他我のために鐘は鳴らさない②
一応弁解しておくと、心の底から私達を心配してくれている人間もこの世界には存在することぐらいはわかっている。私の頭はそこいらの衆愚とは違って固陋ではないのだ。
悪意と偏見と狭量が蔓延る暗黒世界において星のように耀う一握りの聖人君子と
善人の皮を被った獣同然の愚物とを嗅ぎ分ける能力を、私達は持っている。
聖人君子は必ずどこかにいる。人群に惑わされてばかりだった私はその事実に気づくのに時間がかかってしまった。
彼らがヒトリの人間に声をかける時は、大抵周りに気づかれないようにしてくれる。また、
集団の輪に入ることをしつこく提案せず、申し出を断られたとしても
「もし、その気になったらいつでも声かけて」
と、何の後腐れも無さそうな顔でそう言って、静かに去っていく。しかも一連の会話を悪意によって歪曲させて言いふらしたりしない。
彼らと出会う度、こんな人間がこの世に存在するのかと感動を覚える。「優しくされたらすぐ好きになってしまうチョロい人間みたいだな」という誹りは通じない。そんな浅い嫌味しか言えないアホに、私達だけが識別出来る聖人君子の後光について説いたところで時間の無駄でしかない。彼らは優しくしてやった、声をかけてやったなんて露とも思わない。その挙措も言葉も混じりっけなしの善意一〇〇%で出来ており、受け取る側である私達の『悪意を探す』悪癖が発動しても、彼らの言動からはそれを全く見出せず、疑った自分を恥じることになる。
彼ら聖人君子が聖人君子たる最大の所以は、
私達が到達した「孤独の境地」を理解しているか・いないか関係なく、私達を劣ったものとして見下さず、対等の存在として観てくれるからだ。
私達に声をかけるのは憐憫ではなく、協力の提案だ。
私達がいくら孤独を望むとはいえ、四六時中その境地に浸っていては生きられない。癪だが愚物に迎合する必要がある。
しかし、孤独によって自尊心が肥大した私達には節を曲げる能力が無いため、愚物の言うこと為すことに追随するのを拒否してしまい、集団の中で孤立してしまう。それは迎合することよりも精神的苦痛が大きい。
そんな時に私達の助けとなってくれるのが聖人君子だ。私達と愚物共の中継役を担うことで集団内の秩序を保とうと働きかける。私達が秘めているポテンシャルに気づき適宜意見を尋ねることで私達に発言権を与えてくれる上に、愚物共にもそれが理解出来るように言葉を敷衍したり彼らの愚行や思慮の足りない発言をやんわり抑えることで私達が苦痛を感じないようにしてくれる。彼らが持つ明敏さと寛容さと当意即妙さは、私達のような理解され難い日陰者に「ここにいても良い」という自己肯定感を惹起させる。彼らは救世主も同然だ。
……とまぁ、私は決して見識が狭くて視座の低い衆愚と同類ではないことを主張してみた。
ヒトリを好む人間は自分自身と対面する時間が長いため、有象無象とは比べ物にならないくらい自己理解が出来ている。また、それ以上の時間をかけて傍観者として有象無象を眺め続けてきたため、人間の本質を見抜く慧眼が研ぎ澄まされている。これは流石に思い上がりが過ぎるだろうか? まぁ、ここで賢者タイムに入ったところで綴るのを辞める気はサラサラ無いし、考えるだけ無駄か。
悲しいことに、この世界は私達のような孤独を望む者にはあまりにも生き辛い。というか、時代が進むにつれて高度で複雑な協和(迎合)を要求される上に学業や仕事の多忙さが増していくため、ただでさえ息苦しい暗黒時代を生き抜くのに必死なのに先述の要素が重なることで、心臓を奪われたまま生きているような空虚さを常に抱いている。愚物に限って体力がやたらとあるのだ。
とはいえ、一度生を受けた以上、いけるとこまで生き抜きたいとは思う。世界にはまだまだ未知の美しいものに溢れているから。
しかし、そうは言っても障害が多すぎる。一歩進む度に括り罠に引っかかる。
その最たるものが、言わずもがな愚物である。
コイツらの機嫌を損ねると、ヒトリでいる人間の尊厳は抹殺される。その方法は主に暴力・暴言、無視、村八分、流言、吊し上げ等々。いたぶるようにじっくりと、または蚊を叩き潰す様に一瞬で。あー、恐ろしい恐ろしい。衆愚の一匹一匹は取るに足らないのに、一たび群れると鼻がひん曲がりそうな悪意の人いきれを芬々と放って、孤高の傑物を不毛の地に引き摺り落とし、誹謗の鈍器で袋叩きにする。
全く……私達が矮小な鳳字による無理解で事切れる前に国が保護すべきだというのに、国会議員共はいつまで国民感情を逆撫でるような愚行に勤しむ気なんだ? リードに繋がれた犬にちょっかいをかけて遊ぶ子供と同レベルのオツムなら速やかに退いてもらいたい。急がないと手遅れになって、未だ陽の目を観ていない不世出の天才達が皆いなくなってしまう。少なくとも、このままだと七~八年後に私は消える。