第7話 岫玉の君との再会
雪玲は巫水に念を押されていた。
「潘才人? 内廷から出たことが見つかりでもしたら、その場で手打ちにされても文句は言えません。それだけでなく、潘家もただではすまないのです……。どうか、どうか! 大人しくお過ごしくださいませ。私が何か面白そうなものを探してまいりますから」
ね?と大好きな巫水に眉を垂らして言われてしまえば、雪玲だって我慢しようと思う。
……我慢したいと思う。
我慢するべきだとは思うのだが、残念ながら雪玲はひとつの場所でじっとしていられるタイプでは、ない。
あちこちからの嫌味や嫌がらせで鬱憤もそれなりに溜まってきた。初日の香美人以来、やり返さず大人しくしているのだから、これでも我慢しているのだ。
(どこかで発散したい……石婕妤がくれる珍しい菓子だけじゃあ、もうこのイライラを誤魔化せない……)
何とかバレずに外に出る方法がないか、日々内廷を観察しながら企んでいた雪玲。
暇さえあれば散歩と称してぶらぶらし、ぼんやりと内廷と外廷を繋ぐ通路を眺める。ふと見ると出入りしている女性がぽつぽつといるではないか。
(へ? あの女人たちは誰?)
巫水によると、忙しそうに働いているのは宮女とのこと。妃嬪たちの世話をする者から肉体労働をする奴婢まで、皇宮だけでも数千人が働いているようだ。
……雪玲はピンと来た。
――それから数日後。
雪玲は疲れたから早めに寝ると言って寝牀で横になった。灯りを消して部屋を出た巫水は、毎晩半刻後に見回りに来る。今日もぴったり半刻後にやって来たのを確認し、雪玲はこっそり部屋を抜け出した。
宮女の見回りを難なく躱し、紫花宮の主を待つ空き部屋に保管されていた宮女服を着る。建物の陰から見回りの最後尾にしれっと加わると、いとも簡単に内廷を出ることに成功した。
(案ずるより産むが易しだったわね。でもここからどうしよう?)
人気のない暗い宮廷の中、キョロキョロと目を凝らして半刻ほど歩き回る。
案外、草間の影には暗闇に紛れて人がいるようだ。荒い息遣いがあちこちから漏れ聞こえる。
(ん? みんな何してるんだろう? 噂話は昼もできるから怪談話? 二人一組が決まり事なのかしら)
そのうち、辺りを警戒しながら怪しい動きをする者が目に止まる。どうやら宦官のようだ。気配を消して木の陰から見守っていると、枯井戸の蓋を開けて入っていく姿が確認できた。
(あら。あれってきっと抜け穴よね? やっぱり、息抜きに抜け出す人ってどこにでもいるんだわ)
雪玲は心の中で彼を友人として認定し、さっそく抜け穴を使わせてもらうことにした。
◇ ◇ ◇
枯井戸の中には足場があり、底に辿り着くと横穴が続いていた。火折子を翳し、抜け穴の中に響く足音を頼りにしばらく進んでいくと、光りが漏れているのが見える。出口のようだ。
「へえ、ここに出るんだ」
麗容の都の碁盤の目から少し外れた空き家の荒れた果てた庭の隅、こちらもやはり枯井戸に通じていた。自分の衣の上に着ていた女官服を脱いで草むらに隠し、念のため面紗をつける。
(せっかく抜け出してきたんだし、ぎゅっと楽しんでから帰らなくちゃ!)
昼間も活気づいていた街並みだったが、夜の商いを行う店が賑わうとその表情は一変。
千鳥足の酔っぱらい、どこぞの良い家門のお坊ちゃまとその取り巻きの乱痴気騒ぎ、艶めかしい妓女たちが煌々と照らされた館の奥で煙管を燻らし、妖艶な衣裳で手招きをする。
香ばしいタレが焦げる匂い、酒の匂い、白粉や香の香りが幾重にも重なり、雪玲の鼻をくすぐった。
初めて見る麗容の夜は眩く、雪玲は面食らう。
「うわあ、昼に来た時と全然違う……! なんか、こう……夜は大人の時間なのかしら。あ、でも子どももいる」
軒を連ねる屋台は子ども連れで営業している所もある。小間使いなのか、忙しそうにしている少年や少女も多い。何にせよ、活気があるのは良いことだ。
雪玲が屋台をキョロキョロ眺めながら大通りを進んでいると、声変わり前の高い声で呼び込みをされた。
「お姉さん!お姉さん! 短弓をやらないかい? 一回一文で五矢引けるよ! 的に当たったらうちの母ちゃんが作る自慢の酒一瓶か凍米糖がもらえるよ!」
「やるっ!」
楽しそうだと思って手を挙げ、銭袋の中を見せながら一文ってどれ?と少年に聞く。
「……お姉さん、僕は善人だけどよその店では見せたらダメだよ?」
少年は呆れながら雪玲の銭袋から一枚の銅銭を取り出す。これだからね、と手に取って見せ、短弓を手渡した。
「うん、ありがとう! で、どうやってやるの?」
雪玲は弓を引いたことがない。身振り手振りで弓の引き方を教えてもらい、さっそく弓を射ってみる。
ギ、ギギ……
ポトリ
「あれ? 難しいわね」
もう一度、的に狙いを定める。構えはそれなりなのだが。
ポトリ
「ぷっ」
笑い声がした方を振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。
「あ! 岫玉の君と影狼じゃない。……笑ったのは多分、影狼ね?」
「ああ、確かに笑ったのはこいつだ。失礼なやつで済まない」
腕を組む岫玉の君。じろっと一歩後ろに控える影狼を見やる。
「うっ。いや、だって……すまん」
麗しい岫玉の君は上品な銀灰色の裙に白の衣を纏い、今日は髪を半分下ろしている。濡れ羽色の艶やかな黒髪が色気を増し、先ほど見た妓女たちの数倍美しいのだから罪な男だ。
影狼はというと、大きな身体を縮め、主に怒られる姿が何だか憎めない。
腰の帯剣を見るに、彼らは武官なのかもしれないと雪玲は思った。
「全く影狼ったら。女心もしっかり学ばなくちゃ、いつまで経ってもモテないわよ? いいわ、私は優しいから許してあげる。それよりそこで見てて。次こそ当ててやるんだから」
ギリギリと弓を引く雪玲の手元から、またもや矢がぽとりと落ちる。
「あれぇ? 飛びそうで飛ばない!」
「貸してみろ」
岫玉の君が伸ばした手に短弓を載せる。
「うん」
情景の眼差しの雪玲に、岫玉の君は一瞬怯む。これは……外したらダメなやつだ。
「まず弓を持つ位置が悪い。そして姿勢はこう。手を離す時点も大切だ」
矢をつがえた岫玉の君の美しさに周囲がざわつく。
びゅんっと風を切る音がした時には、的の中心にとすんと矢が刺さっていた。
「うわぁ! すごい! かっこいい……!」
キラキラとした瞳で的を見つめる雪玲に、影狼が若様の顔じゃなくて?と訝しがるが、その声は届いていない。
「私もそんな風に……、よし」
雪玲は目を瞑り、瞼の裏に焼き付いている岫玉の君の動きを思い出しながら短弓をゆっくり引く。
「弓を持つ位置……姿勢……手を離す時点……」
呟く雪玲の背後に大きな気配がしたと思ったその時、ふわっと檀香の香りがした。雪玲の両手に温かく大きな手が重ねられる。岫玉の君の身体が雪玲の背中に重なり、ほのかに体温が伝わった。
「肩の力を抜くんだ。そう……いいか? 俺の合図でこの左指と右手のこの指を離すんだ」
雪玲の弓を持つ両手に岫玉の君の指が重なり、この指を一緒に離せと指先でトントンされる。
「三でいくぞ? 一…、ニ…、三!」
ぱしゅっ
目を開けた雪玲の前には、的の中心から少しだけ外れたところに刺さっている矢があった。
「やったあ! 少年! 岫玉の君! 私、当たったよ!」
「うん、ズルだけどな! でもお姉さん、いい客引きになってくれたから景品をやるよ」
辺りを見渡すと、店の周りには背後にいる美丈夫のおかげで見物人が集まっていた。男たちはどこからどう見ても欠点が見当たらない精悍な彼をほめちぎり、女たちは彼の美貌に骨抜きにされている。
「これが凍米糖……! ありがとう!」
雪玲は少年から受け取った紙包みを広げると凍米糖をいくつか取り出した。残りを適当に包み直して岫玉の君に差し出す。
「あなたのおかげでもらえたから、半分こね」
「いや、俺はいい。せっかくだから君が全部食べるといい」
「やったあ! ありがとう!」
凍米糖はおやつにしよう、とまた包み直して懐に入れる。
「岫玉の君と影狼も遊びに来たの?」
「……客桟で知人と会って帰るところだ。君はこんな時間に一人でうろついているのか?」
えへ、と笑うと雪玲は小声で伝えた。
「実は、こっそり抜け出してきたの。だから麺を食べたら帰るわ」
「ふっ。何かと君とは縁があるようだな。俺たちも麺を食べて帰ろうと話してたら、矢をぽとぽと落としている君を見かけたんだ」
「あら、そうだったの? それじゃあ、短弓のお礼に私が奢るから一緒に行きましょう」
◇ ◇ ◇
「ここここ! 気になってたからここで食べましょう!」
屋台の前には二十人ほどが座れる卓子や椅子が無造作に置かれている。
ひとつの卓子を三人で囲んで座ると、雪玲は元気よく店主に話しかけ、麺の種類を聞き始めた。雪玲の慎ましさの欠片もない様子に、天佑と影狼は、良家のお嬢さんと思ったのは恐らく間違いだったと内心で思う。
「ふむふむ。ちゃんと聞いてた? どの麺にする?」
雪玲の砕けた物言いに影狼は失礼だと青筋を立てるが、身分を明かしていないのだからと天佑は腹心を諌める。それに、不思議と嫌な気がしない。
「じゃあ、鶏絲麺を」
「俺は熱湯麺にします」
「あー! 影狼と被った。私も熱湯麺! えへ」
「なっ! お、お前とお揃いなんて、俺は全然嬉しくないからな!」
天佑は強面を歪めながら威嚇する影狼が、満更ではないことを長年の付き合いで感じる。なぜか面白くないと感じたのだが、なぜなのかはわからない。
ドンッ!
「はいよっ! お待ちっ!」
汁が飛び散るほど勢いよく、三つの椀が卓子に置かれる。
「わぁ! おいしそう!」
麺と汁だけの素朴な熱湯麺を前に雪玲が目を輝かせる。鶏絲麺もおいしそうだね!とうれしそうだ。
「熱々のうちに食べましょう」
おもむろに面紗を外した雪玲を見て二人は驚いた。影狼が目を見開き、雪玲を窘める。
「……び、びっくりした。お前、外出する時は面紗をつけるように言われて、一応守っているんだろうな……なんか、親の気持ちがわかるぞ。それなのにお前ときたら一人で家を抜け出すなんて。親の心子知らずとは正にこのことだな。いいか。その顔を晒すんじゃないぞ? 攫われるからな?」
麺をごくんと飲み込み、雪玲が眉間にしわを寄せて影狼に尋ねる。
「麗容には人攫いがいるの? 私を攫ってどうするの?」
何をやらせたいのかな、料理も掃除もそんなに得意じゃないんだけど、と眉間にしわを寄せたまま、また麺を食べ進める。
その姿を見て、天佑は苦虫を噛み潰したような気持ちがした。
「攫われた女がどうなるか知らぬとは……だが、何となく教えたくない気がするのは俺だけだろうか」
「あら。岫玉の君は巫水と気が合いそうだわ。彼女も教えなくてはならないのですがどうにも先延ばしにしたく、っていつも言うのよ」
「……」
一足先に食べ終わると、天佑は肘をついて顎に手を当てながら、雪玲がうれしそうに麺を食べる様子を眺めた。
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