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第一話

 ※本作は一話あたり8000~10000字程度の長文構成です。

お時間のあるときに、ごゆっくりどうぞ。 

 

 真っ青な空に、もくもくと入道雲が生えている。どこからか、風鈴の音が聞こえてくるが、風は感じない。七月の日差しは拷問のようで、陽炎がゆらめくアスファルトは、ホットプレートさながらだ。歩行者信号は赤のまま動かない。

 稲村麗奈はハンディファンの出力を最大にして、胸元に風を送った。爽やかに服の中を風が通り抜ける。

その時、道路を挟んだ向かいの歩道を、高校生のカップルが歩いているのが目に入った。


わからん——。


いわゆる、手を恋人つなぎをしたそのカップルは、お互いの目を見つめ合い照れるように笑いあった。


どうしたら、あんなに他人に夢中になれるのだろうか。ご丁寧に、この酷暑の中で手まで繋いで……。


カップルは、これ見よがしに仲睦まじい姿をひけらかしながら、視界から消えていく。麗奈は大きく首を傾げた。


なぜ若さは有限だというのに、恋愛にうつつを抜かしていられるのだろう。どうしても理解できん。まぁ、私の方が変人なのだろうが……。人は人、自分は自分ということか。


横断歩道の前では、汗を拭いたり、ハンカチで顔を扇ぎながら待っている人達が、朝から苛立ちを見せている。通りの向こうから、一台のバスがゆっくりと近づいてくる。


私は、こちらの方が性に合っているな。


麗奈は目を閉じ、この異常な暑さで、バスのタイヤが急に溶けていくシーンを妄想した。

バンパーもボディも座席も溶けていく。なぜか運転主の服も、乗り合いの客の服も溶け、

ハンドルとパンツだけになった運転手は、自分の足で走り出し、水着だけに変わった客も、それに続くように隊列を組んでついていく。そして、突如道路に現れた海に、みな飛び込んでいく。

麗奈は、吹き出して笑いそうになり口元を隠した。


「ふ、やっぱり妄想のが面白い。ていうか、なんでハンドルだけ残ってるのよ」


麗奈は、体を折り曲げ声を出さずに笑う。そのとき、バスの乗降口が目の前を通り、自分の姿が映し出された。

口を隠して薄ら笑いをしている、なんともだらしない表情をした女子高生がそこにいた。ショートカットで脳天から寝ぐせがピンと跳ねており、おまけに、シャツがスカートにちゃんと入っていない。

麗奈は、猛烈に顔面に血が集まるの感じ、スカートにシャツを入れ始めた。

ふと、交差点の奥にある団地が目に入る。


『ここは、ぼくら二人の秘密の場所だね♪』


幼いころの友達の声が、鼓膜に蘇る。


数年前、この団地は長い期間、外壁塗装の改修をしていた。その時、足場と養生によってぐるりと団地は囲まれ、一階のベランダとその下の花壇の間が、丁度トンネルのようになっていた。 仲の良かった男の子と、そこを秘密の場所とした。二人だけの秘密の共有、最高にドキドキして楽しい思い出……。麗奈はその子のことが大好きだった。毎日集まり色んな話をした気がする。

あの時も、こんな暑い夏だった気がする。


でも、不思議なことにその友達の名前を、どうしても思い出せない。


たまに、ふと脳裏に蘇るあの楽しかった子供時代。 あの子はいったい誰だったのだろうか。


どうして思い出せないんだろう。


思いだすたび、小学校の卒業アルバムを開くが、見つからない。

信号が青に変わった。待っていた人々が一斉に歩きだす。麗奈も擦れた横断歩道に足を踏み出した。団地が、少しずつ視界から通りすぎていく。最後にちらりと花壇を見る。誰が植えているのか、眩しいほどに真っ赤に咲いたサルビアが、暑さに負けじと揺れていた。

あんなに見事に咲いているのに、どうして私は……。

無意識に、麗奈は胸元を掴んでいた。


どうして私は、こんな寂しくなるのだろう。


 上藤沢高校は、廊下に冷房は入っていない。窓は開けているが空気は動いておらず、熱したゼリーのような空間の廊下を進み、麗奈は一年一組の教室に入る。その瞬間、天井からひんやりとした冷房の空気が降りてくる。


 「ふわ~」


魂から出たような声を出しながら、麗奈はしばしそのスポットで涼む。タオル地のハンカチで額と首の汗をぬぐっていると、別の生徒が入ってきて同じように、変な声を出した。ぷっと笑って、麗奈は自分の席に向かった。席に座ると同時に、クラスメートの雨宮詩織が近寄ってきた。


 「オッス麗奈、読んだよ、小説」


 麗奈は、詩織の顔を見上げると勢いよく立ち上がる。


 「どうだった?」


 「オモロかったよ。だけど、なんていうかどっかで読んだことあるかな~って感じ」


 「え~! またそれか~」


 詩織は、顎を触りながら眉を寄せ、困ったような顔になる。


 「なんかゴメン。厳しめにって話だったから素直に言ったけど大丈夫?」


 「大丈夫、大丈夫! で? どこいら辺が読んだことあるって思った?」


 「どこがって言われると全部なんだよね。言っとくけど面白いんだよホントに。でもなんか全部どっかから引っ張ってきた感じなんだよね。あ、このシーンはあのマンガだ、このシーンは先週のドラマか、みたいな」


 「あちゃ~お見通しか~」


 「プロ目指してんだろ。読者なめんな。だいたい麗奈、バンドなんかやったことないし、楽器だって弾けないんでしょ? なんで青春バンドモノ書いたんだよ」


 「は、流行ってるから? いやワナビの動画でさ、ワナビってのは作家志望者のことなんだけど。出版業界には流行があるから乗った方がいいみたいの言っててさ」


 雨宮は嘆息して腕組みをする。


 「あんたさー、それでバンドモノのマンガとかアニメとか見まくっただけでしょ。丸わかりだよ。やるんならちゃんと取材しなよ。ウチの高校だって軽音部あるでしょ」


 「一応、話は聞いたんだよ。少しだけなんだけど……」


 遠くの席から、渡辺陸斗も近づいてくる。陸斗も詩織も小学校からの付き合いだ。


 「なになに、先週の小説の話か?」


 詩織は、腕組みを解いて手を後ろに回した。心なしか頬が色づく。


 「陸斗君も送ってもらったの?」


 急に詩織は前髪をいじりだす。


 「ああ、面白かったよ。稲村はスゲーよな。あれで何作目だっけ? 俺あんなに何万文字も打てねーわ」


 「陸斗はどうだった? おせじはいいから、ズバリとお願い」


 陸斗は、首を傾げつつ天井を見ると、少し唸る。


 「ま、あれだなリアリティが無いってヤツだな」


 直球の言葉に、麗奈は顔がこわばるのを感じ、椅子にどっかりと座ると、そのまま机に突っ伏した。


 「結局それかよ~」


 詩織が、そっと麗奈の肩に触れてきた。


 「あたしらまだ高一なんだから、経験少ないのは仕方ないじゃん。流行りもわかるけど、取材してあれなんだったら借り物じゃない題材書いてもいんじゃない。まぁ頑張って色々新しい事やってくしかないね」


 頬に冷ややかな机の感触が伝わる。


 「はぁ~。疲れるわ~」


 教室の引き戸が開かれ、大袈裟にガラガラと鳴る。担任が教室に入ってきたのだ。わらわらと教室内の生徒が、それぞれの席に散っていく。


 「頑張れ、じゃね」


 「右に同じ」


 詩織は、陸斗の腕に肘をあてると、陸斗はニカっと笑顔を返している。二人とも自分の席に座った。担任は、談笑をしながら出席を取り始める。麗奈は顔を上げると窓を見た。白いカーテンが、強い日差しを和らげている。


 「リアリティねぇ」


 麗奈は、深いため息をついた。

 麗奈が作家を志したきっかけは、小学三年生の頃、興味本位で開いた小説サイトの短編を読んでからだった。

無名の作家のその作品は、電車に乗り合わせた少女が、ある駅で出会う見ず知らずの男子に一目ぼれする話だった。少女のときめき、息づかい、体温まで感じられ、文章を読んだだけで、まるで体験したかのような感動を得た。


こんな風に人を感動させてみたい。


そうして麗奈はどっぷりと執筆の世界にはまって七年が経つ。友達付き合いは、あまりせず、図書館で本を読み漁り、映画やアニメを見まくって青春をかけて執筆をしまくっている。小説サイトにも投稿した。だが閲覧数は伸び悩み、誰も読んでくれないことがストレスになった。 

やがて投稿を止め、公募を始めた。だが、未だに賞はおろか二次選考を行ったり来たりしている。今回二人に読んでもらった作品だって、本気で書いた小説だった。

でも、素人の二人が同じ事を言っている。夏の高校生限定の新人賞に応募しようかと思っていたが、手直ししても結果が見えたような気がした。


リアリティの事を考えているうちに、いつの間にか授業は終わっていた。

談笑する者もいるが、ほとんどの生徒が教室からいなくなる。詩織も陸斗も、自分達の部活に行ってしまった。麗奈は文芸部に入っているが、この高校の文芸部員は読み専が多く執筆側の人が意外に少なかった。最初の頃は顔を出していたが、最近はさぼり気味だ。

廊下に出ると、またモアっとした熱気が身体を包む。すぐに汗が額に滲んできた。鞄の中からハンディファンを出してスイッチを入れたが、動かない。


「充電切れ? マジかー」


ハンディファンをしまうと、麗奈は背中を丸めて階段に向かう。汗で引っ付いたシャツが気持ち悪く、すぐに背筋を伸ばして背中のシャツを引っ張り、階段を降りる。


『まぁ頑張って色々新しい事やってくしかないね』


詩織の言葉が、麗奈の頭の中で文字になった。


「はぁ。落ち込んでても仕方ないか。行動、行動! 新作に向けて、とりあえず帰り道でも変えてみようかな」


上履きから靴に履き替えると、まだまだ照り付ける太陽の下、麗奈は大股で歩きだした。


気が付くと、麗奈は駅ビルの本屋で小説の文庫本を立ち読みをしていた。


「は! いけない。暑さのせいか電車を降りたら、いつもの本屋に!」


しかし、新刊のインクの匂いは鼻孔に心地よい刺激をもたらす。麗奈にとって、この匂いは新しい冒険と体験の香りであり、脳の中で得体の知れない快楽物質が出るものだった。帰ろうとしても、平積みされた面白そうなタイトルが次々と網膜に飛び込んでくる。


いかん! 目の毒だ! 


麗奈は硬く閉眼し、エスカレーターの方に近づく。


「いらっしゃいませー。あ、いつもありがとうございます。六九三円です」


「え?」


麗奈は意味がわからず開眼すると、そこは本屋のレジだった。そして麗奈の手には、いつも追っている作家の最新の文庫本が握られていた。顔がひきつる。


お、おそるべしワナビの能力~! 目隠しをしても押しの新作を手に入れてしまうとは! お、己の欲望が怖い……。


「スマホ決済ですか? 現金ですか?」


「ス、スマホで……」


ポケットからスマホを出すと、麗奈は震えながらQRコードを提示した。

 カバーをかけてもらった文庫本の新刊を、そっと鞄にしまうと麗奈は走ってエスカレーターに向かった。


 街中は駄目だ! 刺激が多すぎる! 


 駅ビルから出ると、麗奈は、停車し乗降口を開けて乗客を待つバスに飛び乗った。

 息を整え、後部の窓側の席に座る。独特のバスの匂いを感じた。何も考えずに乗ったが、割と麗奈の家と近い路線だった。


 終点まで行っちゃうと、さすがに家から遠くなりすぎるか……。


 路線図にある『海浜公園前』という停留所が目にとまる。


 「小学校の遠足以来、行ってないな……」


 視線を窓の外に移すと、街を白く照らす太陽は、まだまだ高い位置にいた。


 麗奈の住む街は海が近い。この公園は広く、大きな駐車場も三か所完備し市民プールまで備え、イベントも多く、一角には交通公園まで備えている街の名所の一つだ。観光客も多い。

 麗奈は、犬の散歩をしている若いカップルや、カラーボールで遊ぶ子供たちを横目にしながら、久々に芝生に入った。


 「ふ、私ほどの妄想オバケにかかれば、どこに居ても創作のアイデアは出るものね」


 散歩されている犬、あれはパグね。だが実はだたのパグではない。そう、いにしえに封印された魔女の姿、元の体に戻るために人間の魂を集めなければならないのだが、彼女は今の飼い主を愛してしまった……。


 あの子供たちの投げているボールは爆弾。投げ続けていないと爆発してしまう。楽しそうに投げているが、実はあの子たちの心中は必死。誰か一人でも落としてしまえば、この公園ごと火の海。そして、それを仕掛けた犯人が見ているのよ……。


広い芝生の広場の中、こんもりと丘になっている場所にのぼり、麗奈は寝転がった。

でも、これじゃダメなんだよなぁ。


ちょっと面白そうなことなら、麗奈はいくらでも無限に思いつく。でもそれをいざ物語にしていくと、なぜかつまらなくなる。詩織の言った通り、どこかで読んだような、どこかで観たようなものになってしまう。


 麗奈はため息を一つ、ついた。


 芝生の青い香りと、潮の匂いが入り混じる。子供の笑い声、カラスも鳴いている。近くを通る海岸線の車の音も鼓膜を刺激した。空にはジェット気流にかき回されたような雲が、早めに移動している。東の方が濃い紺色になり、日暮れの準備をしている。

 麗奈はスマホをポケットから出すとAIを起動させ音声モードにした。


 「ねぇ、リアリティって何?」


 『リアリティとは、人それぞれの視点や経験、価値観によって異なる独自の現実のことです。ある人にとってリアリティとは……』


 最後まで聞いていられず、麗奈はAIを終了した。


 「経験……」


 麗奈は背中を上げて、暗転したスマホに映った自分を見る。


 「なんだそれ、じゃあ異世界転生小説家は異世界行ったんか、ミステリー作家は人殺しなんか。そんなわけあるか!」


 大きな声を出していたのか、近くを散策していたお爺さんが、麗奈を見た。恥ずかしくなって愛想笑いを浮かべ、麗奈は立ち上がってお尻をはたいた。


 「は~あ、帰って。新刊読もうっと」


 海浜公園は広く、何か所も入り口がある。麗奈は歩いて帰ることを決意し、入園した交通公園側ではなく、商店街に続く出口に向かって歩きだした。

 だが、突然漂う魅惑的な甘い香りが、麗奈の足を止めた。

 市民プールの売店の前に、ピンク色のキッチンカーが一台止まっている。麗奈は急に空腹感を強く感じた。


 間違いない。これはクレープ屋さんだな。でもこういう場所のって結構割高なんだよね。


 財布を取り出して中を確認すると、お札はおろか硬貨も百円玉が三枚しかない。


 スマホ、使えるかな……。


 近づくにつれ、甘い香りが強く鮮明になっていく。瑞々しい苺や、とろけるチョコレート、そしてなにより、バターと砂糖の焼けるこの豊潤で抗えないエロス的な誘い。麗奈の口の中は潤い、もはやクレープを受け入れるためだけに存在していた。


 どんな人が焼いているんだろう。


 麗奈は、小太りでフワフワした金髪の優しそうな笑顔を浮かべるイタリア系のオジさんを思い浮かべる。

キッチンカーの正面に回ると、看板に『アホウドリのクレープ屋さん』と書かれていた。

 車内では、想像と違い、赤いスカーフを巻いた背の高い若い男の店主が、ハンチング帽を深く被り、屈みながらクレープを焼いていた。待っていた髪の長い女性客のつま先は、カツカツと何度も石畳をタップしている。苛立ち、というよりすでに怒っているように麗奈には見えた。


 「あなたね。クレープ一つに何分かかってるのよ」


 「す、すみません」


 低音ボイスの店主は、帽子に手をかけ頭を下げる。女性客は、スマホをちら見して大きく息を吐いた。

 感じわる! 麗奈は思わず女性客を見つめてしまった。その視線に気付いたのか、今度は麗奈を睨みつけてきた。


 「何見てるのよ!」


 「別に、順番待ってるだけですけど」


 女性客は、小さく舌打ちをする。麗奈はびっくりして無意識に目を見開いてしまった。


 「お嬢ちゃん、ココ遅いわよ。新人みたいだけど、経験も少ないのに一人でやらせてるなんて、どうなってるのかしらね、この会社」


 まるで周りに聞こえるような声だった。

 経験?

 麗奈にとってその言葉は今、逆鱗ホットワード一位だった。


 「お言葉ですけど、新人だろうが玄人だろうが、良い仕事にはある程度時間もかかると思いますけど。ちょっとオトナゲないんじゃないですか?」


 しまった! 麗奈は言った後で後悔した。

 女性客は、ひん剥かれたように目を見開き、こめかみに血管が浮き出していた。歯ぎしりをしながら、麗奈に近づくと、突然手を振り上げた!

 麗奈は衝撃に備え、目をつぶって首をすくめる。

 バチン! 肉を叩く鈍い音が響く。


 あれ? 痛くない……。


 おそるおそる目蓋を開けると、コック服の取れかかった赤いボタンが揺れている。

 殴られたのは、クレープ屋の店主だった。殴られた反動でハンチング帽がズレてアッシュの天然パーマが揺れている。頬が赤くなり、白い肌が際立っていた。

 若い。麗奈は瞬間的にそう思った。

 女性客は、我に返って一歩、後ずさりをしていた。

 店主は、痛みなど微塵も見せず、女性客にニコリと笑顔を見せた。そして手に持っていた出来立てのクレープを女性客に差し出す。


 「お客様、 本当にお待たせしました。すみません」


 優しい店主の声に、女性客はビクリと体を硬直させた。


 「修行中の身なので、一生懸命調理していてもどうして遅くなってしまって。でも時間がかかるということが、こんなにお客様を苛立たせてしまうなんて、本当に勉強になりました。お代は結構です。どうぞお持ちください」


 女性客は、我に返ったように顔が青ざめ、震える手でクレープを受け取ると視線を落とす。


 「ごめんなさい」


 小さな声で謝ると、女性客は踵を返して足早に公園の出口に歩いていく。店主は、遠ざかる女性客の後ろ姿が見えなくなるまでお辞儀をしていた。


 「ふう。大丈夫でしたか?」


 店主は背筋を伸ばすと、またニコリとして麗奈を見た。改めてしっかりと立つと店主は大きく、麗奈は見上げるほどだった。

 頬の赤みが増し、少し腫れはじめている。

 麗奈は怒りが戻ってきて、無意識に自分のスカートを思い切り掴んでいた。


 「なんで! どうしてあんな客にサービスするんですか! 倍取ったっていいのに!」


 店主は麗奈の言葉に一瞬驚き、そしてまた微笑む。


 「いや、本当にお待たせしちゃったし」


 「待たせたって、何分ですか」


 店主は頭をかきながら恥ずかしそうに笑う。


 「実は、一回焦がしちゃって十五分くらい……」


 「それくら……」


 いや、待て、十五分? それは長いかも。


 麗奈は咳払いして、肩の力を抜く。


 「にしても、今どき暴言吐くってのはさ、カスハラってやつじゃん」


 店主は、ハンチング帽を被り直し、女性客が去った方向を眺める。


 「きっと、ここに来る前に嫌なことでもあったんですよ」


 なに言ってるんだこの人。お人好しすぎる!


 いつのまにか赤くなった太陽の光が、店主の顔を染めた。口元が優しく緩んでいる。


 「少しでも」


 琥珀色の瞳が乱反射している。美しい宝石のようで、つい麗奈は言葉を失う。


 「私の仕事で、少しでも幸せになれるといいんですが」


 ドキリ。その言葉は、麗奈の心臓を掴まれたように、息が止まる。


 私は……。


 麗奈は思わず胸元で拳を握りしめていた。


 私は、ここまで読者のことを考えていただろうか……。


 店主が、麗奈の顔に視線を移す。


 「おっと、お待たせしました。いらっしゃ……」


店主は麗奈の顔を見て、かすかに瞳を見開いた。そして、麗奈と完全に目が合う。

 ビリッ。その時、麗奈は背筋に電流のような感覚が走る。


 この人、見覚えがある! 


麗奈は店主の顔をまじまじと見た。だが頭の中で、今まで会った人を検索しまくっても、出てこない。


 誰? 誰だっけ?


 心の中で何かが引っかかり出てこない。そして、店主の胸元のネームプレートが、麗奈の網膜に映りこんだ。


 『宙』一文字だけ、ネームプレートにはただそれだけが刻まれていた。


 宙……そら……!


 麗奈は瞳を見開き、もう一度、しっかりと店主の顔を見つめた。視線が絡み合う。店主も同じように麗奈を見つめていたのだ。

 公園のスピーカーから、十七時を知らせる夕焼け小焼けのメロディが流れはじめる。

 そのメロディが、フラッシュバックのように麗奈の脳裏に、真っ赤なサルビアの花を映し出した。そして、どんどん、景色が流れていく。団地のベランダの下、塗装工事の養生シート、ベランダと花壇の間に出来たあの夏のトンネル……。


 『ここは、ぼくら二人の秘密の場所だね♪』


 温かい潮風が、勢いよく二人を通り過ぎる。キッチンカーのラミネートのメニューがパタパタと音を立てた。


 「そら、宙だよね? ほら小学校の時、一緒に遊んだ……」


 宙と呼ばれた店主の瞳孔が開き、キラリと光る。

 記憶の中の映像が、今まで思いだせなかったシーンが、なぜか鮮明に、そして映画のように麗奈の頭の中に蘇っていく。あの時の大好きな友達の顔と、店主の顔が重なる。

しかし、なぜかフルネームが思いだせない。麗奈はもどかしくなり、拳を思い切り握っていた。


「ああん、もう! えっと苗字なんだっけ?」


そう言った麗奈は、店主の顔を見て驚いた。

 その言葉を聞いた瞬間に、宙と呼ばれた店主は瞳から光が消え、視線を落としたのだ。


 あれ?


 それは、落胆であったと、麗奈は感じた。


 「人違いじゃないですか? 私に女友達なんていませんし」


 急にまた帽子を深くかぶるような仕草を見せ、車内に戻った宙は鉄板にバターを引き出す。また豊潤な香りが漂いだす。麗奈は売り場に近づき、下から宙の顔を覗いた。まじまじと見つめると、宙の顔が赤くなっていく。


 「いや、絶対間違ってない。私だよ。麗奈、稲村麗奈!」


 「しつこいですね。人違いですって。ご注文をお願いします。お客さん!」


 麗奈は、口を尖がらせて一旦、視線を外した。心が軽くなっていった。ずっと引っかかっていたモヤモヤが晴れた気がした。


 「覚えてないか……。子供の時だもんね」


 宙はため息をつくと、焼けた生地を横の作業台に移す。


 「ご注文ないなら、閉店の時間なんですが」


 「あの、スマホ使える、ますか?」


 「すみません。ウチは現金のみです」


 麗奈はガクリと首を下げた。


 「あの現金は三〇〇円しかなくて、ここ一番安いのでも……」


 「生クリームのみで五〇〇円です」


 「だよね~。ごめんなさい」


 麗奈は苦笑いを返し、首を垂らして帰ろうとすると、宙は大きく嘆息した。すると手早い手つきで、生地に生クリームを入れて包み、更にナプキンで包むと、社内から長い腕を伸ばして麗奈の鼻先にクレープを差し出した。


 「い、いいですよ。焼いちゃったし、さっき迷惑かけちゃったし。特別に三○○円でお売りします」


 「だ、ダメだよぉ! さっきの人のだってお代貰ってないのに赤字になっちゃうじゃん!」


 「いいんです。私はホント新人なので。社長に怒られるのも慣れてますし」


 「そんなの本当にダメだよ! じゃあ、貸しってことで! 明日もここに来る?」


 「え、まぁ夏休みは、この公園担当なんで」


 「じゃあさ、明日に差額を返しにくるよ。約束する、ね?」


 宙は片眉を上げて、耳の上を掻く。


 「い、いいですよ。期待しないで待ってます」


 宙の口元は、少しばかりほころんでいた。その表情で、麗奈は無性にに嬉しくなる。そして、キッチンカーのカウンターに三○○円を丁寧に並べて置いた。


 「じゃ、また明日ね、これ頂きます!」


 宙の手からクレープをもらうと、そのまま麗奈はパクリと一口食べた。口の中に濃厚な甘みが広がり、濃いミルクとバターの香りが、鼻腔で華麗な舞踏会をはじめる。麗奈は思わず目を閉じた。


 「ん~、おいひ~♪」


 麗奈表情を見て、宙が噴き出して笑いだす。


 「鼻、生クリームついてますよ」


麗奈は顔が熱くなりながら、指ですくって舐める。微笑みを返して、キッチンカーから離れた。


 「ありがとうございました!」


 背後から宙の声かけに、麗奈は、振り返って手を振った。

 クレープを頬張りながら、出口に向かって歩く。上空には鮮やかに赤く染まった大きな雲が早く流れている。

 麗奈は、ついニヤニヤしてしまう。だが、それが宙に再開出来たからなのか、クレープが美味しすぎるからなのか、自分でもわからない。


 「すごいなぁ、宙。同い年なのに、こんないい仕事してて」


 その瞬間、麗奈はピタリと足を止めた。


 え? 同い年? 


 振り返って、キッチンカーをもう一度見る。車はそこにあるものの、もう売り場は収納され、スキマからわずかに光が漏れているのみだった。


 え? 高校は? いやてか、車の免許って十八歳からだよね? あれ?


 首をかしげながら、またクレープをかじる。

 まぁ、いいか。明日また聞いてみようっと♪

 口の中に広がる甘い幸福感に浸りつつ、麗奈はまた歩きだした。



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