表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

他我のために鐘は鳴らさない④

ストックまだありました。今回ので本当に無くなりました。

 さて、次は大学以前の私について綴っていく。私のような子供部屋で愚にもつかない駄文を書くことで残喘を保っているだけの化物が如何にして形成されていったのかを可能な限り具に語ることで、既に私と似た道を歩んでいる同胞が少しでも共感し、集合的無意識を介して絆の結託が出来たら幸いだ。

……

…………

………………

 物心ついた時から、私は「ヒトリになりたい」と「ヒトリになりたくない」という二つの相反する想念に揺り動かされてきた。この心境を如実に表すのが保育園時代の遠足での出来事である。保育園近くの公園に行き、お昼のお弁当を食べ終わった後の自由時間。私はヒトリで木陰に座って園内を駆け回る同級生達を眺めていた。四六時中頭の中で物語を描いていた私にはこうやって特に何も考えずにただボーッとするだけの時間が必要だった。しかし、周りから「あ、〇〇(私)がヒトリでいる」と思われることに羞恥と焦りを抱いてしまうため、躊躇いながらも同級生の輪に加わった。

 孤独を望む自分と望まない自分との板挟み状態によって、私のアイデンティティはとても不安定だった。しかし、親や教師といった大人から周りとの協和(迎合)を強制されていくうちに段々「ヒトリでいるのは劣っている証拠だ」という観念が心で発芽し「ヒトリになりたい」という欲求を恥じ、嘲り、ひた隠すようになった。

 それとほぼ同時期の小学五年生の頃、まるで狙い澄ませたかのように私の対他人用の外部人格に変革が起こった。周りより第二次性徴期が早かったため、周りより身長が伸びて運動神経が急激に飛躍した。あと、何故かこの時期から学業成績が上昇し、そのせいかこの時期から徐々に胸で倨傲性が膨れていった。それまでの私は平々凡々で取り柄が無く自分に自信を持っていなかったため、声の大きな子にコバンザメのように阿諛追従(あゆついしょう)することで居場所を保つ子供だった。物心ついてから小四まではそんな生き方だったが、別にそれが辛苦というわけでもなく、楽しかった思い出も幾つもある。しかしその殆どが、次善策を最大限楽しむことに努めた結果から生じた「妥協の産物」という感が今では否めない。学校の昼休み、本当は読書したいけど周りから変な目で見られるのが嫌だから校庭のドッジボールに混じって、それはそれなりに面白かったけどやっぱり……みたいな、見えない手で後ろ髪を二~三回軽く引っ張られるような痛みと心残りを常に感じていた。それが急に周りから(特にスポーツ方面において)一目置かれるようになったため「もしかして私って凄いのでは⁉」とすっかり自惚れてしまい、自らウケを狙った滑稽な言動で周りを笑わせようとする目立ちたがりへと変貌したのだった。これは、集団内で目立つ人間は大抵スポーツが得意という偏見があったからだ。

 それ以降、私の思い上がりは幾何級数的と言っても過言では無いほど増長していき、それにつれて道化を演じる回数も増えていった。「中学内でも変わらず学業成績と運動神経の高さで目立っていた」という事実が増長を後押しした。正直もう思い出したくないため詳細は書かないが、私と同じ小・中学校に通っていた者に私のことを尋ねれば十人中九人が「ああ、場を盛り上げるつもりなのか何か訳の分からないことをしていた奴のことか」と当時を思い出して呆れ笑いを浮かべながら答えるに違いない。そのくらい滑稽だったのだ。当時の私は「集団内で浮き、心配されることで周りに人が集まる者は惨めだ。集団内で目立ち、親しまれることで周りに人が集まる者は優秀だ」という、「孤独」を見下し忌み嫌う愚劣な大人達が散々植えつけてきた観念に取り憑かれていた上に、自分は後者の人間だと誤認していた。学校で強いられる集団行動に順応──周りと協和(私にとっては迎合)出来る者ほど教師に贔屓され、彼らの意に沿わない言動をとる者はいい歳した人間に複数で取り囲まれて「輪を乱すな」だの「お前ヒトリの我儘に他人を巻き込むな」だの正論という名の吐物をぶっかけられる。こういう教師に限って、このリンチを教育的指導だとほざくだろうが、単にイライラを解消しているだけだ。特に嫌いだったのが、わざわざ浮いている生徒を大きな声で呼ぶ、吊し上げだ。あんなの教師の自讀でしかない。

 かつては道化として集団との協和(迎合)に努めてきた身として言わせてもらうが、それを強いられる最たるものである学校行事など、所詮はお仕着せというか一方的に参加を強制させられているのに、どうして生徒側は時に教師の叱責を浴びてまで取り組まなければならないのだろう? 同じ目標に向かって団結する大切さや、達成感を得ることの素晴らしさを知る機会になるのは理解出来るし、行事を楽しんでいる者をバカにしているわけではない。あと、参加を希望制にすると、参加するしないで生徒間で揉め事が起こるのも何となく想像出来る。が、権力(教師)や数(同級生達)の暴力によって無理矢理参加させられた者が絆や達成感など抱くだろうか? 参加する意義を説明した教師には(つい)ぞ出会わなかった。運動が苦手な者がクラスの者に茶化されたり舌打ちされ、歌声が小さい者を教師がクラス全員の前で吊し上げて叱責する、そんな光景を生み出したいがために学校は年間行事を策定しているのか? 「空気を悪くするくらいなら参加しなければ良い。何も身体を拘束してまで強要しているわけではないのだから」と言ってくる者は教師に餌付けされた飼い犬である。自分達が楽しめる行事──特に合唱コンクール──という名の餌を与えられたからやる気になっているだけであって、もし『源氏物語』を全巻読破+クラス毎に感想や考察を発表させられる行事があったら「こんなんして何の意味があるんだよ」「内申で脅すとか最低」「一方的に押しつけてきたのに、参加しなかったら呼び出して説教してくるとか超意味不明」と理不尽な目に遭った被害者面するくせに。

「スポーツ大会本番に向けての練習をきっかけに苦手だったスポーツに真剣に取り組むようになり、普段は話さない子が根気強く教えてくれたお陰で上達出来た。本番では良い結果は残せなかったけど、私でも頑張ればそれなりに出来るんだという自信がついたし、チームの仲間との間に絆が芽生えた。学校行事が無かったら私は今もスポーツに自信が無いままだったし、心身共に成長出来る機会として大切だと思う」という意見もあるだろうが、それはあくまで結果論で、絆云々は相手も同じ想いとは限らないし、自分の中に眠る未知の可能性を否定している。偶然チームの面子が良い人ばかりだったから不快な想いをせずに済んだだけだし、短い期間に同じ場所で同じ時を過ごしただけの他人に対して抱く親近感など大抵はすぐに瓦解して幻滅という悲しい結末が待っている。そして、成長の機会など生きている限りいつでも存在する。この日この時この瞬間じゃなければ不可能、なんて考えは自身の可能性を信じ切れていない証拠だ。とは言うものの、きっかけは何であれアナタが変われた事実は尊いものだ。そこは否定しない。だが、それが他の人にも起こり得るわけではない。「子供の頃から毎朝上裸で乾布摩擦をしているお陰で私は今こんなに健康でいられるんだ」と豪語する老人と同レベルになる必要は無い。

「別に参加したっていいじゃんか。それを拒否する方が労力いるでしょ?」という意見は至極真っ当だ。しかし、「青春」という言葉に惑わされてお仕着せの行事をさせられて悔しくないか? 結局こういう行事を楽しむのは一部の飼い犬だ。過去に戻れるのなら学校の行事など全部サボって汚名を雪いでやる、と思わないか?

……これらは全て、当時の私に──かつて飼い犬だった私に向けての言葉でもある。馬齢を重ねただけで精神的視座も視野も視力も劣った大人=愚物が設けた囲いの中で疑問も抱かずに草を食み、彼らや集団の機嫌を取るかのようにお道化つつも空気を読んで協和(迎合)してきた、何よりも愚かな私に向けての呼びかけだ。私のいるべき場所は囲いの外だというのに、出ようとしなかった。

今だから言えるが、当時は澎湃(ほうはい)する自尊心と承認欲求を抑えられるだけの自制心が育っていなかったことと、生来の豊かな感受性ゆえの惰弱が畳なわって私を「孤独」から遠ざけたのではないだろうか。承認欲求はどんな人間でも持っているし、当然私にだってある。でなきゃ、こんな文章を書いてボトルメールみたいにネットの海に放り込んだりしない。今は「着の身着のままの自分」を一方的に押しつけるという図々しい行為で溜飲を下げているが、当時の私は進んで道化を演じて衆目を集めることで欲求を満たしていた。確かに欲求そのものは満たされていたし「私はその気になれば集団に属することが出来てしまう」という気づきを得られた。が、止めどなく溢れてくる自尊心と承認欲求が制御出来ずに冷静さを完全に欠き、自分を客観視するだけの余裕を失い、面の皮は日増しに厚くなることで暴走に拍車をかけた。それと、ヒトリになることに耐えられるだけの精神的堅牢さが無い私には、道化を止めて「孤独」に舵を切れるだけの度胸は無かった。だから、遊ぶ金欲しさに身売りするが如き痴態を晒し続けたのだ。愚物共と協和(迎合)することで私自らの価値すら貶めてしまった。これは悔いても悔やみきれない人生最大の汚点だ。気乗りしない行事には参加しなくて良かったし、飼い犬共の仲間になる必要も無かったし、内申など気にせず学校に行かなくても良かったのだ。

(※この段の文章は本文とは関係無いから読み飛ばしても構わない)教師は立場上特定の生徒だけに配慮することが出来ないのは理解している。が、目に見える障害を抱えていなくても配慮が必要な人間は、少数だが存在する。そういう者達を矯正して集団に埋没させた方が教師はクラス統制が楽になるのだろう。だが、生徒ヒトリヒトリの個性を尊重出来ない鋳型(いがた)教育でこれからの社会を担う後進が自らの可能性に気づき、伸ばせるとはとても思えないが。もしかすると、社会の歯車というお仕着せのものに適応出来るくらい鈍麻で畜群の才能がある代替品にはなれない子供を選別するための(ふるい)として学校教育は機能しているのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ