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第四話


 「フフフフブブブブ……」


 ぬるめの湯舟に口元まで浸かり、麗奈は宙との時間を思いだし、笑みが漏れだしていた。

 ついさっきまで麗奈は宙に数学の勉強を教えていた。彼は、車内で小さな折り畳み椅子に座り、二次関数のグラフを出す問題を見ながら唸っている。麗奈は車内に入る階段に腰かけて、自分のタブレットで次回作の構想を練っていた。


 「あのすみません。聞いてもいいですか?」


 「はい」


麗奈はすぐに狭い車内に入る。いろいろな甘い香りが美味しそうに漂っている。頭の中で、チョコや苺のソースの香りが、空中でピクシーのような精霊となって遊んでいる妄想が浮かぶ。だが今は、勉強を教える時間だ。麗奈はあふれ出る妄想を抑え、宙の前にしゃがみこむと、余計な事を考えず問題集を受け取った。


 「ああ、これはつまり、五〇〇円で一二○○〇個売れるクレープがあったとして、一円値上げすると三〇個売れなくなる。この時、売上を最大にするにはどうするか? という問題ですね」


 クレープの部分は『商品』と書いてあったのだが、宙にわかりやすくするために、クレープと書きかえた。そのことで、宙は眉間にシワを寄せて真剣に問題を見つめている。麗奈は自分のノートに数式を書いて見せる。


 「えっと、たぶん答えは、五十円値引きして四五〇円で売ると最大の六〇七五〇〇〇円になるというのが正解ですね。要するに二次関数でグラフの頂点を見つけるヤツ」


 「すごい。数学で、そんなこと解るんですか?」


 「解るっていうか、あくまで数字上の話ですよね。私、こういう問題っていつも変だなって思います。だって実際は、原価とか人通りとか、商品の魅力とか? その場にいるお客さん一人一人の気持ちが左右する話で、本当に四五〇円で売ったら大損害じゃないですか。こういうのって文章が泣いていると思うんです」


 「文章が泣く?」


 「だって、ここには本当の正解がないのに、数字上だけの合理的な正解なんて変です。私は、この商品を売っている人のことや、お客さんのことを想像してしまう。解き方を教わっているから解けるけど、そういう想像を排除して問題を解く。というのは非常に不愉快です。だって一方では国語でこの一文での作者の意図を示せとか、平気で問題でてくるんですよ。一個の人間を教育するのに、教科が違うからって、別々のこと教えていいんでしょうか」


 「確かに、自分でも値上げして売れないならクレープのトッピングを考え直すか、極端な話、場所を変えるかもしれません」


 「でしょう?」


 麗奈は、宙がずっと透き通るような瞳で、じっと自分を見つめていることに気がつき、急に照れだす。


 「稲村さんは、本当に小説が好きなんですね」


 無性に嬉しくなった麗奈は、思わず笑顔になり、恥ずかしくて顔をノートで隠した。


 「そ、宙さんだって、クレープ焼くために努力して、よほどクレープがお好きなんじゃないですか?」


 ノートを少し下げ、覗き込むように見ると、宙は顎を触り、どこか視線を彷徨っていた。


 「う~ん。自分のクレープに対する想いと、稲村さんの小説への愛は、次元が違う気がします。私はただ早く一人前になりたいという気持ちが強い。稲村さんの小説への想いほど、クレープを好きかと言われると、ちょっと自信がない」


 少し渋い表情をしている宙の顔を、麗奈は下から覗きこんだ。


 「それは、なんか変ですよ」」


 「は?」


 麗奈は立ち上がって車内をぐるりと見渡す。


 「趣味で小説を書いている十六歳の高校生と、高校も通信にしちゃってクレープ屋さんの会社に入っちゃった十六歳の男の子。客観的に見たら、宙さんの方が相当ぶっ飛んでますよ」


 宙が、また麗奈の顔を見てきた。


 「ぶっ飛んでて、素敵です」


 「そ、そんな! 稲村さんの方が」


 麗奈の言葉を聞いて、宙が顔を赤らめて、いきなり立ち上がった。だが恐らく十六歳にしてすでに一八〇センチを超える宙は、車内の天井に勢いよく頭をぶつけた。宙は痛そうに頭を抱えて座りこんだ。


 「だ、大丈夫ですか?」


 「大丈夫です」


 恥ずかしそうに、はにかみながら宙は麗奈の顔を見た。


 「稲村さんの方が、素敵です」


 素敵です……素敵です……素敵です……。


 その言葉が胸の奥で何度も反響し、現実感がふっと遠のいていく。雲の間から、まばゆい光とともに真っ白な階段が現れ、天使たちが小さなラッパを吹きながら麗奈の身体を持ち上げる。ベートーベン交響曲の第九の歓喜の歌と共に、麗奈は昇天していった。


 「稲村さん……稲村さん? 大丈夫ですか?」


 は! 嬉しすぎて妄想で天国に行くところだった! 


 「で、その問題の続きなんですが」


 「は? はい。二次関数でしたね。ハハハハ」


 麗奈は必死で笑ってごまかした。

 そんな二人のやりとりを、湯舟の中で繰り返し思いだしていたのだ。


 「ちょっと~、麗奈ぁ? あんたいつまで入ってるのよ。みんなお風呂待ってるんだからねー」


 麗奈の母親が、脱衣所から声をかけてきた。風呂の電源パネルを見ると、もう十九時半を回っていた。すでに一時間は湯舟に浸かっていることになる。


 ど、どおりでぬるいはずだ。


 「ごめん! もう出る!」


 麗奈は追い炊きのボタンを押し、湯舟から出た。脱衣所で身体を拭き、ピンクの縞柄パンツを履いて、さらに頭を拭きながら、曇り気味の鏡を見る。自分の姿に思わず手が止まった。


「小鬼だ、小鬼がおる」


 ボサボサの髪、ぺったんこの胸、幼児体形、そして何より、十六歳とは思えない童顔。ランドセルを背負っていてもおかしくない。縞柄のパンツを履いていると子供の鬼のように見えた。

同じ歳とは思えないほど背が高く、そして何故かわからないが、はやく一人前になろうとしている宙。そんな彼から、自分の容姿はどのように見えているのだろうか。

 麗奈は鏡の前で腕組みをしながら、自分を観察した。


どう見ても色気のあるような身体じゃねぇな……。


 「ちょっと、出たなら出たって言いなさいよ。お父さんだって帰ってから待ってるんだから」


 脱衣所に母親が入ってくる。目線が麗奈と全く同じだ。母親の胸やお尻をまじまじと観た。


 「ううむ。DNAには期待できん」


 「こら、なんか今、失礼なこと考えたでしょ!」


 怒る母親に肩をはたかれ、麗奈は脱衣所から追い出された。


 「今、なんつった?」


 麗奈は詩織の顔を見て、鳩が豆鉄砲を食らった。という使い古された表現を思いだした。

 次の日の朝、詩織の机の前で麗奈は勇気を振り絞り、詩織に質問をしたのだった。


 「だ、だからメイクってどうしてんの?」


 詩織は、麗奈の言葉に立ち眩みをしたように、よろめいた。詩織は中学の終わりごろから、ナチュラルメイクを始め、高校に入ってからは、薄いピンクの口紅もひき、抜群に奇麗になったと麗奈は感じていた。


 「あ、あんたの口からメイクなんてワードが出てくる日がくるなんて! どうした? まさか、いやまさかとは思うが、もしかして……」


 麗奈は俯き、もじもじと自分の手を揉んだ。


 「な、なに? なんていうか、私だって、大人の準備っていうか? ウチの親じゃ、ちょっと期待できないっていうか」


 詩織は麗奈の両肩をがっちり掴んで、顔をじっと見つめてきた。全てを見透かされたようで顔が熱くなり、麗奈はつい視線を外した。


 「く~!」


 詩織は、机越しに麗奈を抱きしめてくる。


 「教えたる教えたる! で、誰? まさか同じクラス?」


 「な、なんでそうなるんだよ」


 「当たり前でしょ。ターゲット次第でメイクも変わる」


 「え、そういうもの?」


 「そう。いやちょっと座って。山口! ちょっと席借りる!」


 詩織は、教室の隅で雑談をしている自分の前の席の持ち主に、大声で許可を取ると、麗奈を座らせ、顔を近づけてきた。


 「で、誰?」


 麗奈は、詩織の机の傷をなぞりながら、声を絞りだす。


 「誰っていうか、同じ学校とかじゃなくて、同じ歳で会社入ってクレープ屋さんやってる人で」


 「え、十六で働いてるの? バイトじゃなくて? たくまし!」


 「そうなんだよね。なんていうかあの人、先行ってるっていうか、大人びてるっていうか、だからなんかコッチも子供のままじゃっていうか」


 詩織は麗奈の手を握ってきた。


 「わかる。好きな人ってそういう風に見えるよね」


 「い、いや好きっていうか、そういう関係じゃないし。彼のその仕事に対する姿勢が、今の私には無くて小説の参考になるというかね。別に恋愛的にどうなりたいとか思ってるわけじゃないんだけど」


 「わかるわ~。近くにいるだけでいい。って思うよね」


 「そう、それ! だから嫌われない程度で……」


 「でもね。だんだん物足りなくなるの」


 麗奈は、詩織の顔を見る。詩織も麗奈の瞳を見つめてきた。


 「そ、そうなんか?」


 「そうだよ。結局、彼の気持ちが気になって仕方なくなって、何も手に付かなくなる。だからって、そういう二人のムードっていうか空気って、すぐにどうこうなるもんじゃないし、時間がいるのよね、切ないことに。究極、成就かフラれるかまで行かないと決着つかんのよ」


 「す、すげーな詩織。あんただって告白したの、陸斗が初めてだろ?」


 「告白はね」


 詩織は、フッと笑い、遠い目をしだした。


 そうだった。こいつは小学校の時から、好きだの嫌いだのと結構騒いでいた恋愛おばけだった。その度に当時の相手の偵察に、麗奈は駆り出されていたことを思いだした。

 ずっと迷惑と思っていたのに、今、この瞬間、なんとこの女が頼もしく思えることか!


 麗奈の瞳に映る詩織には白い翼が生え、後光がさして見える。


 「先輩!」


 「後輩!」


 麗奈は詩織と抱き合った。その時、陸斗が教室に入ってくる。こちらに気が付き、へらへらと近づいてきた。


 「オッス。なにやってんの? また新作の話か?」


 「陸斗くんおはよう。今は女同士の話なの。あとでね」


 陸斗は、表情を曇らせる。


 「なんだよ。隠し事かよ」


 詩織は、立ち上がって陸斗に近づくと、耳元で囁く。


 「陸斗くんとだって、人に言えない話いっぱいしてるでしょ。麗奈にだって言えないことあるんだよ」

 「そ、そっか。わかった」


 「また後でね」


 陸斗は耳を赤くして、自分の席に向かう。胸の辺りでちいさく手を振り、陸斗の目線が外れた瞬間に、肩にかかった長い髪をはらいながら、詩織はまた席に座る。麗奈はつい、詩織を凝視してしまった。


 「す、すごいな。もうコントロールしとる」


 「言い方」


 「お前ら、結局どうなったの?」


 「別に、今日は一緒に帰って、コンビニでも寄ろうかってなってるけど」


 「え、部活は?」


 「さぁ、一日くらい休んだって、どおってことないって言ってたけど」


 お、溺れとる。陸斗のやつ、メロメロじゃないか。高校生活を部活に捧げる覚悟はどこにいったのだ。ま、まぁ幸せなら良いのだが……。


 麗奈は、かすかな罪悪感に襲われた。


 その数時間後、麗奈はいつものように海浜公園行きのバスに揺られていた。


「見て見て、陸斗くん。あそこの歯医者に私五才から通ってるの」


「へ~。俺はモールの二階の歯医者」


「そうなんだ。じゃあ私もそっちにしようかな」


 麗奈の後ろの座席に、詩織と陸斗が並んで座っていちゃいちゃしている。麗奈は振り向いて咳払いをした。

 「おまえら、本当に付いてくるのか?」


 「何よ、相手見ないと対策案が湧かないじゃない」


 「あれ? 稲村まだ居たのか」


 麗奈と詩織は陸斗を見る。


 「どちらかと言うと、お前らがまだ付いてくるのかって感じだぞ。陸斗よ。というかお前はもう少ししっかりしろ」


 詩織が、突然陸斗の頬っぺたを触り、視線を合わせる。


 「いいの。陸斗くんは、詩織と一緒にいればいいの」


 「うん」


 陸斗の目は熱を帯びて詩織を見つめている。徐々に二人の距離が近づいていく。


 「こ、こら! 公衆の面前だぞ!」


 麗奈は慌てて顔を引っ込めて自分の席に戻って、両手で自分の顔を隠した。

 バス停を降り、公園の入り口まで辿りつくと、ずっと後ろをついてくる詩織と陸斗の方に振り返った。


 「あの、ほんっとうに遠くから見るだけでお願い。宙さんと私はまだそんな深い間柄じゃないというか、常連客と店員さんくらいな感じなの。車内に入っても勉強を教えてるだけだから、姿だけ見たら本当に帰ってほしいんだけど」


 詩織は麗奈に近づいてきて、肩を触った。


 「大丈夫だよ、わかってるから」


 詩織が微笑んでいる横で、陸斗は、話の内容を理解しているのか、いないのか、とにかく頷いていた。

不安は払拭できないまま、麗奈は公園に入った。横目で後ろを確認すると、二人は公園には入らず、詩織は手を振っている。


 麗奈は、ため息を吐いてキッチンカーの方に向いた。まだ一〇〇メートルはあるというのに、キッチンカーの中にいた宙が、こちらに向かって会釈するのが解った。

 勝手に頬が緩む。自然と麗奈は小走りになっていた。


 「こ、こんにちは」


 「こんにちは、稲村さん。今日も来てくれたんですね。ありがとうございます」


 「は、はい。帰ってから、やってみました?」


 「少しだけ。そのあとの二次関数の問題はなんとか解いてみました」


 「あ、そっち行きますね」


 麗奈は、車の背部を指さしてから移動しながら公園の入り口をチラ見した。詩織と陸斗の姿がすでに見えなくなっていた。


 もう確認して帰ったのかな? 


 胸を撫でおろして、麗奈はキッチンカーの扉を開ける。宙はやはり小さな折り畳み椅子に座っていたが、屈みながら立ち上がり麗奈にお辞儀をしてきた。コックコートの第一ボタンが外してあり、胸元が見えてしまう。麗奈は瞬間的にドキドキして俯きながら車内に入った。宙の手に、夏休みの宿題である問題集が見えた。


 「よろしくお願いします」


 「こちらこそ。あ、暑いですねこの中」


 「ああ、まぁそれは。焼き台とかありますし、中は小型の扇風機しかないですから」


 宙は、売り場にある透明の冷蔵庫から、ペットボトルの緑茶を出して渡してきた。


 「良かったら飲んでください。これは売り物じゃなくてスーパーで買ったやつだから心配いりません」


 「いやでも、それじゃ宙さんのが」


 「大丈夫です、沢山買ってありますから」


  ニコリを笑いながら置いてあったタオルで、宙は汗を拭った。


 「じゃ、じゃあ一本だけ。でも私もマイボトル持ってますから、おかまいなく」


 ペットボトルの蓋を開け、一口飲む。冷たい緑茶が口内に入ってくる。


 「すみませーん。マンゴーチョコクレープ一つください」


 「はい! いらっしゃいませ!」


 その声を聞いて麗奈は身体が硬直した。恐る恐る車から降りて、そっと客を見る。

 その瞬間、麗奈は口に含んでいたお茶を吹き出した。キッチンカーの売り場には、陸斗の肘に腕を絡めながら、宙をガン見している詩織がいた。


 な、なにやってんだよ!


 詩織が麗奈に気が付き、大きく頷く。


 なにがウンウンだよ! 帰ってよ! 


 麗奈が詩織にジェスチャーで帰ってくれと懇願するも、詩織は無視して宙の観察を続けている。だが悪いことに麗奈の大袈裟なジェスチャーを陸斗に気が付かれてしまった。


 「あれ、麗奈じゃん。なにやってんだお前」


 麗奈は、その場でがっくりと膝を落とす。麗奈は目を隠しながら、苦笑いをした。


 「あ、あれ~、麗奈ぁ。偶然だね~」


 ヘタクソか!


 宙を見ると、ちらちらと自分を見たり、詩織と陸斗を見ながらも真剣にクレープを焼いている。麗奈は売り場の方に回り、詩織の横に来ると宙に向かって頭を下げた。


 「あの、すみません。友達です。宙さんのこと話したらどうしても会ってみたいと聞かなくて」


 宙はクスリと笑いながらクレープにヘラを入れていく。


 「なるほど。大丈夫ですよ、麗奈さんのお友達なら大歓迎ですよ」


 「お、優しい~」


引きつった笑いをする詩織を麗奈は睨みつける。詩織は麗奈を見て小声で言った。


「ごめん。遠すぎて顔が見えなかった」


陸斗は、何を考えているのか、ずっと宙を見ている。宙はクレープを仕上げ、詩織にクレープを渡してきた。


 「八〇〇円です。少し生クリームをサービスしておきましたよ。二人はカップルですか? デートでこの公園にお越しの際は、また是非ご来店ください。こちらドリンク半額券です。当店、八月末日までこちらで営業していますので」


 「八月末日? じゃあその後は、どこかに行ってしまうんですか?」


 「はい。当社『アホウドリのクレープ屋さん』はキッチンカースタイルで営業しています。イベントもやっていますが、固定の場所で営業している場所もありますので、私はどこかに移動されると思います」


 移動……。夏の間というのは聞いていたが、よく考えてみたら宙とココで会えるのは、かなり短い間なんだ。


 まるで先ほど飲んだ緑茶がお腹の中でまた冷えはじめたように、麗奈は胸の中が締め付けられる。

 見越したように、詩織が腰に手を回してきて、力強く抱き寄せてきた。


 「あの、じゃあ。その後も買いに行きたいんで、連絡先交換してもらっていいですか?」


 詩織が麗奈に向かってウインクしてきた。そして麗奈のお尻を押してキッチンカーのカウンターに向かって押し出してきた。バランスをとって上を向くと、宙と目が合う。宙は顔を紅潮させた。


 「い、いいんですか?」


 「は、はい!」


 麗奈は慌ててスマホを出そうとして、持っていた緑茶のペットボトル落としそうになるが、詩織が見事にキャッチする。パニックになりながら、鞄を地面に落としてなんとかポケットからスマホを取り出し、ラインのバーコードを出す。


 「お、お願いします!」


 麗奈は両手でスマホを掲げて頭を下げた。しかし、ちっとも反応がない。ゆっくりと見上げると、宙は焦りながらスマホをいじっている。


 「す、すみません! やったことなくて」


 「あ、私そっち行きます!」


 麗奈が急いで、車の背部に回ろうとすると、詩織はケラケラと笑っている。


 「ありがとう」


 「いいってことよ」


 そう言葉を交わすと麗奈は車内に入って、宙からスマホを受け取り操作をし、自分のバーコードを宙のスマホで読み取って返す。麗奈がスマホを確認すると『新しい友だち』に『宙』と表示されていた。宙も同じ画面を見て、微笑んでいるのが見えた。宙とまた目が合う。宙は照れて白い歯を見せた。


 「よろしくお願いします」


 「はい」


 詩織が、カウンターに八〇〇円を置いて、ニヤニヤして言った。


 「公衆の面前ですよ」


 麗奈は恥ずかしくて思わず手で顔を隠した。

 その時だった。


 「いい気なもんだな」


 それは、十六年の歳月の中で、麗奈が聞いたことがない、体験したことのない感情の声色だった。物語を書く以上、感情には敏感で麗奈は喜怒哀楽以外にも自分の部屋には、表にして貼ってあるほどだ。しかし、憎しみや怒りとは違う、妬み、嫉みではない。この声色に乗っている意図が、一瞬で掴めない。


 ただ、真冬の曇り空で、乾燥したアスファルトのような、転んだら血が出る。冷たく硬い声だった。

 詩織と陸斗の隣に突然現れたその男は、紺色のワイシャツに藍色のサマージャケット、短髪にあご髭で、浅黒く小さめの顔が目立つような大きめの黒縁の眼鏡。まるでイケオジ系のファッション誌から抜け出たような人だった。その眼鏡の奥から、ただ喧嘩を売るように宙を見つめ、また言葉をぶつけてきた。


「まともに学校にも行かないで、クレープ焼きながらワイワイとお友達ごっこか?」


 麗奈にとって、あまりに異質な世界の言葉に、その男を認識することに時間がかかった。その男の第二声のタイミングで、初めて麗奈は宙の顔を見た。


 まただ。


 あのキラキラした潤い豊かな瞳から光が消えている。頬からは力が抜け、唇に少し力が入り、心なしか身体全体がこわばっているように感じた。宙のこの感じを麗奈は見たことがあった。


 「こんなの辞めて戻ってこい、宙。その歳から商売なんて始めたってロクな人生にならないことくらい判ってるだろ。今なら学校だって全日制に編入できる。沙耶香さんに当てつけのようなことを、いつまでやるつもりだ」


 宙の拳が、強く握られたのが目に入る。その瞬間、麗奈の中で何かが切れた。


 「はぁ?」


 麗奈は車から飛び出し、滑りそうになりながらも体制を立て直し、男の目の前に躍り出た。本当は蹴り飛ばしてやりたかったが、歯を食いしばって我慢する。男のオシャレスーツに胸があたるくらいに接近し、黒縁眼鏡の奥にある冷たい瞳を、睨みつけてやった。


 「藪から棒に、何なんですかアナタ。宙さんがどれだけの努力をしてココに立っているのか知ってるんですか? 暑くたってあんな分厚い制服着続けて、お客様を幸せにするためにって笑顔を絶やさないんですよ、彼は」


 夕暮れに麗奈が帰るとき、売り場を閉めたキッチンカーから漏れる灯りが、脳裏に映る。


 「毎日、毎日、何百枚分も用意された生地を、例え全部売り切れなくたって、最後まで使い切って練習してるんですよ彼は」


 先ほど宙が持っていた問題集を思いだす。何度も何度も消しゴムで、文字を消した跡が残り、黒ずんでいた。


 「その後、彼は帰ってから、ページが汚れるほど勉強もしてるんですよ……」


 男は麗奈の迫力に、一歩下がった。だが卑屈にも口角を上げて言い返した。


 「だから何だ。そんなの大人になったら当たり前なんだよ。職場でイチャイチャと彼女連れで仕事をしていて、何の説得力もない」


 麗奈は、無意識に男の胸倉を掴んでいた。目から自然と涙が溢れてくる。


 悔しい。人生にこんなに悔しいことはない。こんなにも理不尽な……、こんなにも人の努力が報われないことがあっていいものか。


こんな大人がいていいものか!


 「あたしらは十六だ! 大人じゃない! それにわたしは! 宿題を教えに来てるだけだ! うがった見方しかできねーのかオッサン!」


 男が更に一歩引いた。気が付くと、詩織と陸斗が、麗奈のすぐ横にいて男を囲うように立っていた。


 「な、何なんだ君たちは! どこの学校だ!」


 その時、公園の入り口から女性が走ってきた。その女性は一昨日、宙が『戸籍上の母親』と言った人だった。女性は、男の背中まで辿りつくと、いきなり男の背中を両手で叩いた。


 「やめてっていったでしょ! なんで来たのよ!」


 「し、しかし沙耶香さん、彼のことで毎晩苦しんでいるじゃないか」


 「苦しんでなんかないわよ! 寂しくて悔しいだけなの。ここで、こんな子供たちの前で全部言わせる気? 冷静に自分を見てよ」


 その言葉で男は、辺りを見回し、沈黙した。うつむいてため息をつくと、沙耶香と呼んだ女性の手を握った。


 「俺はただ……」


 「わかってるから、もう行きましょう」


 静かにうなずくと、男はバツが悪そうに踵を返して公園の出口の方に向かって歩き出した。女性は男を見送るようにしていたが、やがて麗奈に近づいてきて、麗奈の手を握ってきた。


 「あなた、宙のお友達なのね。宙と仲良くしてあげてね」


 麗奈は握られた手を、思いきり離した。


 「そんなの、当たり前です」


 女性は瞳を潤ませ、微笑んだ。後ずさりをするように下がると、深々とお辞儀をして男の方に歩いていった。

 静かに、生ぬるい風が吹き抜ける。さっきまで聞こえなかった蝉が鳴き始めたように感じた。


 「なんなん? あれ」


 詩織が眉間にシワを寄せて、小さくなった男と女性の後ろ姿を見ている。陸斗はキッチンカーの方を見ていた。パタンと音がして麗奈もキッチンカーを見た。

 宙は突然、売り場の日さしを閉じた。休憩中と書かれた小さなパネルが揺れている。麗奈は慌てて車の背部に回った。締まり切っていないドアから、暗くなった厨房が見える。

 隙間から漏れ出た光が、折り畳み椅子に座り、顔を覆っている宙を、かろうじて見せてくれた。麗奈は、ドアノブにそっと手をかける。


 「宙……さん」


 「ごめんなさい、入らないでください。ちょっと今、顔をお見せしたくない」


 はじかれたように、麗奈はドアノブから手を離した。


 「ありがとうございます。稲村さんが言ってくれたこと、本当に嬉しいです」


 麗奈は視線を落とした。何度も公園に来ているせいか白いスニーカーは少し緑色に汚れていた。

 「あの人たち、やっぱり……」


 すこしの間と、鼻をすするような音がして、椅子が軋んだ音がした。


 「はい。戸籍上の親です」


 戸籍上……。たぶん比喩じゃないんだ。


 麗奈は自分のシャツの胸元を掴んでいた。彼がどんな人生を歩んできたのか、慮った。


 「でも、あの人たちの言うことにも一理あるかもしれません」


 「え?」


 「私は、確かにさっき、少し浮かれていた。これでは一人前だなんて認めてもらえないのも無理はありません」


 「そんなことは」


 「すみません。今日の所は、いったん帰ってもらえますか? 大丈夫です。もう少しで復活しますが、今日のところは……」


 麗奈は、天の岩戸の伝説を思いだす。宙の気持ちが、ダイレクトに流れ込んできたように、麗奈の心も曇っていく。それは、まるで太陽が隠れてしまったかのような感覚だった。

 でも麗奈には、これ以上、宙にかける言葉がなかった。


 「わかりました。また、明日来ますね」


 踵を返すも、麗奈は後ろ髪を引かれて、もう一度キッチンカーから覗く暗闇を見た。

 しかし、物音もしない。

 麗奈は諦めて詩織と陸斗の方に向かった。


 「いいの?」


 麗奈が歩きだし、二人も後をついきた。


 「うん。今日はもう帰ったほうがいいと思う」


 「あ~! なんかやらかしちゃったかなぁ私」


 詩織は顔を覆いながら天を仰いだ。


 「そんなことない。詩織と陸斗がいて、心強かった」


 「そっか、それならいんだけど。でも彼、なんか複雑そうね」


 詩織はマンゴーチョコクレープを一口食べて美味しそうに頬を動かしている。


 「うん」


 宙は、いったいどんな人生を送ってきたのだろう。


 陸斗は、まだキッチンカーを見ながら歩いていた。詩織が陸斗の胸を肘で突く。


 「ちょっと、よそ見してると危ないよ」


 「ああ」


 明日は、いつもの笑顔に戻っているだろうか。

 麗奈は、自然と速足になっていた。

 公園の入り口まで来て、陸斗がまたキッチンカーを見て立ち止った。


 「なあ、さっきの」


 「さっきのって?」


 「クレープ焼いてたヤツ」


 大丈夫、きっと大丈夫。

 二人の会話が遠い。いつのまにか詩織と陸斗より、麗奈は何歩も先に公園を出ていた。


 「宙だよな? 井上宙」 

 

 麗奈は振り返って、陸斗を凝視した。陸斗は両手を上げて頭の後ろにしていた。


 「え?」


 「小学校の時の転校生だよ。俺、同じクラスだった。あ、お前らとはまだ会う前か」


 いのうえ?


 麗奈の頭の中に火花が散る。思い出せそうで、思い出せない何かが引っかかる。

 ふと、あの秘密の場所に咲く、真っ赤なサルビアが脳裏に映る。


 『忘れないで、僕の名前は……』


 あの塗装工事の養生に囲まれた花壇の中に、麗奈と宙は確かにいた。

 そして、何かを約束した。


 『忘れないで、僕の名前は……』


 もどかしくて、麗奈は自分の頭を殴った。


 違う。井上じゃない。彼の名前は……。


 だが、どうしても、その先を麗奈は思いだすことが出来なかった。


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