時戻し一族の落ちこぼれ
月に一度だけ、婚約者に会える。
その日だけはルシアもきれいに身支度を整え、令嬢らしい服を着せてもらえる。父譲りの赤毛を結い上げ、母に似たアメジストの瞳をくっきりと際立たせる。
手荒れや切り傷、痣などは見つからないよう、自分自身の時を戻しておく。
応接室へ降りると、いつものように異母妹のジェイミーが、ルシアの婚約者であるセザール王子の相手をしていた。
なにせ、王子が到着してから身支度がはじまるものだから、いつもお待たせしてしまう。早めに準備したくとも、継母のメイジーがそうはさせてくれない。
「セザール殿下、大変お待たせいたしました」
「ああ、ルシア。今日も可愛らしいね」
そんな言葉をかけられ、赤くなった顔を伏せて唇を噛んだ。
セザールの隣から、ジェイミーが嘲笑をもらす。
「ほ~んと、お姉様ったら、いつまで経っても子どもで恥ずかしいわぁ」
十歳のときに母を亡くし、ジェイミーたちはその一週間後にやって来た。それからずっと、継母と異母妹から受けた傷をセザールに悟られないよう、時を戻して八年が経つ。
何度も時を戻したため、ルシアは十歳の体から成長できずにいた。実際は十八歳のジェイミーと五日しか変わらない。
セザールがおもむろに席を立った。
「ルシア、少し話がしたい。庭に出ないか?」
「……はい」
見栄だけで造り上げた庭園は、赤い薔薇が見ごろを迎えている。といっても、ジェイミーが時戻しの魔法をかけているため、冬でも薔薇だけは常に咲き誇っているという、異様な光景だ。
庭先のテラスでは、ジェイミーが爪を噛みながら行ったり来たり。それを知ってか、セザールはルシアとの距離を詰め、耳もとに顔を寄せた。
「ルシア。僕は君と結婚したいと思っている。だけど、このままではダメなんだ。わかるよね?」
「はい、殿下……」
我が男爵家が王子を婚約者に持てたのは、我が一族が『時戻しの魔法』を使い、王と王妃の若さを保っているからだ。
能力が弱まらないようにと、王家は父にも魔力の高い伯爵令嬢をあてがった。それがルシアの母ローラだ。しかし、父は恋人のメイジーをあきらめきれず、別宅に囲って愛を育んだ。そして生まれたのが、時戻しの魔法を難なく使えるジェイミーだった。
「君の妹が時戻しの魔法を使えるようになってから、母上は婚約者を変えるべきではないかと言い出したんだ」
「……申し訳ございません」
父も妹も、自分以外の人や物に対して時戻しの魔法を使えるが、自分自身には使えない。かけてもらうことはできるので、ジェイミーが父と継母の若さを保っている。
ルシアは逆に、自分に対してしか魔法が使えなかった。利己的で役立たずと言われても仕方がない。
それに王族の時を戻せないのなら、まったくもって意味がない。祖父の代から与えられた男爵位は、役立たずとなればすぐにでも剥奪されるだろう。父はそれを危惧している。
「謝罪の言葉がほしいわけじゃないんだ。ルシア、君ならできると信じている。僕のためにも、他者に対して魔法が使えるようになってほしい」
「はい……殿下」
セザールは十三番目の王子で、与えられる爵位も領地もない。よって、我がプライオル男爵家に婿入りすることは決定事項だ。あとは結婚相手がルシアになるか、ジェイミーになるかというだけ。
(殿下は私を望んでくださった。がんばらなくちゃ)
タイムリミットは学園を卒業するまで。あとひと月もない。学園の図書館はすべてあたったから、明日の休みは国立図書館へ行ってみよう。
決意もあらたに図書館へ出かけようとした次の日、継母とジェイミーが立ちはだかった。
「掃除もせずにどこへ行くというの?」
「そうよ、お姉様。あたしの宿題がまだ終わってないわ!」
「戻ったらすぐにやりますから」
「まぁ、口答えするなんて」
「生意気なお姉様。そのうえ傲慢よねぇ。自分の時だけしか戻さないんだから」
戻さないんじゃない。戻せないのだ。他者に対して使えるものなら使っている。ルシアは枯れゆく花の時を戻すことすらできない。
「そ、その原因を……図書館で調べようと」
ふたりの顔から笑みが消え、ルシアは失言を悟った。ふたりともルシアが一端に魔法を使えるようになることなど望んではいない。落ちこぼれであることは、ルシアにとって命綱ともいえるのだ。
セザールに会った翌日は特にひどい折檻が待っている。自身の能力について調べるどころではなかった。
◆
学園でも落ち着くことはできない。十歳の見た目で十八歳のクラスに通えば、毎日のように嫌みを言われ、嫌がらせを受けた。
入学した当初、公爵令嬢から『わたくしにも若返りの魔法をかけなさい』と言われ、『できないんです』と素直に告げたときからはじまった。
嘘つきだと罵倒されるのはまだいい。物に当たられるのは結構困る。でも一番つらいのは、痛い思いをすることだ。
人気のない放課後に、ひとりになるべきではなかった。
「ごきげんよう、ルシア」
「ご、ごきげんよう、ブローク公爵令嬢様」
「あら、『マーゴットと呼んで』と言ったはずよ?」
たしかに言われた。オウム返しに『マーゴット様』とつぶやいた直後、噴水に落とされたのは先月の頭だったか。あのときは風邪を引いたくらいで済んだが、今いる場所は非常にまずい。ルシアのすぐ後ろは階段で、ちょうど上り切ったところだった。
ジリジリと脇へ寄れば、取り巻きが行く手を阻む。黙ったまま頭を下げ続けていると、愉悦の滲む三日月の双眸が、ルシアの顔をのぞき込んだ。
「あなたって便利よねぇ。何をしても、なかったことにできるんだからぁ」
「――え?」
ルシアが聞き返すのと、マーゴットが突き飛ばしたのは、ほぼ同時だった。
強く押された体は宙に浮かび、やけにゆっくり時が進む。マーゴットたちの顔が快楽に歪むさまを見ながら、背中から階段下に叩きつけられた。
口をハクハクとひらいても息ができない。マーゴットたちの笑い声を遠くに感じる。遅れて走る痛み。じんわりと背骨が濡れるような冷たい感覚。
動かなくなりつつある体におそれを抱き、ルシアは自身に時戻しの魔法をかけた。衝撃を受ける前の状態まで十秒足らず。それを戻すのにかかる時間は二秒ほどだ。
「おい! 大丈夫か⁉」
突然、階下から男の声がして、マーゴットたちが慌てて逃げていく。
身を起こしたルシアは、大きく深呼吸をする。
けれど、いつものようなすまし顔を作ることができず、顔を伏せた。
「……大丈夫です」
「すごい音がしたぞ? 怪我はないのか?」
めずらしく食い下がってくる男子生徒だ。制服のタイからして同学年。まだ自分を心配してくれる人がいたことにおどろき、顔を上げる。
「あ……、アレックス王子殿下」
隣国からの留学生アレックス王子だった。その後ろには側近としてついて来た公爵令息のジスランもいる。
すぐに壁際へ寄って頭を下げると、アレックスはルシアの体を探るように手をかざす。手から流れてくる暖かい空気があまりに心地よく、甘んじてボーッと受けていたが、治癒魔法だと気づいて壁に貼りついた。
「で、殿下! わたくしなどに畏れ多いですわ!」
「何を言っている。痛いところはないのか? 言わなければ全身にかけるぞ」
「ご、ございません! わたくしは……その、自分に対してなら、時戻しの魔法が使えますので」
――すべて、なかったことにできる。
誰も彼も躊躇なく傷つけてくるのは、ストレスのはけ口として利用されていたからだ。
「ああ、そなたが時戻し一族の。本当に十歳で時が止まっているのだな? だが、いつまでも成長を止めておくのは、支障があるのではないか?」
「っ……」
ルシアは何も答えられなかった。もし魔法を解けば、なかったことにしてきたすべての痛みを受けることになる。痛みから逃げまわったツケは八年分もふくらんでおり、もう手を出せる段階ではない。考えるだけでゾッとする。
「そなた、名は?」
「プライオル男爵が長女、ルシアと申します」
「ルシア嬢、私が留学した目的は、未知の魔法について見聞を広めることだ。どうか協力してはくれまいか」
ルシアは両手を交差させながら、「とんでもない」と首を横に振った。
「わたくしは一族の落ちこぼれでして! 自分の時しか戻せず……」
「自分の時を戻せるだけでも、すごいことだと思うぞ?」
「え……?」
ルシアの能力が開花したのは、皮肉にも継母や異母妹に虐げられたおかげだ。ムチで叩かれ、顔に爪を立てられた。あのときは痛みから逃れるのに必死だった。
能力が開花しても、自分にしか使えない力を喜んでくれる者などいなかった。傲慢だとなじられ、役立たずの落ちこぼれとしか言われたことがない。肯定的な言葉を受けたのはこれがはじめてだった。
「おわっ⁉ お、おい、なぜ泣く⁉」
「あ~あ、殿下。やらかしましたねぇ」
「ど、どうすればいいのだ⁉ ジスラン⁉」
「責任を取るしかありませんよねぇ」
アレックスとジスランがおかしな方向へ話を進ませている。口を挟もうにも嗚咽がとまらなかった。
嬉しいはずなのに、こぼれ落ちる水滴は止まってくれない。やっと捻り出した言葉は、ふたりをあきれさせるものだった。
「これ……どうやったら、止まるのでしょうか?」
「それは私が聞きたいのだが……、まぁ、あれだ。人間の体は不要なものを排泄するようにできている。その涙はきっと流すべきものなのだろう。そう考えれば、出し切ったほうがいいかもしれないな」
アレックスはひとり納得したように頷き、ハンカチを差し出した。好意を受け取りたいのに怖じ気づいてしまう。
「わ、わたくしなんかに……」
「いいから使え」
「わぷっ」
強制的に頬を押さえられたが、自分でもしないような優しい手つきだった。手触りのよい布地に涙が吸収されていく。
ところがジスランは、げんなりした顔で苦言を呈した。
「殿下、レディに対してそのように手荒な真似を……。だからモテないんですよ?」
「モテなくて結構だ! 私は魔法の研究にしか興味がない」
アレックスがモテないなんて嘘だ。いつも女子生徒たちの目を奪っている。艶のある漆黒の髪。整った顔立ち。何より黒真珠のような瞳は、目が合っただけで吸い込まれそうだ。
ジスランも甘いマスクで魅了している。フワフワの金髪に碧い瞳。天使のようだと女子が騒いでいたが、近くで見てそのとおりだと思った。
先ほどからふたりは、ルシアの気を紛らわせようとしているのだろう。
「ありがとう、ございます」
「うむ。存分に泣け」
そう言われると笑ってしまう。アレックスもジスランも、口もとを緩ませながら涙が止まるまでずっとそばにいてくれた。
「よし、止まったな。ところでルシア嬢、本来の姿に戻る気はないのか?」
「……戻りたいとは、思っています」
「訳を話してもらえないだろうか?」
「その……八年分のツケが、ありまして」
ルシアは言葉を選び、怪我をするたびに時を戻したせいで、魔法を解けばあらゆる怪我が一気に襲ってくることを話した。イジメを受けたことは恥ずかしくて言えない。
「なるほど。治癒魔法を受けながらではどうだろうか?」
「――え?」
「私が手を貸そう。先ほども言ったが、私は未知の魔法に目がない」
差し出された手をジッと見つめる。躊躇してしまうのは、相手が王子であることと、ルシアにとってあまりに都合が良すぎるからだ。
「あ、あの……お時間をいただいても?」
「もちろんだ。よく考えてくれ」
「ありがとうございます」
この日を境に、アレックスたちから話しかけられるようになった。自分自身にしか魔法がかけられない原因を、一緒になって探してくれている。
おかげで大怪我をするようなイジメはなくなったが、小さなイジメは増えた気がする。ルシアとしては、痛い思いさえしなければいい。
しかし、セザールに呼び出されて、自分の甘さを思い知った。
「ルシア、君まで品位を落とすようなことはやめてくれ! 本来ならば男爵令嬢が王子の婚約者になることはない。ましてや、隣国の王子と結ばれることなど決してないんだ!」
「――え?」
ルシアは耳を疑った。隣国の王子に懸想していると思われるなど、考えもしなかった。ルシアが弁明をする前に、セザールがあきれた顔をして言い放つ。
「君は考えまで子どもになってしまったのか? 頼むから大人になってくれ」
「わ、わたくしは――」
「――そうだ。今すぐ魔法を解けばいい。十八歳の君に戻れば、正気を取り戻すはずだ。そうだろう?」
「っ……そ、それは」
突然あらわれた死の足音が鼓動と重なった。
恐怖に声が震える。
「い、いきなり十八歳は……」
「あ……そうか、成長するということは、服の問題もあるね。すまない、失念していた」
口もとを押さえ、セザールの頬がふんわりと桃色に染まる。
ルシアは内心でホッと息をつく。けれど、セザールはあきらめていなかった。
「じゃあ明日……は休みだから、休み明けを楽しみにしているよ」
「え? い、一日では……」
「かわいらしい君のことだ。きっと美人になるだろうね」
ご機嫌な様子で手を振りながら、セザールは廊下の向こう側へ消えて行った。
縋るように上げた手をのろのろと下ろす。
「もう、やるしかないわ……」
八年分を一日で。アレックスは手伝ってくれるだろうか。
ルシアはアレックスを探して校内中を駆けずりまわった。
◆
一方、アレックスとジスランは、中庭でのんびりと噴水の縁に腰かけていた。
「それで、ルシア嬢について何かわかったか?」
「ええ。影に探らせたところ、日常的に暴力を受けているようですね」
時戻しの魔法を使ったとしても、『戻った時点から成長が始まる』とルシアは言っていた。
「つまり、十歳で時が止まったままなのは、成長する機会も与えられないほど巻き戻したせいか。何より、あの程度の褒め言葉で泣いてしまうとは……」
アレックスは腹から沸き上がる激情を逃すようにぶるりと震え、口角が上がるのを抑えきれずに、口もとを片手で覆った。
「なぁ、ジスラン。一度に八年分戻したら、どうなると思う?」
「殿下……、せっかく悪評の届いていない国を選んで留学したのに」
「そなたも興味があるのではないか?」
「……否定はしません」
薄らと笑みを浮かべたふたりの目に、十歳の子どもが飛び込んで来た。
「ハァ……ハァ……、で、殿下」
「ルシア嬢、どうした?」
「わ、わたくし……、十八歳に戻りたいです!」
アレックスとジスランは丸くなった目を見合わせ、笑みを深くした。
「承知した。ただし、私のやり方に従ってもらいたい。それでもいいかな?」
「は、はい!」
「では明日、そなたの家に伺おう」
「ありがとうございます!」
◆
翌日、アレックス王子から先触れを受けたプライオル家はひっくり返った。継母やジェイミーはもちろん、父までも身なりを整え、メイドたちに向かって唾を飛ばす。
「ホコリひとつないように磨きあげろ!!」
「「はいっ!!」」
もちろんルシアもメイド服で参加させられている。この姿で王子を迎えるなど無礼ではあるが、どうやっても聞き入れてはもらえなかったのだ。
「隣国の王子が、落ちこぼれに会いに来るわけがないでしょう?」
「アレックス様はあたしに会いに来るのよ!」
「ルシア、掃除が終わったのなら部屋に引っ込んでいろ!」
「――それは困るな」
割って入った男性の声に皆が振り返る。
玄関口にはアレックスとジスランが立っていた。
父が揉み手で近づく。
「これはアレックス王子殿下。お見苦しいところを……ささ、こちらへ。心ばかりのおもてなしですが――」
「ありがたい申し出だが、今日はルシア嬢と約束をしていてね」
「ルシアと……?」
「プライオル男爵、空き部屋があればお借りしたいのだが……いや、待てよ。この玄関ホールでも十分いけるか。物が少ないほうがいい」
独り言のようにつぶやき、アレックスはルシアに顔を向けた。
「ルシア嬢、大きめのドレスに着替えておいで」
「は、はいっ」
急いで屋根裏部屋に戻ったルシアは、母のドレスを身にまとう。靴は履かなかった。ドレスの裾をたくし上げ、玄関ホールへと向かう。
階段を降りながらも、描かれた魔法陣に目がいってしまう。まるで牡丹の花をレースで編んだかのように美しい。
少しこわいと思ってしまうのは、四方に立つ近衛騎士のせいか、それとも魔法陣が放つ冷たい光のせいだろうか。
父やジェイミーたちは壁際に追いやられ、目を白黒させている。
「来たね、ルシア嬢。この中心に立ってくれるかな?」
返事の代わりに喉を鳴らしてしまう。アレックスは苦笑しながらもルシアの手を引き、魔法陣の中心へ導いていく。
父が魔法陣へ近づくと、近衛騎士から無言で威圧を受けた。
「ぐっ。おそれながら、殿下。何をはじめるおつもりで?」
「ルシア嬢がやっと成長する決心をつけたんだ。私はそのお手伝いをしようと思ってね」
「成長……?」
首を捻った父が、次の瞬間に息を飲んだ。魔法を解くつもりだとわかったのだろう。途端に焦りはじめた。
「そういうことでしたら、殿下のお手を煩わせるわけには」
「気にしなくていい。私も興味がある」
「しかし、これは我が家の問題ですから」
「そうだろうね。この家でどんな扱いを受けてきたのか、魔法を解けば嫌というほど目にすることだろう」
アレックスの言葉に、父だけでなく継母やジェイミーも顔を引きつらせた。
「そうそう、女性にはつらい光景になる。そちらのふたりは別室に移るといい」
「え……ええ、そうさせていただきますわ! 行くわよジェイミー」
継母とジェイミーが逃げるように応接室へ入ったのを確認し、アレックスはルシアへ向きなおる。
「さぁ、はじめよう」
ルシアは覚悟を決め、祈るように手を組んだ。呪文を唱えるアレックスの声が、おそろしいものに聞こえてしまう。いつもの朗らかさは鳴りをひそめ、ひどく冷たく、硬質に感じられた。不安が鼓動を早めていく。
「準備は整った。ルシア嬢、魔法を解くんだ」
――もう逃げられない。だけどこわい。
「ルシア、大丈夫だ。私を信じてくれ。何も痛いことはないよ」
――そうだ。アレックスを信じなければ、何を信じられるというのか。
ルシアは体の中にある魔法の時計を、思い切って解放した。時計の針がものすごい速さで時を刻んでいく。体がメキメキと音を立てるが、ルシアに痛みはやって来ない。
そんななか、父が突然よろめいた。赤くなった頬を押さえながら慌てたように応接室へ駆け寄るも、近衛騎士に行く手を阻まれていた。何かをわめいているが、ルシアには聞こえない。
時を戻すのとは違い、魔法を解くのにそう時間はかからなかった。ルシアの目線が高く感じられる。椅子の上にでも立っているかのようだ。
伸ばした腕は長く感じられ、胸の辺りが少しきつい。俯くと同時に流れ落ちた髪色は、赤毛を薄めたような薄紅色をしていた。
「おっと、これは……」
ニヤつくジスランの視線をたどると、アレックスが目を見ひらいて呆然としている。それもルシアと目が合うなり顔を背けられた。心なしか耳が赤い。
「――殿下!! これはどういうことですか⁉」
先ほど入室を許された父が、応接室から飛び出して来た。その顔は赤黒く、左頬に殴打したような痕がある。その後ろから、継母とジェイミーが青ざめた顔を覗かせた。ふたりとも疲れ切った様子で小刻みに震えている。
アレックスは舌打ちでもするかのように顔をしかめた。
「時戻しの魔法を使ったのか。失念していた。次は封じる手立てが必要だな」
父の顔はさらに歪み、剣呑な雰囲気が増す。王子に対して睨みつけるなどあまりに不敬だ。ルシアは父の姿を隠すようにアレックスへ歩み寄った。
「殿下、助けていただき感謝の念に堪えません。どうお返しすればよいのやら……」
「……そなた、私がおそろしくないのか?」
バツの悪そうな顔で聞かれ、ルシアは目を丸くする。
「おそろしいなどと、思うわけがございません。何かお礼を……」
「礼には及ばない。こちらも新しい魔術を編み出せたからな。改良が必要だが」
「あの……、どういったものだったのでしょうか?」
「そなたは……知らないほうがいい」
そう言ってアレックスは、父に何事かを耳打ちすると、達成感にあふれる顔をして帰って行った。
それからというもの、継母とジェイミーから暴力を振るわれることがなくなった。相変わらず口は悪いけれど。
学園にも変化が訪れた。
ルシアを虐めていた者たちが、いっせいに休みを取ったのだ。
なかでも公爵令嬢マーゴットは、休学を理由に婚約者から婚約破棄を告げられたらしい。残り五日程度なら卒業は認められるはず。それでも婚約を破棄されるとは、世間体を気にする貴族は大変だ。
ルシアは、寛容な自分の婚約者に感謝した。
約束どおり十八歳になった姿を見てもらいたい。セザールの教室をノックしようとしたところ、近くの窓があいており、男子生徒たちの声が聞こえてきた。
「セザール殿下の婚約者、十八歳の姿に戻ったらしいですね」
「ああ、やっとか」
「オレ、ちらっと見ましたけど、すごい美人でしたよ! ジェイミー嬢とどっちがタイプですか?」
「……そんなもの、ルシアに決まっているだろう?」
気まずい思いをしながらも、ルシアの気持ちは昂ぶった。頬に血が集まっていく。しかし、次の言葉に頭の中が真っ白になった。
「ルシアには伯爵家の血が入っているのだから。そうでなければ相手にするものか」
そこからどうやって家に帰ったかは覚えていない。セザールに会わないよう身をひそめ、卒業式を迎えた。
パーティーには出るまいと思っていたのに、とうとうセザールに捕まってしまった。
「ああ、なんて美しい! ルシア、想像以上だよ。ドレスはすぐに用意させる。君をエスコートできてうれしいよ」
「……ありがとう、ございます」
うれしいはずの言葉が耳から滑り落ちていく。
卒業パーティーの会場では、国王と王妃を壇上に迎え、なぜか御前にプライオル一家がそろっていた。まるでルシアの登場を待ち構えていたかのようだ。目の前にはふたつの花瓶が並び、萎れた花が生けられている。
国王が手を上げると、場が静まり返った。
「セザールの婚約者はルシア嬢に決めていたが、その能力を疑う声がある。この場でそれをはっきりさせよう」
皆が注視するなか、ルシアとジェイミーはそれぞれの花瓶へ向かう。
ひとつ深呼吸してルシアが手をかざすと、茶色からピンク色に花が色づき、みずみずしさを取り戻す気配を感じた。途端におそろしくなって、花から手を離す。
隣では、ジェイミーが見事に花をよみがえらせ、皆の注目を集めていた。
「ジェイミー嬢は力を示した。ルシア嬢、そなたはどうだ?」
国王の言葉にセザールが焦りを見せる。
「ルシア、がんばってくれ! 僕と結婚したいだろう?」
――自分はセザールと結婚したいのだろうか? 正直わからない。
ふたたび花に向かったものの、セザールとの未来を考えると、ルシアの手はのろのろと落ちていった。
「わたくしには……できません」
「ルシア⁉」
セザールの顔が色をなくしている。ルシアの隣に立つジェイミーは勝ち誇ったように口の端を上げた。勝敗は決したとばかりに、父プライオル男爵が進み出る。
「陛下、我が娘はジェイミーだけでございます。このような落ちこぼれは一族の恥。この場で勘当いたします!」
「――え? お父様⁉」
唯一、血のつながった父親が、娘を捨てるというのか。
国王も王妃も、時戻しの魔法が使えなければ用はない。「そうか」と軽く頷いて了承した。
「セザールの結婚相手はジェイミー嬢とする! 勘当され、平民となった者はこの場に相応しくない。つまみ出せ」
「そ、そんな……」
戸惑うのはルシアだけ。
騎士に腕をつかまれたとき、凛とした声が響いた。
「つまみ出す必要はない。私が連れて行こう」
ルシアの前にあらわれたのは、正装に身を包んだアレックス王子だった。
「ルシア、どうか私の手を取ってほしい」
差し出された手に胸が高鳴る。呼び捨てにされるのも心地よかった。
頷いて手を乗せようとした刹那、後ろから声があがった。
「――ま、待て!!」
引き止めた声に振り返れば、セザールが剣呑な表情で立っていた。
「ルシア、ついて行ってはいけない。その男は悪魔だ」
「――え?」
「なぜ卒業を目前に休学者が二十名も出たと思う? 全員、ルシアが大人の姿に戻ると同時にだ」
それはルシアも不思議に思っていた。チラリとアレックスを仰ぐと目をそらされた。ルシアの瞳が揺れるのを見て、セザールがたたみかける。
「アレックス王子は祖国で『悪魔』と呼ばれている。残酷な魔術を平気で用いる。今回もあくどい魔術を使い、ルシアが受けた暴行を、周囲に撒き散らしたのではないか?」
ルシアは息を飲んだ。父の顔に浮かんだ殴打の痕は、以前ルシアが受けたものに思える。それにジェイミーたちが暴力を振るわなくなった。また返されるのをおそれたのではないか。
アレックスの手が離れていく。
「ああ、そうだ。しかしセザール王子、ルシア嬢が暴力を受けていたことを知っていたのだな?」
「……気づかない振りをするのも優しさだろう?」
「物は言いようだな。では悪魔らしく、とても残酷な魔術を披露するとしよう」
「なっ、何をするつもりだ⁉」
アレックスが指をパチンと鳴らすと、それだけで床に大きな魔法陣があらわれた。
慌てた国王が声を荒らげる。
「賓客とて許されるものか! アレックス王子を捕らえよ!!」
「この魔術はな、魔法を無力化させるんだ。仕込むのに一晩かかったよ」
もう一度アレックスが指を鳴らすと、魔法陣が光を放ち、一部から悲鳴があがった。
「あああ⁉ そんな、やめてくれ――!!」
「やだぁ⁉ なにこれっ⁉ 魔法の時計が勝手に――、ぃぎゃあああぁぁ!!」
光が収まり目をあけると、ジェイミーと継母が血塗れの状態で倒れていた。
父も一気に年を取り、四十歳相応の姿に。
「父上⁉ 母上⁉」
セザールの声に壇上を見れば、シワシワの皮膚が垂れた小さな人間が、重たそうな服に包まれている。魔法契約でつないできた時戻しの魔法がすべて解けたのだ。
「これが正しいあり方だ。ああ、言っておくが、今回の依頼主はそなたらの息子である王太子からだ。不老など気味の悪いことはやめるんだな」
「兄上が? なんてことを……」
頭を抱えたセザールが、ふいに動きを止めた。
「いや、これでルシアとの結婚を邪魔する者はいなくなったのか。――ルシア! 国を出て行く必要はないよ。ぼくと結婚しよう!」
両手を広げて近づいて来るセザールから、ルシアはジリジリと距離を取る。
「ルシア? 喜んでくれないの? ……まさか、その悪魔を選んだりしないだろう?」
ルシアが振り返ると、アレックスは不敵な笑みを浮かべ、嘲るような声で言った。
「ルシア嬢、私のことがおそろしくなったか?」
けれどルシアには、傷ついた人が被った仮面にしか思えなかった。
敬称が復活したことを寂しく思いながらも、ルシアは首を振る。
「いいえ、アレックス殿下。わたくしは、本当におそろしい人間を知っておりますから。わたくしを連れて行ってくださいますか?」
言い終わった途端、頭上にあった豪華なシャンデリアが正面に見えた。その横にはアレックスの顔。眩しそうに細められた黒真珠の瞳に魅せられ、横抱きにされていることに遅れて気づいた。
「で、殿下⁉」
「アレックスと呼んでくれ。ルシア、時戻しの魔法を使う暇もないほど、ドロドロに甘やかしてやろう」
「ひえぇ⁉」
ルシアの情けない声は、アレックスとジスランの笑い声に溶けていった。
魔術オタクの王子と、勉強熱心なルシア。このふたりによって『時空間魔法』が完成し、隣国は目を見張る発展を遂げることになるのだった。
~La Fin~