第3話 弱きを助け強きを挫く
(人間界の食べ物っておいしい……!)
濡羽色の美丈夫たちと別れた後。
お土産にしようと買った糖葫芦を片手に、キョロキョロしながら大通りを歩いていた雪玲だったが、通り過ぎた道を後ろ足で数歩戻る。
ふと視線を送った路地の先、女性たちの諍い声が聞こえてきた。
(んん? 喧嘩かしら?)
声が聞こえる路地をひょっこり覗き込もうとする雪玲を、通りがかりの中年女性が慌てて止める。ひそひそ声で耳打ちした。
「お嬢さん、やめときな。あの暗紅色の髪は兵部尚書の娘だよ。取り巻きに囲まれている娘は気の毒だけど、行っても巻き込まれるのが関の山さ」
「ああ、また崔家の雹華さまか。あの方は牡丹のように美しいけど気難しくてねぇ……。あんたみたいな若い娘が行くとややこしいことになるよ。悪いことは言わないから見なかったふりをしな」
雪玲はふむふむと聞いていたが、遠目から見ても良家の娘らしき身なりの良い者たちが、若緑の衣を纏った娘を取り囲んでいるのだ。
つまるところ、虐められている。
「小母さん、些細なきっかけで戦になることだってあるんだから、火種は小さいうちに消すのが一番よ。今のうちに仲裁するのが一番平和的解決だわ」
「いやいや、お嬢さん。あれは一方的な言いがかりだから解決なんてしないのさ。ちらっと小耳に挟んだけど、若緑の娘は新皇帝の妃嬪に選ばれた割に家格があまり高くないみたいようなんだ。一人でも恋敵を減らすために、同じく後宮に入る雹華さまが今から牽制しているんだよ」
老婆はやれやれと頭を振ると、雪玲に忠告した。
「あんた、ここで関わったりしたら死ぬほど後悔することになるよ? 崔家が後ろにいるんだ。……この街で過ごすなら雹華さまには逆らっちゃいけないよ」
怯えた顔で諭してくる老婆の目を見ながら、雪玲は首を傾げる。
「うーん、そもそも、あの娘がどうしたいのかが大切だわ。後宮が嫌で辞退するのならそれで解決するし、妃になりたいのならなればいいわ。だって、雹華さまとやらに止める権利はないもの」
崔家の恐ろしさが伝わらない雪玲に、周囲は呆れ顔だ。
「……はあ、麗容に住んでいれば常識だっていうのに……。あんたはきっと遠くから来て、箱入り娘で、世間知らずなんだろうねぇ。世の中は理不尽なことが多いものなのさ。そもそも辞退なんてできないし」
はっとした雪玲は尋ねる。
「確かに、人の世は理不尽で不条理だって母上に教わったわ。それに……もしかして、あの若緑の娘が悪い人だから、あの状況は因果応報ってこともあり得るわよね?」
眉を顰める雪玲に周囲は首を左右に振る。
「あの娘さんは優しい子だよ。いや、優しいのじゃなくて、気が弱いのか……とにかく、悪い噂は聞いたことないね」
それを聞くと雪玲は大きく頷いた。
「それならなおさら助けてあげないと。うちは抑強扶弱、強きを抑え、弱気を助けることが家訓なの」
(青龍国の始祖は天龍だし、こんな弱い者いじめを聞いたら悲しがるわ。ここは私がひと肌脱がなくちゃ)
おせっかいな周囲が止めるのも聞かず、これまたおせっかいな雪玲が路地に進み、女人たちへ声をかける。
世間知らずな雪玲が周囲に説明されている様子を遠巻きに窺っていた者たちも、何かが起こりそうだと興味深そうに見物していた。
「ぅおっほんっ。あなた達、何してるの?」
雪玲の言葉に取り巻きの女たちが振り返る。雹華の取り巻きは三人。若緑の衣を纏った娘は顔色が悪い。
背の高い細目の女が怪訝な顔で雪玲を睨む。
「……どちらさま?」
「私? 雪玲よ。そこのあなたは?」
一番華やかな薄桃色の衣装を身に着けた女がゆっくりこちらへ顔を向けた。その頭には玉の簪に翡翠の細工が揺れている。
「無礼者! 高貴な雹華さまに直接話しかけるとは不届き者め!」
気の強そうな細目の女が雪玲の頬をめがけて右手を振り被る。
「おっと」
雪玲がギリギリのところで上体を反らせて避けたため、細目の女は勢い余ってくるりと回りその場に尻もちをついた。
「痛っ!」
「ふ~ん、玉の簪を挿したあなたが雹華なのね。ねえ、弱い者いじめをしているのならおやめなさいな。その子が悪いことをしたのであって、あなた達が正しいことをしているのなら、このまま見なかったことにして私は立ち去るわ」
「ふん、私たちはこの娘に世の中のことを教えて差し上げているのよ。あなたには関係ないわ」
取り巻きと雪玲が言い争っている間、雹華は紗の団扇で口元を隠しながら、雪玲の頭から爪先までをじっくり見回していた。
ふと雪玲の披帛に目をとめると数度瞬きをし、お付きの汀若へ何やら耳打ちをする。
頷いた汀若は雪玲にこう言った。
「お嬢様がお茶でもどうかとのことです。この先にある茶楼で特別な甘味をごちそうしたいと」
「あら。それじゃあこの娘とも仲直りするってこと?」
雹華がゆっくりと頷く。
「それは良かった! あなたってば話がわかるじゃない! それじゃあ……せっかくだから、ご相伴に預からせていただきます! えへ」
甘いものに目がない雪玲はひょいひょい付いていくことにした。
◇ ◇ ◇
案内された茶楼は吹き抜けのある三階建ての建物で、中央では演劇を催すこともあるようだ。雪玲たちは貴賓が利用する最上階の中でも最もよい席に座った。どうやら離れたところに護衛もいたようで、房の外には屈強な男も二人いる。
大きな円卓を挟み、雪玲の正面には雹華、その両脇に細目の女と取り巻きの女が座り、雪玲の隣には若緑の衣を着た娘――明明が座ったのだが、小柄な明明は蛇に睨まれた蛙のように小刻みに震えたままで、雪玲は子兎を思い浮かべた。
(あらら。これじゃあ本当に仲直りしたとは言えないわねぇ)
雪玲の前には紅棗核桃糕や冰糖雪梨などが所狭しと並んだが、娘たちはなかなか手をつけない。
「どうぞ、召し上がれ」
鈴が転がるような声で雹華が雪玲へ菓子を勧める。
花を模った糕点を気に入った雪玲は面紗をつけたまま次々と菓子へ手を伸ばす。
目を見開きながら美味しそうに口へ運ぶ雪玲。その様子を見ながら雹華は微笑んだ。細目の女に目配せすると、小さく頷く。
「雪玲さん、こちらの菓子もどうぞ」
立ち上がった細目の女の腕に茶杯が触れ、雪玲の披帛に茶がかかった。
「あっ!」
「まあ、なんてこと! 雪玲さん、ごめんなさい。こちらに渡してちょうだい? 染み抜きをしてくるわ」
あれよあれよと披帛を手に取り、かいがいしく世話を焼く細目の女に雪玲は眦を下げる。
(改心したのね。心の中で細目の女なんて呼んでごめん。戻ってきたらちゃんと名前を聞いて覚えるわ。天衣だからしみにはならないのだけど、細目の子の気が済むだろうし好きにやらせてあげましょう)
その間、雹華と明明を仲良くさせようと雪玲は張り切る。
「雹華さんと明明さんは後宮に入るのね。おふたりとも可愛らしいからきっと人気者になるわね!」
「……」
「……」
あれこれと話題を振ってみるものの、雹華は微笑むばかりで明明は俯くばかり。一向に盛り上がらない席に、雪玲はひとり楽しそうに茶菓子を味わっては話しかけていた。
そうこうしているうちに時間が経ち……
ふたりが後宮で仲良くなる姿を想像し、しみじみしながら茶菓子を頬張る雪玲だったが、細目の女は一向に戻ってこなかった。菓子で腹も満たされ、茶もこれ以上飲めそうもない。
隣にいる明明はひと口齧かじっただけで俯いたままだったが、先ほどのように虐められる姿はもうない。何となく雹華とも仲直りできたようだし、めでたしめでたし。
「あのう、私そろそろ帰らないと。披帛の染み抜きはもういいんで、返してもらいたいのだけど。あの人はどこに行ったのかしら」
紗の団扇でその顔を覆い、雹華が言った。
「何のことかしら。私は今日、陽紗さんと侍女の汀若と三人で街に来たのだけど。あの人って誰のこと?」
「へ? あなたと一緒にいた背の高い細目の女のことよ。私に茶をかけて衣を持っていったじゃない」
首を傾げた雹華が付き人たちに尋ねる。
「汀若、そんな女いたかしら」
「いいえ。雹華さまは今日、私と伍家の陽紗さまと三人で参りました」
「ええ、その通りです。そんな女いませんわ」
三人のやり取りを聞きながら、雪玲は目を細める。
「……なるほど、三人成虎、事実でなくても多くの人が信じれば、それが事実のようになってしまうってわけね。……でも残念でした! ここには明明もいまーす」
雪玲はにっこり笑って明明に向き直る。
「明明、私の披帛を持っていった女を見たでしょ?」
丸い瞳に涙を溜め、顔を上げた明明は言った。
「……そんな女、私は見てないわ」
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