塗装工事で団地全体が養生に囲まれ、一階のベランダの下の花壇はサルビアの咲くトンネルのようになった。興味本位で入ったそのトンネルで私たちは出会った。
楽しくて、面白くて、あのトンネルに入るのが毎日楽しみだったあの夏。どんな話していたかなんて、まったく覚えてないが、当時の私は彼のことが大好きだった。
でも、いつものように、宙に会いにいくと、突然塗装工事が終わっていた。養生の撤去作業は速やかで、二人だけの秘密の場所はあっという間に消え去ってしまっていた。それと同時に、彼もその日以来、忽然と姿を消してしまった。今思えば、きっと親の都合だろう。私は、裏切られたような、寂しいような想いで、ずいぶん泣いたような気がする。
「あ~もう!」
むしゃくしゃして、麗奈が自分の頭を掻きむしった。椅子から立ち上がり、ベッドに仰向けに飛び込んだ。ポケットからスマホを取り出し、真っ黒な画面を見つめる。
いっそのこと、今の宙に苗字をちゃんと聞いてスッキリしたい。でも、そんな事をすれば、とてつもなく彼を傷つけるような気がする。彼はあの公園に来ていた人達を『戸籍上の親』と言っていた。おそらく、彼は苗字が変わっているのだ。そして私に教えた名前は元の苗字ということなのだろう。彼にとって、きっと揺るがない心の拠り所だったということだったんだ。
スマホを操作しラインの画面を出し、友だちリストの中から宙のページを出す。プロフィール画像にはクレープの写真が映っている。
再会してから、宙はずっと敬語が取れない。もしかしたら、私が名前をちゃんと覚えていない事を、どこか怒っているのかもしれない。でも……。
脳裏に宙の笑顔が蘇る。
「彼は、そんな人じゃない。もし引っかかっていたとしても、怒ってるなんてことない」
麗奈は、スマホを胸に押し当て天井をぼーっと見た。
キッチンカーの隙間から聞こえた、鼻をすする音が鮮明に記憶に残っている。
麗奈はスマホを持つ手に力が入る。
どうしたら、もっと彼の力になれるんだろう。私が名前を思い出したら、少しでも宙は救われるのだろうか……。
麗奈は寝返りを打って枕を抱きしめ、ため息をつく。その時、スマホが鳴った。慌てて画面を見ると、宙からメッセージが来ていた。
そ、宙!?
宙『こんばんは! 今日は、私事を見せてしまい大変申し訳ありませんでした』
やっぱり気にしてるよね。
麗奈『こんばんは。問題ありません。私や友人も気にしていませんので。宙さんも気にしないで』
ああ~、もっと気を使った内容の方が良かったかな? えっとどうしよう、どこまで聞いていいか解んないし……。
麗奈はスマホの画面をじっと見る。だが返信が、なかなか来ない。時計が一分進む。
あれ? もしかして、今ので終わり?
その時、やっとラインのメッセージが入った音がする。
宙『そういっていただけるとありがたいです』
全部、平仮名だな……。
宙とラインのIDを交換した時の事を、麗奈は思い出した。ラインのバーコードの出し方も読み取り方も、宙は知らなかった。
もしかして……。
麗奈『あの、通話にしましょうか?』
そう返信して、しばし待つ。麗奈はベッドの上で壁に寄りかかり、枕を抱えて座る。また一分、時計が進んだ。
これ、たぶん通話しようとして、やり方わからないヤツかな……。ええい、もう良い!
麗奈は通話ボタンをタップした。
ガシャガシャと慌てたような音がする。
「は、はい! 稲村さんですか?」
「すみません。もしかしたらスマホの操作が苦手なのかなって思って」
「そ、そうなんです。あんまり使ったことがなくて」
私らの世代で、スマホ使ったことないって、どんな生活だったんだろう。
遠くでバイク通る音や、人の話し声が聞こえる。麗奈が部屋の掛け時計を見ると、夜の九時を回っている。
また、最後まで焼きの練習をしてたのかな……。
「今日の事は、宙さんは何にも悪くないと思います。どちらかと言うと私たちがごめんなさい。友人が付いてきてしまって、あの人達に変な誤解を与えちゃいました」
「いえ、そんなことはありません。本当に私は嬉しかったです。ただ、やはりあそこは営業中のお店です。クレープを買いに来て頂けるのは大歓迎なのですが、私語と捉える人もいることはいると思うんです」
「そうですね」
「気を遣わせてしまってすみません。それで、あの……稲村さんはあと何が知りたいんですか?」
「え?」
え? 何? 私が宙の苗字を知りたがっていることがバレている? お見通し?
「ほら、私の仕事を取材したいって、創作に役立つからって」
「ああ! そ、そうですよね。えっとなんだろ。それは何と言うか、全部というか、宙さんをずっと見ていないとわからないとういか」
「なるほど……」
宙が沈黙した。困っている。そんな感じがする。
「あの、ちょっと今聞いてもいいですか? 宙さんはどうしてクレープ屋さんに?」
「ああ、選択肢は沢山ありましたし、理由も一つというわけではないですが、一番大きな理由は、私は独立に拘っていたのでこの仕事を選びました」
「独立? キッチンカーでの?」
「そうです。ウチの会社は社員として十年働くと、使用しているキッチンカーをもらえるんです。売上次第では、もっと縮めることもできて三年で独立した人もいるそうです。ウチの会社出身のクレープ屋さんが全国に結構あるんですよ。はやく一人前になれると思いませんか?」
麗奈は少し驚いて、スマホを見た。
なぜクレープを選んだかという問いのつもりだったのに、この人はクレープ屋が独立に、いや、いかに『一人前』になるのに有利かという条件を話してきた。それはつまり……。
昼間会った宙の『戸籍上の親』の顔を思い出す。冷たい声の父親、声をかけない母親。
「いいシステムですね」
あの狭い車で、一人前になって、君はどこに行くの……?
「でしょう」
詩織や陸斗と話しながら、ラインのIDを交換した時の宙の笑顔が眼に浮かぶ。
本当は、みんなと居たいくせに。どうしてそんなに無理をして独りになろうとするの?
麗奈は抱きかかえた枕を更に強く抱く。
「あの、さっきの話なんですけど」
「さっき?」
「私だけなら大丈夫ですか? 宿題を教える話。お仕事の邪魔をする気はありません。なんなら手伝います」
「そんなことさせられませんよ」
せめて。
「もっと知りたいんです、あなたのこと。ダメでしょうか」
せめて、もっと私が一緒にいてあげたい。
宙は、しばし沈黙した。漏れ聞こえる街の雑踏が、麗奈の耳に優しく響く。心地よい静けさだった。
「少しなら」
遠慮がちに、そして照れながら、宙は答えた。その声は甘く、耳がとろけそうだった。
「では、また明日」
「はい」
通話を切り、麗奈は抱えていた枕に、顔を埋めた。
心臓がドキドキして、嬉しくて身体が震える。この私にこんな日が来るなんて。
また、サルビアの花が脳裏で揺れる。
宙は、あの後どんな人生を歩んだのだろう。
立ち上がって、窓を開けると生暖かい空気が身を包む。夜空には夏の大三角形が輝いていた。
夏休み前、最後のホームルーム。
担任の先生は、想像通りの計画的な夏休みを説き、チャイムと共に調子の良い男子たちは、嬉しそうに叫びながら席を立ち、それを見ながら先生は苦笑いしていた。
「麗奈は、今日もあそこ行くの?」
詩織が、パンパンの鞄と体操着を肩にひっかけて近づいてくる。
「うん。今日は荷物が多いから、一旦帰ってからね。詩織は? 陸斗はどうした?」
「彼は、もう部活よ」
「一緒に帰らないんだ。荷物とか持ってくれそうなのに」
「ちょっと、私にハマりすぎてるから陸斗くん。少し離さないとダメになっちゃうなって思って、強引に行かせたの。終わるまで待ってるけどね」
「嘘でしょ。何時までだよ」
「十八時半だって」
「すご」
「大丈夫、夏休みの課題がたっぷりあるから」
詩織は、鞄をポンポンと叩いた後、麗奈に顔を近づけてきた。
「それより、昨日あれからどう? 連絡してみた?」
「うん」
「そうなの? なんだよ、あんた今日一日暗かったから、私てっきり……」
「ねぇ、小学校の時の先生って、いきなり行って会えるもんかな」
「は?」
「宙のこと、聞けないかなって」
「どういうこと?」
麗奈は、団地の塗装工事で養生で作られた、サルビアのトンネルの話、名前を忘れないと約束しながらも忘れてしまったこと、そして、予想できる彼の家庭事情を、詩織に話した。いつのまにか教室は二人だけになり、開け放たれた窓から、金管楽器の音、グラウンドの運動部の掛け声など、部活組のエネルギーがBGMとなって流れていた。詩織は、前の席に座り、静かに麗奈の話を聞いていた。
「そっか、あんたたち縁があったんだね」
「なんでか、どうしても思い出せないんだよ。宙の本当の名前が。どうしてなんだろう」
詩織が、急にハンカチを出して、麗奈の頬を拭いた。自分でも気づかなかったが、瞳から、涙が溢れていた。
「それで先生か、まぁ確かに先生なら少しは事情知ってそうだけど、話してくれるかなぁ。だいたい卒業生でも、今って勝手に校舎に入っちゃダメなんじゃない?」
「やっぱり、そうだよね」
「いっそのこと同窓会でも開いてみる?」
「小学校の?」
「そう、無理か、無理だよね~、私も小学校の時の子なんて連絡先ほとんど知らないし、そうなると、そっか、先生しかいないか」
「陸斗って小三の時、何組だっけ?」
「たぶん二組。たしか中島先生か、村上先生だったような。私ら一組は坂本先生だったから。ほら学年の先生ってほとんど変わらないじゃん」
「村上先生は一年の時、担任だったけど、あんまり覚えてない。中島先生は顔も思い出せん」
麗奈はため息をつくと、立ち上がって机にかけてあった鞄を持ち上げた。詩織はスマホの電話先をスクロールしている。
「私もちょっと、他の友達あたってみるよ」
「ありがとう」
「うん。あと新作も待ってるよ。なんか次はすごいの書けそうだもんね」
麗奈は笑顔を作りながらも無言で詩織に軽く体当たりして、教室を出た。
この学校は廊下側の方に日光が強く当たるように設計されているらしい。直射日光で右肩が熱い。
新作……か。宙のことばかりで、昨日はあまり進まなかった。というか構想も練れていない。いつも脳内で勝手に再生される妄想から、取っ掛かりを得ているからなぁ。
暑い廊下を渡り、階段を降りる。途中、体操着の上級生とすれ違う。
あれ?
靴箱の前まで、行って靴に履き替える。校舎を出てグランドの方を覗く。どこの部か解らないが、短パンとTシャツの男子集団が走り込みをしていた。
あれ……。
麗奈は、立ち止って目の前の景色を見渡した。職員室で知らない先生が窓を開けた。吹奏楽部が、発声練習を始めている。男子生徒同士がふざけあって、じゃんけんでカバン持ちを決めている。ラグビー部がカゴに入ったボールを運ぶ。第二校舎の屋上に鳩が留まっている。教頭先生が花壇に水をやっている。
いつもなら、もう妄想は止まらず頭の中で面白いことで大洪水になっているはずなのに、何も起こらない。何も思い浮かばない。
麗奈は、焦って目を閉じて何か考えようとする。だが浮かんできたのは、赤いサルビアの花と、夕日に照らされた宙の笑顔、そして昨日の甘い宙の声だった。
いや、そんなことがあるわけない。きっと学校は見慣れてしまって刺激がないんだ。きっと家に着くまでには何か思いつく。
学校から駅までの道、電車の中、バスの中、ついには自宅まで辿りつき、誰もいない家に帰り、自分の部屋まで着いてしまった。ここまで、一度も妄想が出なかった。何かを考えようとすると、やはり宙の事ばかり思い浮かべてしまうのだ。
熱がこもった部屋で、肩から落とすように教科書の詰まった鞄を落とす。麗奈は立ち尽くしたまま、ゆっくりと自分の両方の掌を見つめた。
おそらく、いままでの私にとって執筆は最大の楽しみの一つであり、いつもの突発的な妄想は、楽しみを完成させていく材料として脳が最大の興奮と快楽を得る手段だった。
麗奈は、なんだか身体の力が抜けて、どっさりとベッドに座った。
でも、宙に再会して、いや、彼のことを好きになってから、私は彼の事を考えるだけで幸せになっていた。たぶん、私の脳みそは執筆の楽しみ以上の興奮と快楽を得てしまったのだ。
「ふっ」
卑屈な笑いが、鼻から出た。
私は、小さい頃から好きな男子を次々と作る詩織をだらしのない奴だと思っていた。詩織に夢中になる陸斗を、どこか冷めてあざわらっていた。恋愛に溺れるなんて自分をしっかり持っていない弱者の過ちだと考えていた。だが、今なら解る。相手を思った時の幸福感、気持ちが読めない切なさ、時間を共有している時の高揚感、こんなに素晴らしい体験が他にあるものか。
「今なら私、宙のために死ねるかもしれない」
麗奈は、立ち上がって窓を開け放つと、勢いよく部屋を出た。
母校の小学校は、四年も経ったというのに全く変わっていなかった。
「夏休みになるのは一緒か」
校門は閉まっており、いつも出入りしていた東口玄関には誰もいない。麗奈は背伸びをしてグラウンドの方を見回した。
「何かご用ですか?」
校舎の裏から、土で汚れた軍手をしてスコップをした恰幅のいい中年の女性がジャージ姿で歩いてくる。麗奈は一発でその人物の名前が頭に浮かんだ。
「坂本先生!」
坂本先生と呼ばれた女性は、訝し気に目を細めながら近づいてくると、次第に表情が明るくなった。
「稲村、稲村麗奈!」
麗奈は校門に足を乗せ、頭を出した。
「すごい、よく覚えてましたね。てゆーか変わってない。そのジャージも」
「いやお前も変わってないなぁ。もう高校生のハズだろ? ちゃんと牛乳飲んでるか?」
「うるさいな! 飲んでますよ。遺伝ですよ遺伝」
坂本先生は、カカカカとオジサンみたいに笑った。
「どうした、母校に何か用か? 同窓会でもやりたいとか?」
「いや、違うんです。ちょっと教えて欲しいことがあって、ダメかもしれないけど。あの、村上先生っていますか? あ、ちょっと待ってください。その前に私たちが小三の時の二組の担任は、どなたでしたっけ?」
坂本先生は、また眉間にシワを寄せながら、口をすぼませて腕を組んだ。しばし沈黙していたが、校門の端の小さな門を開けてくれた。
「とりあえず入りなさい。話は聞いてあげるから」
「あ、はい」
麗奈が門をくぐって中に入ると、坂本先生はすぐにまたダイヤル式の鍵を閉めた。手袋を外すと、坂本先生は校舎の方に、歩いていく。麗奈もあとを付いていった。
「その制服、上藤沢高か? いいとこ入ったじゃん」
「ありがとうございます。詩織、雨宮詩織も一緒なんです。なんと同じクラス」
「ええ! 雨宮も? すごいな」
四年ぶりに校舎に入ると、外観と違い、覚えていた印象より靴箱が小さい。
当たり前か。小学校だもんな。
坂本先生は、教員用の靴箱に靴をしまって、室内用に履き替えると、麗奈にスリッパを出してくれた。麗奈は会釈をして履かせてもらう。
「靴はそのままでいいから、そこの事務室で必要事項書いいて」
「はい」
坂本先生が、顎で示した方向は、昇降口を入ってすぐの事務室に受付だった。そこには『来校者簿』と書かれた黒くて古いファイルがあり、麗奈が名前などを書き込むと、坂本先生は来校者カードを首にかけてくれた。
「じゃ、ここで待ってな。すぐ来るから」
坂本先生は、事務室の隣の部屋を開けて案内してくれた。『応接室』と札が付けられており麗奈は母校ながら、その部屋に初めて入った。中には、年代物の真っ茶色の皮のソファーが対面で置いてあり、中間にガラステーブルが置いてあった。花も飾ってあり、学校案内が並ぶ書棚、テレビモニターも置いてあった。
麗奈は、ひとまずソファーに座った。
壁かけの時計が、一秒ごとに音を立てる。時間が長く感じる。窓から見える空が、暗くなってきた。分厚い雲が流れてきたようだ。
井上先生は、一瞬しかいなかった宙の苗字を覚えているだろうか。いやそれ以前に彼を覚えているだろうか。
そんな事を考えていたら、引き戸にノックが三回鳴った。入ってきたのは、坂本先生だけだった。何か名簿を抱えている。麗奈は慌てて立ち上がるが、坂本先生は、そのままでいいと、手でジェスチャーしてきた。そして、麗奈の対面にどっかりと大きなお尻を乗せた。そしてファイルを開いた。
「えっと、お前らの卒業が四年前で三年の時だから七年前でしょ? 三年二組……、ああ、確かに井上先生だな」
麗奈は身を乗り出した。
「あのじゃあ、井上先生っておられますか?」
「いや、井上先生は三年前、寿でお辞めになられたわね」
「結婚された?」
「たしか旦那さんが九州に転勤になって、それに機にって話だったからな。たぶん今でも九州でしょう」
「ええ~。マジか~」
落胆し麗奈はがっくりと首を垂れる。なんだか急にお腹に力が入らない。
「で? 何なの? 井上先生に何の用?」
「いや、ダメ元で来たんで、仕方ないですけど。実は、最近出会った人が、三年の時、ちょっとだけこの学校に転入してきた人だってわかって、たぶん二組の人だって話になって、その宙って男の子なんですけど」
「ああ、もしかして井上宙か。ああ一学期だけいたわね」
「え?! なんで坂本先生が覚えてるの? 三年の時も一組だったじゃないですか」
「そりゃ私、あの時学年主任だったもの。今、児童数少ないからね、全員覚えてるわよ」
「じゃ、じゃあ彼の元の苗字を知っていますか?」
その時、今までにこやかだった坂本先生の顔は急に曇る。
「なんで、そんなこと知りたいの」
麗奈は、急に鋭くなった先生の目つきが辛くなり、一度視線を外した。だが、腿の上に握っていた拳を強く握り、視線を戻した。
「あの、実は……」
麗奈は、今までのこと、子供の時のこと、そして宙への気持ちを包み隠さず話した。
険しい表情だった坂本先生の顔は、だんだんとほころび始め、ついには、笑いをこらえるように唇をすぼめだした。
「そ、それでここまで来たの? 苗字を聞きに?」
「わ、笑わないでくださいよ。私本気で来たんですから」
坂本先生は顔を隠しながら少し笑い、天を仰ぐようにソファーに寄りかかった。息を整え、笑い涙を拭くと、肩の力を抜いて、また麗奈の顔を見た。
「そっか、あの稲村が恋か」
麗奈は顔が熱くなる。
「悪いけど。その事情を聞いても、稲村に、井上宙の事を教えることは出来ないの。個人情報保護ってやつよ。私たち教員は、むやみに生徒や教師の個人情報を教えることはできない。あんただって高校生なんだから、それくらい聞いたことあるでしょ?」
「一応。だからダメ元だったんですけど、あ~あ、やっぱだめか」
麗奈はソファにふんぞり返った。
「そうだな。ただ彼には優しく接してあげなさい。私から言えるのはそれだけだ」
麗奈が姿勢を戻すと、坂本先生は優しい瞳に戻っていた。
「知ってた? 稲村には結構ファンの先生が多かったんだよ」
「え?」
「稲村、夏休みの日記、毎日、超短編小説書いてきただろ」
「ああ、そうですね」
私は小学生の時、溢れ出る妄想を毎日、日記に付けていた。それを夏休みの間だけ、宿題のノートに書いてたっけ。たしかそれが評価されて、市の作文コンクールも出品したことがあったな。
「小三くらいからか? 毎年書いてきてて、あれは本当に面白かった。職員室で回し読みしてたくらいだ」
「え?! 恥ずかしいなぁ」
「今でも、書いてるのか?」
「一応……。でも賞とか引っかからなくて」
「すごいな、応募するくらいの作品を書いてるのか」
「いや、すごくないですよ。私みたいなワナビ、今いっぱいいるんですから」
「わなび?」
「賞を取ってない、もしくは応募しない小説書きのスラングです」
「ふ~ん。ワナビか」
坂本先生は腕時計を見ると立ち上がって腰を伸ばす。麗奈もつられて立つ。
「でも、ずっと疑問だったんだよ。どうして急に小説を書きだしたの? 私はお前が入学してきた時から知ってるが、小二まではそんな傾向微塵もなかったのに」
いつから……? 麗奈は立ったまま固まった。
そういえば、私はいつから小説を書き始めたんだっけ?
その時、またサルビアの花が頭の中で揺れた。いくら今は、宙のことに夢中だとしても、何か考えるたびに、同じような映像を思い出す自分に、麗奈は少し苛立ちを覚えた。
急にゴロゴロと雷の音が鳴りだし、窓に雨粒が付き始めた。
「え、雨? わあ、やば」
「なんだ傘持ってないのか」
「そうなんですよ。だってさっきまで晴れてたし」
「最近は天気予報もあてに出来ないからね。いいよ、こっちに来なさい」
そう言って坂本は、応接室を出る。麗奈が付いていくと、事務室から子供用の傘を数本出してきた。どれも絵柄が懐かしいものばかりだった。
「児童の忘れものだよ。もう何年もあるから卒業した子のだと思うけど、処分するだけだから、好きなの使いなさい」
「あ、ありがとうございます」
見たこともないようなパンダの柄を選び、受け取った傘を広げると、やはり小さい。しかし小柄な麗奈にはそんなに違和感がなかった。先生は靴に履き替え、自分の傘なのか、虹色のカラフルな傘を広げて門の方に向かう。麗奈も慌てて昇降口を出ると、先生は校門の端の小さな門の鍵を開けてくれた。麗奈は門をくぐり、先生の方に振り返った。
「会えて嬉しかったよ。小説頑張ってね」
「はい。先生もお元気で」
お辞儀をして手を振ると、麗奈は小学校を後にした。
小さな傘に雨粒の音が響く。六年間通った自宅への通学路をとぼとぼと歩く。
海浜公園に行く前に私服に着替えるか、このままいくか……。
ぼんやりと思っていた矢先、ポケットからラインのメッセージ着信音がする。麗奈はスマホを取り出した。
陸斗『今、どこにいる?』
麗奈『おや? 詩織と勘違いしてない? あたしゃ麗奈だよ』
陸斗『してねーよ。井上宙のこと調べてるんだろ?』
調べてる。その書き方だと、私ストーカーみたいじゃん。だが事実だ。
麗奈『だから?』
陸斗『ウチの二年のマネが、井上宙と同じ学童だったって言ってるけど、会ってみるか?』
思ってもいない角度からの情報に、麗奈は思わずスマホを顔に近づけた。
麗奈『練習は? 十八時までじゃないの?』
陸斗『雨で中止。初日だし今日は解散だって。で、どうする?』
麗奈『是非!』
少し間が開く。その二年のマネージャーと話しているのかもしれない。
陸斗『じゃあ、北口のファミレスに十六時でどうだ?』
麗奈『わかった。ありがとう』
すぐに時間を確認すると十五時ちょうどだった。
帰ってる時間はないか。
麗奈は、スマホで近くのバス停の場所を調べ始めた。
宙……。
麗奈の頭の中に、またサルビアの花と、宙の笑顔がちらついた。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。




