第三話
その夜、麗奈は自分の部屋で開いたノートパソコンの前にいた。キーボードの上に手を置いたまま動かない。ふと画面上の時刻を見ると、すでに二二時を回っていた。
「え、また一時間も経ってる……」
物語を書こうと、夜七時にはパソコンを開いたのだが、一向に筆は進まなかった。気を抜くと、夕日に照らされた宙の顔と、彼との会話を繰り返し思いだしてしまうのだ。その度に胸のあたりがふわりとなり、幸せな気持ちになってしまう。
「お、恐るべし恋心。噂には聞いていたが、ここまで人間の思考を支配するものなのか。そりゃ世間の女子は恋バナに花が咲くはずだ」
パチン! 視界に火花が散る。麗奈は自分の頬を叩いた。
「作家になるんだろ! 初恋ぐらいで動揺すんな私!」
客の事を考える。宙が教えてくれたことを活かすんだ!
麗奈は、スタンドのライトを灯し、部屋の照明を消した。真っ暗の空間のなか、ぼうっと光るパソコンの画面だけが見える状態になる。そして、思いついた事を、どんどん文字に起こしていく。脱線して宙の事が脳裏にチラつくたびに、頬を叩く。やがて麗奈は執筆に集中し、カタカタとキーを叩く音だけが部屋に響いていった。
次の日の朝、通学の途中、いつものバスの座席に座ると、麗奈はつい目蓋を閉じそうになり、自分の太ももをスカートの上からつねった。駅まではたったの一五分ほどで着いてしまうからだ。麗奈には一度バスで寝過ごし、また自分の家の最寄りまで行った経験があった。
結局、昨日は気合いで書き続け、布団に入ったのは今朝三時過ぎだった。バスを降りたあとも、歩行中に人に当たったり、電車のドアに足先を挟んだり、学校の靴箱前のスノコにつまずいて、靴箱に頭からぶつかったりと、ふらふらした足取りで、やっとのことで教室まで辿りついた。
先生が来るまで二〇分はある……。教室の時計を見たあと、麗奈は、自分の席に座ると鞄を机に置く。そして、そのまま鞄に顔を埋めた。
身体がふわふわする。目を閉じるとあまりの心地良さに、まるで鞄に自分の顔が沈んで溶けていく感覚に陥る。まわりの雑音が段々と遠ざかり、耳に入ってくる音は自分の寝息と心臓の鼓動だけになっていく。もこもこの羊のお腹の上で眠っている自分のイメージが頭の中に浮かぶ。気持ちよく眠っていると、誰かが頭を優しくなでる。麗奈は薄目を開けて、その人物を見た。バターと生クリームの香りと共に、柔らかい微笑みを浮かべる宙が麗奈を見つめていた。
「そら……」
「そら? 誰だそれ」
ハッと、麗奈は我に返り、上半身を跳ねるように起こした。詩織が不思議そうな顔で麗奈を見下ろしている。
「また、何かの小説のキャラの名前か? 作家志望の妄想女さん」
詩織の発言には答えず、よだれが垂れていることに気が付き、ポケットからハンカチを出そうとしたが、そもそも入っていないことを思い出し、麗奈は鞄の中を探す。すると、詩織がポケットティッシュを差し出してきた。麗奈は、破顔して見せ、もらったティッシュで口を拭いた。
「今朝の短編、良かったよ。短かったけど今までで一番よかった」
眠気が一瞬で拭き飛び、麗奈は立ち上がって詩織に顔を近づけた。
「ど、どのへんが良かった?」
「そうね。ウサギが亀に言うじゃない? 『ホントはずっと好きだった! 君のために俺は早く走れるようになったんだ!』ってトコ泣いた。ずっと意地悪だったウサギが、本当は亀のことが好きで好きでたまらなかったって設定良いよ。島に来る津波を予測して亀に少しでも早くなって欲しかったから、厳しく当たってたって、朝から電車の中で私、涙腺ヤバかったよ」
「でしょ~! あのウサギの切ない感じ出すのに時間かかったのよ」
詩織は、改めて麗奈の頭を撫でてきた。
「一皮むけたじゃん麗奈センセ―」
その時、陸斗も麗奈と詩織に近づいてくる。
「なになに、今朝のウサギと亀の話か? あれ良かったよなぁ?」
詩織が陸斗を見ると、陸斗は顔が赤くしながらも、ニカっと笑った。詩織も同様に赤くなる。
「仲が悪かったウサギと亀が、津波に乗ってやってきたシャチ将軍と共闘するところ、燃えるよな! 亀が甲羅でシャチの噛みつきを防いだ瞬間に、鍛え抜かれたウサギのキックがシャチの眉間にヒットした所は最高だった! 今までで一番面白かったよ」
最初頷いて陸斗の言葉を聞いていた詩織は、驚いて陸斗の顔を二度見した。
「は? 何の話してるの?」
「え? 今朝の麗奈の短編の話だろ?」
麗奈は、思い切りガッツポーズを決めて高笑いを始めた。
「ムハハハ! 大成功だよ! 二人ともホントにありがとう!」
詩織は、何かに気付いて、目を見開いた。
「うそ。もしかして別々の作品書いたってこと?」
「そう。最近、私の妄想力を爆発させただけでは、二人とも楽しめなかっただろ? だから、陸斗と詩織それぞれに合った物語を書いてみたんだよ。読者が読みたい作品を書く。作家として大切な力だと気づいたのだよ~ムフフ」
陸斗は、ポカンと口を開けた。
「お前、すげーな。一晩で二話書いたのか?」
「そうだよ。今朝の三時まで書いていた」
詩織と陸斗は目を合わせた。その時、チャイムが鳴る。担任が入ってくる時間だ。陸斗は、自分の席に戻るべく、踵を返しながら麗奈の背中を叩いた。
「お前、きっと慣れるよ小説家、マジで」
詩織も無言で微笑みながら何度も頷き、自分の席に戻っていった。
嬉しくて、麗奈は顔の緩みが止まらない。
宙の顔がまた浮かぶ。
ありがとう、宙。
頭の中で妄想の宙が『麗奈の力になれたのなら、こんなに嬉しいことはない』と答える。
麗奈は、思わず両手で頬を包んだ。
担任は教室に入ってくるなり、麗奈と目を合わせた。
「なんだ稲村、具合悪いのか、顔真っ赤だぞ」
みんなの視線を浴び、麗奈はさらに頬に熱を帯びるのを感じた。思い切り顔を横に振り、両手を必死にぶんぶんと振って見せたのだった。
そのあとの授業は、さすがに集中できず、うたた寝状態で受けていた。先生に咳払いされる場面もあったが、なんとか乗り切り、麗奈は帰りのホームルームまでこぎつけた。
担任の先生が箱で持ってきたプリントの束を、人数を数えながら一番前の席に置きはじめる。
「夏休みの宿題だ。言っとくが学校は今週末まであるからな。やり始めても構わんが学校にはちゃんと来いよ」
と先生が言うと、クラス中が、くすくす笑いだす。
いよいよ数日で夏休みか……。
麗奈は、前から回ってきた宿題を後ろの席に回す。
朝から行ったら、宙はやっぱり迷惑かな……。
教室の窓から見える入道雲から、ゆっくりと飛行機が出ていくのが見えた。
セルフレジで缶コーヒーのバーコードをスキャンすると、ピッという音と共に赤い光が鏡面から発っせられた。麗奈はスマホのQRコードで支払いを済ますと、鞄の中に缶コーヒーとレシートを入れ、スーパーから出た。右に曲がると、通りの先には海浜公園の樹々が見える。二分も歩けば、もう宙のいる『アホウドリのクレープ屋さん』に着いてしまう。
「や、やっぱりお礼からだよね。宙、いや宙さんのおかげで小説上手く書けたんだから」
麗奈の妄想の中の宙が、そっと頬に触れ微笑む。『お前の力だよ。でも俺の言葉がキッカケになったんなら嬉しいかな』コックコートの胸元が、少しはだけている。
「ひゃ~!」
麗奈は声を出して、自分の頭をポカポカ叩いた。
暴走するな私! 宙、いや宙さんは『俺』とか言わねーし!
「お礼だけ。お礼だけ言えれば良し」
一つ咳払いをして歩き出す。公園の入り口がどんどん近づくにつれ、麗奈の鼓動は早くなり、妙な緊張が身体を支配していく。あと一歩で公園の敷地という所で、近くの大木に隠れるようにして、売店の前に停まっているキッチンカーを伺う。客はいない。
ちょっと待て、こう毎日来るのってどうなんだ? キモイって思われないのか? キモイっていうか怖いよな。でもまだ二〇〇円返してないからって理由で行けば、いやアレはもういいですって言うのよね。そうだ取材だ、取材させてくれって言ったんだった。そうだよ。私は取材に来てるんだ。宙さんの仕事ぶりを執筆に活かすって話だった。缶コーヒーだって、それのささやかなお礼っていうことで、けして、宙さんに会いたいっていうアレじゃなくて。
『俺は会いたかったよ』
妄想の宙が、頭の中で、麗奈の顎をくいっと持ち上げて囁いてくる。麗奈の妄想力は無駄に汗の香りまで再現する。麗奈は悶えながらその場で震える。
「変態か!」
思わず麗奈は、自分に対して大きな声を出す。その時、麗奈の声に驚いたように入り口を挟んで向かい側の大きな樹の辺りから音がする。麗奈が視線を移すと、やはり木の陰に誰か人がいる。
あれ? あの人……。
それは、昨日もこの公園の外周でフェンス越しに宙のキッチンカーを見ていた年配の女性だった。女性は麗奈と目が合うと、覚えていたのか、軽く会釈をして立ち去ってしまった。
「あれ、あの人やっぱりどこかで……」
麗奈はその女性の後ろ姿を見届けたあと、再びキッチンカーを見た。女性と会ったことで、麗奈は少し平常心を取り戻した。
宙にとって、何でもないことだったかもしれない。だけど私は昨日、執筆において大きな前進をした。それのお礼を言わないことは、きっと失礼なことだ。
麗奈は大きく深呼吸をすると、気合いを入れて拳を握りしめた。そして大股で歩き、キッチンカーに近づく。一〇メートル、七メートル、三、二、一!
「こ、こんにちは! 昨日はどうもありがとうございました!」
キッチンカーの売り場の前で、麗奈は大きな声で、そして超絶早口で挨拶をした。だが次の瞬間、身体が硬直する。
キッチンカーの中にいたのは、初老で白髪のオジサンだった。長い白髪を後ろでポニーテールにしており、マスクをしている。麗奈の挨拶に、意味がわからず驚いている様子だ。
「いらっしゃいませ、お嬢さん。昨日ってことは、リピーターさんかな?」
麗奈は身体中の血液が顔に集まり、爆発しそうになった。
「あの、宙さん……昨日の店員さんは今日お休みですか?」
白髪のオジサンは、目だけニヤリとして体を少し乗り出した。
「ああ、もしかしてお嬢さんか、昨日と一昨日、ウチの商売を助けてくれたっていう人は。宙くんから聞いてるよ。ごめんね。今日、彼は登校日で休みなんですよ」
「あ、そうなんですね。……って登校日? 宙さん、高校行ってるんですか?」
「はい通信でね。中間試験が芳しくなくて苦労してるみたいで……おっと個人情報だな。ごめんなさい、今のは忘れてください」
ちゃんと高校も行ってるんだ。麗奈はなぜか、少し安堵した。
「あの、オジ、いやアナタはもしかして……」
「ああ、私はオーナーですよ。こうして従業員が休みの日には、交代要員で店に出るんですよ。店の現状も知れますからね」
オーナーは、風貌には似合わず、澄んだ奇麗な瞳で麗奈を見つめていた。麗奈は何を言っていいか頭の中を検索していると、オーナーはまた微笑んできた。
「お嬢さん、どなたか存じないが、もし嫌じゃなかったら宙くんと友達になってやってください。ウチの会社は年上の人間ばっかりだし、同世代の友人の話をあの子から聞いたことがないんだ。通信制だからクラスメートもいないみたいだし、一人前になることばかり考えて、真面目すぎるというか、全然遊ばないんだよね、あの子。見ていて心配になる」
真面目……ピッタリ。麗奈は少し緊張の糸がほぐれて、口をほころばせた。
「友達か、本当は友達なんです私達。小学校の時の幼なじみなんです。少しの間だけだったので、どうも宙さんは覚えてないようですけど」
オーナーの瞳が見開かれ、光を帯びたように見えた。
「そうなのかい?」
「私も、ちゃんと名前を思いだせなくて、宙は覚えてるんですけど。苗字がどうしても。あの聞いてもいいですか? 彼、苗字は何て言うんですか?」
オーナーは一瞬、口を開いたがすぐに閉じる。
「ごめんね。今のご時世、従業員の個人情報を軽々しく言えないんだよ。明日は普通にここに居るはずだから、本人から聞くといいですよ」
「はい、そうですね。すみませんでした。失礼します」
麗奈は、お辞儀をして去ろうと後ろに振り返る。だがすぐ足を止めた。
「あ、そうだオーナーさん。スマホ決済使えるようにしてください。そうしたらもっと買えるのに。私、お小遣いとかみんなスマホか交通カードなんです。初日なんて、現金足りなくて、宙さんに貸してもらったくらいで」
「ああ、例のインスタグラマーだったクレーマーの話だね」
オーナーは、腕を組んで拳を口に当てると、少し考えた。そして、おもむろにキッチンカーの窓を親指で指す。そこには、スマホの形のシールが貼られていた。
「使えますよ、ウチ。スマホ決済も、カード決済も」
「え?!」
麗奈は驚いて、そのシールを良く見た。よく見ると小さな字で『タッチ決済OK』と印字されている。オーナーはマスクを取ると、白い口髭を揺らしニヤリと笑った。
「たぶんね。宙くんは食べてもらいたかったんですよ。あなたに」
宙の顔が脳裏に浮かぶ。
再び会釈をして、麗奈は車から離れていった。
もしかして宙は、私のことを覚えていたのだろうか。
麗奈の心に、急に霧がかかる。
強い日差しが、揺れる木陰を黒く映す。
覚えていたのなら、どうして忘れたフリをしたんだろう。突然、あの『秘密の場所』に来なくなってしまったことと関係があるのだろうか。私は、昔からハッキリとモノを言う性格だ。幼い頃の私が、知らないうちに彼を傷つけてしまったとか……。
鞄の中で缶コーヒーが何かに当たって音を立てた。
明日は渡せるだろうか……。
昨日まで漂っていた甘い香りとは対照的に、濃い潮風が心のもやを掻き交ぜる。海浜公園の敷地を一歩出て、麗奈は一抹の不安が心に広がり、目をつむって立ち尽くす。
『またお待ちしています』
夕陽で赤く染まる宙の笑顔が、瞼に蘇る。
宙の心境はわからない。でも、あの時の彼の言葉は絶対、ただの営業トークじゃない。それに、もし、私のことを覚えていて、自分の焼いたクレープ食べてもらいたかったってことは、嫌じゃないってことだよね。 だからきっと、宙は明日も私を待ってくれてる……というより、少なくとも、私は会いたい!
突然、麗奈は走り出した。
「そうだ! 考えたって仕方ない! 私は会いたい!」
肺から酸素がどんどん無くなり、苦しくなる。それでも、足は止まらない。何か得体の知れないエネルギーが身体中を巡っている。
海浜公園の外周を夢中で走っていると、帰りに乗る予定のバスが停まっていた。そのまま麗奈はバスに飛び込んだ。交通カードを読み込ませ、空いている席に座る。体が熱い、汗が噴き出す。なんだかお腹の中から笑いが込み上げてくる。
この私が、ここまで恋愛で悩むなんて……。
他の乗客に見られないように、鞄で顔を隠し、こっそり笑う。いつもと違い夏休みの宿題が沢山つまった鞄はゴツゴツしていた。顔を上げ、海浜公園を窓から見る。ガリガリのお爺ちゃんがジョギングしている。お爺ちゃんがみるみる若返り、たくましい体で太ももをあらわにして走っている宙の姿に変身した妄想をする。キラキラした汗を飛ばして、宙が麗奈に向かってウインクしてくる。麗奈は、つい吹き出してしまった。
「イカレてる、私」
クレープ屋さんに通信制の高校か。頑張ってんなぁ、宙の奴。のほほんと妄想して小説書いてる私とは、全然違う。
バスの乗降口が閉まる。運転手が出発のアナウンスを始めた。
なにか、力になってあげられないだろうか……。
麗奈は、いつの間にか目を閉じていた。体が座席と一体化していく。バスの振動が心地良く体を揺らす。段々と身体の感覚が無くなり、浮いているような気持ちになる。
なにか……宙のために……。
雑音も、広告アナウンスも、自分の寝息すらも、麗奈の意識と共に、遥か彼方に消えていく。寝不足だったことと、寝過ごすとまた駅まで行ってしまうことも、頭の中によぎったが、もはや麗奈に、この睡魔に抗うことは出来なかった。
「こんにちは!」
次の日、突然売り場に現れた麗奈に、宙は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに表情を緩めた。しかも、少し頬が紅潮したように見える。そんな宙の表情の変化で、麗奈の胸の中で、小さな天使たちが踊りだし、ラッパを吹きながら自分の心臓を弓矢で貫いていた。
「こんにちは、いらっしゃいませ。なんか昨日もいらしたって社長から聞きました。すみません、不在にしていまして。ちょっと中間試験の追試があって」
「ちらっと聞きました。追試だったんだ。無事終わったんですか?」
宙は、恥ずかしそうに帽子の上から脳天をかいた。
「いやぁ、ホントにギリギリなんとか。仕事も覚えることが沢山あるもので、つい勉強は後回しになってしまって。でも今度は夏休みの宿題があるんですよね」
キタ!
麗奈は、キッチンカーの売り場に乗り出し、宙に近づく。
「あの! 私も夏休みの宿題、あるんです」
「え? まぁそうでしょうね。そりゃ全日制も通信も宿題は、全国ありますよ」
麗奈は、鞄に手を突っ込むと試験の答案用紙を数枚取り出し、宙の目の前に見せた。どの答案も九〇点以上だ。宙は、なんだかわからず、狭い車内で上半身をのけ反らせた。
「こ、これは?」
「私、こう見えても、そこそこなんです」
「そこそこ?」
「だから、そこそこ頭良いんです」
「すみません。お話の意図が……」
「ですから! お、教えられます、勉強。一緒に夏休みの宿題やりませんか!」
宙は口をポカンと開けて固まったまま、瞬きを何回もする。沈黙に耐えられず、麗奈は答案用紙を持ったまま、目をつぶった。その瞬間、プーっと宙がマスクの下で噴き出す音が聞こえる。そして、大声で笑いだす。
「ハハハハ! なんですかそれ、勉強の押し売り?」
麗奈は、顔が火照って、答案用紙を引っ込める。
「だって、他に恩が返せないから」
「恩?」
「この間の『お客様の事を考える』って宙さんのアドバイスで、上手く小説が書けたんです。友人それぞれに読みたい小説を想像して書いたら、二人ともすごく良い評価をくれて。これで次回作の長編にも、弾みがつきます。全部、宙さんのおかげです。ありがとうございます」
宙は、笑い涙を拭きながらマスクを外す。目尻がまだ笑っている。
「それで、宿題を一緒に?」
「ダメですか? 私としては、取材にもなりますし、恩も返せるし、一石二鳥ってやつなんですが」
宙は黙りこくって、じっと麗奈の目を見つめると、付けていたマスクを車内のゴミ箱に捨てた。そして売り場の上部の棚から、新しいマスクを取り出し耳にかける。そして小さなシンクで手を洗った。
「ダメじゃないですけど、私は休みなんてほとんど無いですよ?」
「たぶん、そう思って。だから宙さんは、仕事の合間にココで少しずつ宿題を解いていくつもりでしょう?」
宙は少し目を見開いた。
「よくわかりましたね。実は今も、ここにあります」
宙は足元から、数学の問題集を取り出した。
「見せてもらっていいですか?」
「え、どうぞ」
問題集を受け取って見せてもらうと、だいたいわかる感じだった。麗奈は頷きながら、問題集を返して、親指と人差し指を付けてオッケーマークを作る。
「大丈夫そうです」
「でも、来週から夏休みに入るから、観光客も増えるし、公園の市民プールの客も入ってくるから忙しくなってきますよ」
「なんなら手伝います」
「いや、だって稲村さんだって小説書くんでしょう? こんなところで時間使ったら、申し訳ないですよ」
麗奈は鞄の中からタブレットを取り出す。
「ここで書けます」
「でも、あとだって……」
「あと、なんですか?」
宙は瞳をキョロキョロさせている。明らかに困惑しているように見える。麗奈は視線を落とす。
や、やばい、強引すぎたかな。やっぱり、いくらなんでもウザかったかな。私やっぱり人との距離感ちょっと変なのかな……。お願い、嫌わないで!
麗奈は祈るように思いきり目を瞑っていた。
「本当にいいんですか?」
「え?」
おそるおそる瞼を開けて見上げると、宙は、微笑んでぺこりとお辞儀をしてきた。
「実は本当に困ってたんです勉強。私、本当にバカで、ネットとかも上手く使えないし。勉強とか聞ける人いなくて。あの是非、よろしくお願いします!」
また、胸の中が解けていくような幸せ感覚に見舞われる。麗奈は自分の顔の緩みを止められなかった。
「こ、こちらこそ! よろしくお願いします」
「それにしても、この間の私の言葉くらいじゃ、稲村さんの負担が割に合わないなぁ。何かお礼をしないと」
「いいんです。私、宙さんの力になりたいんです」
やば! ストレートに言いすぎ?
反射的に出た言葉を麗奈は、瞬間的に後悔した。だが、宙はまた頬を染めて、麗奈の瞳を見つめてきた。麗奈は身体と心が満たされ、軽くなっていく気がした。
な、なんだこれ、死ぬ、見つめられただけで、幸せすぎて息できない……。
「すみませーん。苺バナナクレープ二つください」
麗奈の後ろから、チワワを連れた二十代のカップルが、声を掛けてきた。
「い、いらっしゃいませ! 承知しました」
宙は、カップル客に笑顔を見せると、作業をすぐ始める。
麗奈は、キッチンカーの前から、跳ねるようにどいた。振り向くと、女性の方がニンマリとして微笑んで、麗奈の顔を見ている。
絶対、聞かれたヤツじゃん、これ!
恥ずかしくて死にそうだったが、精一杯、愛想笑いを作った。手早い作業で、宙はクレープを作っていく。前より少し作業が速くなった気がした。
「ありがとうございます。一四〇〇円です」
支払いを済ませ、女性はクレープを受け取る。麗奈は、会話の続きをしようと、また売り場の前に移動した時、宙は遠くを見つめていた。
目の奥に影が潜み、頬の筋肉が硬くなっている。少し前とは違い、胸の奥の渋みが出たような顔になっていた。
はじめて見る表情だが、麗奈の心に冷たい何かが流れ込んでくる。麗奈は振り返り、宙の視線の先を探した。
そこには、昨日も一昨日も見かけた年配の女性がいた。宙と麗奈の視線に気付いたのか、また女性はどこかに消えてしまった。
「あの人、昨日もいましたよ。お知り合いですか?」
冷静を装いながらも、麗奈は言いようのないイライラを抱えはじめる。麗奈がキッチンカーの方に振り返ると、宙は、後ろを向いて手を洗っていた。
「いえ、知らない人です」
そんなわけないでしょ。
いつもニコニコしている宙を、あんな表情にさせるなんて、絶対なにか因縁があるとしか思えない!
「私が、ガツンと言ってきましょうか? 営業妨害ですとか、警察呼びましょうかとか、なんでも言いようがあります。今ならまだ遠くに行ってない。いや、行ってきます!」
麗奈が踵を返して足を踏み出した瞬間、後ろ襟を掴まれる。振り向くと、宙が売り場から、身体を乗り出し、長い腕を伸ばして掴んでいた。宙の顔が近くにあり、麗奈は顔が熱くなる。
「いいです!」
「で、でも」
「保護者です」
「は?」
「戸籍上の母親です」
お母さん?!
麗奈は絶句して口を開ける。宙は襟から手を離して、お辞儀をした。
「ごめんなさい、嘘ついて。たぶん心配して見に来てるんでしょう。ちょっと色々ありまして」
宙はぎこちない笑顔を作っていた。宙が困っている。そう感じ、麗奈は冷静を取り戻した。
「す、すみません。つい頭に血が昇っちゃって」
「いえ、稲村さんは行動的なんですね」
お世辞なのはすぐにわかっていたが、麗奈は顔がついニヤついてしまう。
「え、ええ? そうかなぁ」
宙は車内に掛かった壁時計を見た。もう四時を回っている。肩を回しながら宙は足元の冷蔵庫を開ける。
「今日は、入りが少なくて生地が余りそうです。良かったら授業料代わりに練習がてら一枚焼きます。食べてくれますか?」
「いや、何言ってるんですか! 買います!」
「いや、本当にいいんです。焼きの練習もしなきゃなんです。それに、私の宿題のために来てくれるなんて、私が気兼ねしちゃいます。あまり高い商品は出来ませんが、是非、受け取ってください」
「こ、困りますよ」
「社長から、余った生地は練習で焼いてから捨てろって言われてるんです。食べてくれないなら、ゴミ箱行きなんですが」
「え、じゃあ本当に練習?」
「練習です」
宙は口元を緩めて、じっと麗奈を見つめてくる。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて」
「ほいきた」
古めかしい言い回しをして、宙はクレープを焼きだす。すぐにバターの香りが漂ってくる。真剣な表情をする宙から、麗奈は無意識に視線を外せなくなっていた。
「ここの社名『アホウドリのクレープ屋さん』て、どうしてアホウドリって言うのか社長に聞いたことがあるんです」
「社長? ああ昨日の」
麗奈は白髪のポニーテールのオジサンを思いだした。
「アホウドリって漢字で『信天翁』って書くんですって。天から降ってくる魚をずっと待っている鳥って意味らしいんですけど、社長いわく『ただ待ってるだけじゃない、待ち構えてるんだ。どれだけ暇でも、一日にたった一人のお客様でも、逃さず良い仕事をすれば、きっと次も買いにきてくれる。商売ってのはそういうもんだ』って教わったんです」
「へ~。なんだかいい言葉」
宙はヘラを使ってクレープを焼き台から剥がし、素早く生クリームを絞る。
「私は、早く一人前のアホウドリになりたい。あの人が心配しないくらいのアホウドリに」
さっとクレープを織り込むと、容器にさっと入れ、宙は麗奈に差し出してきた。いつもの豊潤な香りが鼻を幸せにする。
あの人とは、社長さんじゃなくて、お母さんのことだろうな。
麗奈は受け取りながら、すぐ掃除をする宙を見つめる。
さっき、彼は『戸籍上の母親』と言っていた。同じ十六歳で、通信制の高校を選び、クレープ屋のキッチンカーで修行をする。どんなことがあったら、こんな選択肢を選ぶのか。いつか教えてもらえる時が来るんだろうか。
そんな事を考えながら、クレープをかじると口の中に甘味とミルクの香りが広がる。
「おいひー!」
麗奈の顔を見て宙が満足そうに目を細める。麗奈は、勿体ないが幸せを急いで飲みこみながら、キッチンカーの入り口の方に移動し、ドアを開けた。宙は少し驚き、麗奈を見る。
「じゃあ、早速始めましょうか。何からやりますか? 国語? 数学?」
宙は目を丸くして、首だけ引いた。
「え、今からですか?」
「宿題なんて、はやく終わらした方がいいんです」
「たしかにそうですけど、本当に行動的ですね」
「じゃあ、さっきの数学の問題集から行きましょう。お客さん来たら、お呼びしますから、まずご自分で解いてみて、わからない箇所があったら声をかけてください」
「はぁ」
苦笑いをしながら、宙は車の中で小さな折り畳み椅子に座り、ごそごそと筆記用具を鞄から取り出している。
きっと彼の宿題を採点する先生は、甘い匂いでヨダレが止まらなくなるだろうな。
そんな想像をしながら、麗奈はキッチンカーの階段に座り、クレープをまた頬張った。
横目で見ると、身体を屈めながら、口を閉めて問題を解きはじめる宙がいる。どこかで蝉が鳴き、海風が身体を通りすぎる。静かで平和な海浜公園のプールの前で、麗奈は幸福に包まれていた。




