春歌の栞
私がその古本屋に寄ったのは、外出の目的の服屋に行った後の軽い暇潰しのようなもので、その本を手に取ったのは棚から出て置かれていたがゆえのなんとなくで、それを開いたのは表紙に書かれていたタイトルが今放送中のドラマと同じだったからだ。
そしてそれを買ってしまったのは、中に挟まっていた紙に書かれた……
「風速の美穂の浦みの白つつじ」
「読まれているのは万葉集ではなさそうですが」
ビクッとして本から顔を上げる。
服を買ってスーパーに行くだけのつもりの休日が、本を買ってその足で偶然見つけたカフェに行き買ったばかりの本を開くというお洒落な休日みたいなことになぜかなったわけだが、雰囲気のいいカフェのかっこいい店員さんは万葉集の知識まであるらしい。
さすが都会は違うな。
「すみません、つい」
店員さん……いや、他に人がいないので店長さんかもしれない……が、メニュー表を渡してくれるので受け取って開く。
カウンター席に座った理由であるテーブル席にいた人たちは入れ替わりのようなタイミングで帰っていった。
「いえ、こちらこそすみません」
「いえいえ、他のお客様の雑談される声より小さな声でしたから」
特に何か飲食したくて入ったわけではないけど、メニュー表の薔薇の和紅茶とローズタルトのスイーツセットが思わず目に留まる。
大学で引っ越してきた街だけど、二年目になって未だに最低限しか出歩かないので、近くにこんな場所があったなんて。
いやでも雰囲気のお洒落さに騙されると駄目なんだ……以前飲んだローズティーは香りはすごい甘いのに味は苦いというギャップがすごくて微妙だった。
いやいや、でも薔薇の和紅茶とローズタルトの並びはさすがに。
ハッ、季節の花のスイーツセットを見つけてしまった。
こっちも気になる。
「これって、今だと何なんでしょうか」
店員さんに積極的に声をかけられるタイプではないが、他のお客さんがいなくて、カウンター席ですぐそこにいて、さっきやり取りもしていたので、あまり躊躇せず尋ねられた。
メニュー表を指差しながら聞いたので、すぐ質問内容はわかってくれたようだった。
「春は、お飲み物はたんぽぽコーヒーでスイーツは桜のロールケーキをご用意してます」
お洒落ー。
でもなぁ、こういうのは結局無難が一番みたいなところはあって。
「たんぽぽコーヒーって飲んだことないんですけど、味はやっぱりコーヒーそっくりなんですか?」
「うーん……正直言うと、コーヒーっぽい、ですかね。香ばしい風味はありますが、ウーロン茶や麦茶に似てるなんて言う人もいますね。コーヒーより苦味が少ないので飲みやすいとおっしゃる方がいる一方で、お茶にしては苦いですし、エディブルフラワー、食用花全般に言えることですが癖があって人を選ぶところは」
すごい詳しく教えてもらえた。
問答無用ですすめず、苦手かも、の方を言ってもらえると信頼感が湧いて逆に一回飲んでみようかなみたいな気になってくるのはなぜだろう。
そんなに高い値段でもないし、こういうのも経験かなみたいなところもある。
「癖がある飲み物なので、ミルクと蜂蜜を入れてカフェオレにもできますよ。だいぶ飲みやすくはなりますね」
それが決め手だった。
「じゃあそれでお願いします」
「かしこまりました」
「さっきのって、万葉集なんですか?」
自分がカフェの店員さんとおしゃべりしている状況が、自分でちょっと不思議だ。
「ええ、確か三巻に収録されている歌ですね」
「三巻……?」
「ああ、万葉集って実は二十巻まであるんですよ。だから百人一首みたいに全部は覚えてないですね。収録されている歌の数は四千以上だったかな」
「……四千」
「それ、今放送しているドラマの原作ですよね? 和歌が出てくるような話なんですか? 現代のミステリーだと思っていましたが」
「本じゃなくて、本に挟まっていた紙に書いてあったんです」
そう言って見せる。
あ、いい香りがしてきた。
確かにコーヒーっぽい香ばしさがある。
「新品じゃなさそうですから、以前の所有者が栞代わりに挟んでいたんでしょうか」
「でももう一枚あるんです」
ぺらぺらっとめくってもう一枚のところを開いたら、ひらっと一枚テーブルに落ちる。
「……もう二枚ありました」
「さすがに、三枚は……買い取るときにお店の人が気付きそうですが。そんなに小さな紙でもないですし」
「ですよね」
「小竹の上に来居て鳴く鳥目を安み……それも万葉集ですね」
「あ、そうなんですか?」
まじまじと文庫本サイズから二回りほど小さな紙切れに書かれた一文を見る。
「綺麗な紙ですね。適当にメモに使っていた紙が紛れ込んだ、という感じには見えない」
「和歌も綺麗に紙の真ん中に書いてますしね」
「まるで清書したようですね」
「買った後に、そもそもこんなの紛れ込んでるのおかしいって単純なところに気付いたんですよね。最初はちょっと興味を引かれて、今見てるドラマの原作だし、百円で安いしで買ったんですけど。買う前に気付いてたらお店の人に聞いたのに……」
「え、百円だったんですか?」
「あ、はい」
裏に貼られた百円のシールを見せる。
「まだ綺麗に見えますけど」
「あれ、確かに」
ぺらぺらとめくって、中も綺麗で、首を捻る。
「古本屋に売った人じゃなくて、古本屋の人のイタズラでしょうか。イタズラという表現も違和感がありますが」
「……何なんだろう」
いっそ帰りに聞きにいってみようかなんて考えながら、もう一枚あったテーブルに落ちた紙をひっくり返す。
こちらは名刺サイズだ。
「え?」
紙には和歌ではなく【K・K】とだけ書かれていた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
わータンポポの花びらが一枚浮かんでる!
お洒落ー!
ストローで一口飲んで、苦味と甘さの絶妙さに感動する。
確かに普通のカフェオレとはちょっと違う感じがするけど、飲みやすくて美味しい。
「すごく美味しいです。なんだか上品な甘さがして」
「ありがとうございます。入れている蜂蜜もタンポポなんですよ」
「お洒落ー」
「桜のロールケーキです」
「これも素敵!」
薄ピンクの生地に白いクリーム、そこに濃いピンクの桜の花が乗っているのがあまりに可愛い。
フォークで一口。
「美味しいです」
「ありがとうございます」
ノリで変な本を買ってしまったけど、ホラーを感じさせるほどの不気味さでは別にないし、百円で読みたい本を買えたと思えばまあ。
結果的にいいお店が見つかったし、休日としてはよかったかもしれない。
「ボクその本もドラマも見てないんですが、探偵が出るタイプのミステリーなんですか?」
「まだ二話しか見てませんが、今のところ出てくる気配はないですね」
「ではイニシャルがK・Kの人は」
「え、探偵なんですか? こういうのって犯人の方じゃ……」
「あー、でも犯人のネタバレをするイタズラにしては回りくどいというか、それに売った人ではなく古本屋の人がそれをするのも違和感が。いやわかりませんけど」
「それはそうですね。でもK・Kってなんか犯人側の雰囲気ありません? キラーとか、キルみたいな」
「なるほど、その発想はありませんでした」
それはバカにしたようではなく、朗らかに笑って言われる。
ぺらぺらとめくっていたら、「あっ」と声が出る。
「神木恭一さん出てきました! K・K!」
「でもその段階で探偵出てくるの不自然ですね」
そう言われて、私は開いているページより後ろのページ量を見る。
今更感が……
「……探偵、ではなさそう?」
周辺を少し読んだだけだけど、そんな感じだ。
「日本三大名探偵と言われている神津恭介の名前の由来が、それ以前にいた名探偵の金田一耕助と加賀美敬介がともにイニシャルK・Kだったから同じにした、というエピソードを聞いたことがあるので、ミステリーでそのイニシャルを見るとついそういうイメージが」
「へー、あ、でも神木恭一ってすごい意識した名前ですよね」
「そうですね。神津恭介が出てくる推理小説の作者の本名は高木誠一ですし」
「……すごい、意識した名前ですね」
出てくるシーンを見せれば、漢字も同じだと言われる。
「ちなみにメインの登場人物の名前は。容疑者はもう出てきました?」
「えーっと、霧島さんと、篠田さんと、白山さんですね。高校の同級生で、被害者が桜さん、五十音順で席が近かったから仲良くなったらしいです」
ロールケーキを食べ終えて、カフェオレを一口飲む。
「ネタバレしない方がいいですよね」
「え!? わかったんですか!?」
ビックリしてちょっと声が大きくなってしまった。
他にお客さんがいなくてよかった。
「本を読んでいないので、あくまで予想ですが」
「教えてください!」
「その前にいくつか聞きたいんですが、桜さんって既婚者だったりします?」
私は目を見開く。
「なんでわかったんですか!?」
「風速の美穂の浦みの白つつじ……は、亡くなった人の事を思うと美穂の浦に咲く白つつじを見ても寂しい、というような歌なんです」
「へー」
「それで、霧島って、つつじのことで」
「えっ」
「白つつじって言っている歌を選ぶからには、霧島さんは白、つまり無実なのかなって。歌の意味からしても、犯人に選ぶような歌ではない気がしますし」
「えぇ……霧島さん一番疑われてるのに。一人だけカ行で仲間外れとか」
「本の内容ではなく、あくまでそのメモに対しての考察ですが、白山さんが文字通り白で無罪だから、そちらに合わせたのかなと思ったりも」
「白山さんだけアリバイあるんです!」
「小竹の上に来居て鳴く鳥目を安み……は、篠の上に来て鳴く鳥のように、見た感じがとてもいいので人妻なのに恋してしまいました、という歌で」
「…………」
「……実際のストーリーはわかりませんけどね」
店員さんは苦笑で言う。
「……答え合わせを楽しみにドラマを見ようと思います」
「世界で一人だけの特殊な楽しみ方ですね」
「そう思うとちょっといいですね」
笑って言うと店員さんも笑う。
「でもあまりに回りくどいイタズラですね。本の中で謎が明かされる前に事件が解けて自慢したくなったけど、犯人のネタばらしをするわけにはいかないから、ということだったんでしょうか」
「じゃあ三枚目のK・Kは自分は名探偵だったぜ、みたいなことでしょうか」
「可能性はありますね」
「でもそれならもっとわかってくれそうな人に売ってほしいです」
「か、古本屋の店主に向けてだったのに、全然確認せず売ってしまってあなたの手元に?」
「……それかも」
趣のある古本屋だったし、そこの店主さんなら知識抱負そう。
「その本の作者の名前……」
食べ終えて、話も一段落ついたところで帰る準備をしようと本を閉じたら、店員さんは表紙を見て止まる。
「河辺光介……あ、K・K!?」
え……
つまりどういうこと?と思わず店員さんの顔を見てしまう。
「もしかしてデビュー作、それともペンネームを変えているんでしょうか」
「え?」
「風速の美穂の浦みの白つつじ……の作者の名前が河辺宮人なので。字もその河辺です」
「……どういうことなのぉ」
店員さんは一言断ってからスマホを出す。
「作者の情報全然出てこないですね」
「……急に怖くなってまいりました!」
「テンションおかしくなってるじゃないですか」
「そちらはなんか楽しくなってきてません?」
店員さんは今までのにこやかさとはちょっと違う楽しそうな笑顔をしている。
「近くの古本屋、河辺古書って名前だったなと思って」
「あー!」
表紙の作者名を見る。
同じ河辺だ。
「これ、返品してもいいですか? ボクが新品を代わりに買いますので。買ってすぐですし、こんなにいろいろ挟まっていたのは返品理由になるでしょうから」
「それは全然構いませんけど」
「なんて書くのが一番面白いですかね」
店員さんは手帳を一枚千切って、ボールペンを持つ。
「黒い竹の絵とか?」
目を丸くされた。
「なるほど、ストレート。その発想はありませんでした」
「……お洒落な言葉が思いつかなくてすみません」
「いや変に洒落てダサくなるより百倍マシな気がしてきました」
「それは、確かに?」
店員さんは本当に竹の絵を描いて黒く塗ってしまう。
「裏のイニシャルは何にしましょう。日本三大名探偵の中で唯一イニシャルがK・Kじゃない明智小五郎にしましょうか」
「それはやっぱりS・Hでしょう!」
「乗りました」
本当に世界で一番有名なあの名探偵のイニシャルを書いてしまう。
「急いで返品してきましょう! 最後まで読んでないはずの時間で持っていった方が挟まっていた紙を見て解いた感が出ます!」
少し驚いたような顔をしていたけど、店員さんは笑う。
「それではお願いします」
「あ……報告、って、言うこともないのかな?」
財布を出してお金を払ってから急いで出ていこうとするが、ドアの前で止まって振り返る。
「来月はツツジティーにしようかなと思っているんですが、どうでしょう」
笑顔で言われたそれに、私も笑顔になる。
「商売がお上手!」
***
待ちきれなくて五月に入ってすぐに再来店したら、店員さんが笑顔で手を上げてくれるので私も笑顔で前回と同じカウンター席に座る。
人が少なそうな時間を見計らってきたおかげで、今日も他にお客さんはいない。
「季節のスイーツセットをお願いします」
メニュー表を渡される前に言う。
「かしこまりました」
「返しにいったら、不思議そうに謝られて終わったんですよね」
「そうでしょうね」
新品のあの本を渡され、そういえば買ってくれるって話だったっけとお礼を言って受け取る。
「あの人じゃないんですか?」
「あの次の日に若い男性が来られて、コーヒーだけ飲んで帰られたんですが、テーブルにこれが」
【K・K】って書いてたのと同じような紙を見せてくれる。
「ダルマ?」
渡してくれたので受け取って裏を見たら【K・K】と書かれてあった。
「予想でしかありませんが、ダルマは白目で売られ、願いを込めて左目に黒目を塗り、その願いが成就すると右にも黒目を塗る……だから、何かが叶いましたということなのかなと」
「あのメッセージを解かれたら、願いが叶ったんですか?」
「本名が河辺なら、それにかけた、ずっと温めていた話だったのかもしれません。しかし何かの事情ですべての意図は入れられなかった。ドラマ化されるとなって、喜びより悔やむ思いが出て、このタイミングで本当は作中に入れたかった和歌を本に挟んで……すべて想像、妄想ですけどね」
店員さんは笑って言う。
「でも、古本屋でなんとなく買った百円の本からそういう妄想が広がるの楽しいですね」
「おかげさまでボクはお客様に来ていただけたので、感謝しなければいけませんね」
どうぞと置かれたティーカップを持って香りを嗅ぐ。
優しい香りがした。
「あれ、でもどうしてここがわかったんでしょうか」
私は返品したとき何も言ってないのに。
「それはボクのイニシャルがS・Hだからでしょうね」
「……え?」
紅茶を飲もうとしていたのが止まって、顔を上げる。
「やっぱり知っていたわけではなく偶然だったんですね」
「……あの、副業で有名な探偵とかされてます?」
そう聞いたら店員さんは今までのどれとも違う笑みを浮かべる。
「さあ、どうでしょう」