【中】
「この三人だけが図書室にいて、誰も出入りをした気配はないのに、手紙はカウンターの内側に現れた。さらには、昨日降り積もった雪だ。……仁もちょっと、こっちに来て」
椅子から立ち上がり、智弘が歩き出す。
仁もカウンターの上に置いていたハンドクリームのチューブをポケットにしまい込み、彼の後を追う。
智弘が向かったのは、図書室の奥、テラスが見渡せるガラス窓の前だった。
今日は晴れてこそいるものの、すでに夕闇は近づいている。
そして気温が低いのは相変わらずで、雪はほとんど昨日の面影を残したまま、溶け残っている。
智弘はそんな窓の外を指さす。
「見ればわかると思うけど、テラスにはまだ、足跡がない」
「そのようだね」
「昨日の時点で俺は、テラスから誰かが出入りした可能性を考えていた。だけど、その可能性がありえないのは、見ての通りだ。……なあ、仁。誰が手紙を書いたんだろうな」
智弘のその問いかけに、仁は肩をすくめて答える。
実に難題だな、と心の中で考える。
そのとき、不意にカウンターの方から声が聞こえてきた。
「図書委員? 図書委員、どこ行ったの?」
仁と智弘は目を見合わせる。
智弘が先に口を開いた。
「戻ろう」
二人が向かったカウンターの内側には、いつの間にか司書教諭の木澤先生が立っている。
珍しいことに、二日連続姿を見せた彼女は、眉をひそめてご機嫌ナナメそうだった。
「二人とも、どこに行ってたのよ」
「雪の具合を見てただけですよ。帰り道に足を滑らせても困る」
智弘が答えると、木澤先生はふーん、と目を細めてみせる。
「結局のところ、降ったのは昨日だけだったみたいね。……昨日が昨日だったから、一応、あなたたちの様子を見に来たのよ。一人はサボるし、一人はカギを忘れる。あなたたちに可愛げがなかったら、マジでムカついてたところよ」
「可愛げがある生徒で申し訳ないです」
仁が笑顔を浮かべてそう答えると、木澤先生は平手でそのおでこをぺしりと叩く。
「もうすでにマジでムカついたわ」
真顔でそう言った後に微笑んでから、木澤先生は智弘に目を向ける。
「じゃ、帰るときには準備室のカギをかけ忘れないでね。で、智弘くんは二度とカギを忘れないように。同じような機会に遭遇しても、わたしは決して助けない」
「それは困ります。薫子ちゃんぐらいしか、俺を助けてくれる人はいませんし」
「……女子の名前をそんなに馴れ馴れしく呼ぶと、後が怖いわよ」
木澤先生はそう言うと、カウンターの奥にある扉の中に消えていく。
「薫子ちゃん、ね」
仁がじっと目を向けると、智弘はにやりと笑って見せる。
「いいだろ? 別に。俺だって名前で呼ばれてるんだから、たまにはさ」
「名前の方で呼ばれるのが嫌いな人だっているって、いつも言っているだろう」
仁がそう指摘しても、智弘はまだニヤニヤと笑っていた。
呆れたように首を横に振ってから、仁は話を続ける。
「それで、話を戻すけど……智弘はさ、その三人のうち、誰と一番仲がいいの?」
「うん?」
カウンターの中に戻りながら、智弘が首をひねる。
「仲がいい相手?」
「うん。ラブレター、もらってるんだろ。渡す相手なんか、限られてるじゃないか。一番可能性があるのは、キミがもっとも親しい相手だ」
智弘は何かを思い出すように、じっと床に目を落とす。
「莉紗は、ないな」
「莉紗?」
不意に出てきた名前を、仁はつい繰り返してしまった。
よく図書室にやってくる、歴史小説好きの女の子、長谷川莉紗。
それぐらいの情報しか、仁にはない。
だけど智弘は、彼女も下の名前で呼んでいるらしい。
「キミは誰でも名前の方で呼ぶんだな。……他の二人とは何かしら接点があったのは、もう聞いたけど。智弘は長谷川莉紗とも親しいわけ?」
「親しいっていうか……」
歯切れの悪い言葉を発しながら、智弘はぽりぽりと頬をかく。
「普通に話をするぐらいだよ。図書室でも話してるだろ? それと同じように、教室でもたまに俺のところに来て、借りる本のアドバイスを求めてくる」
「なんで智弘に聞くんだよ。図書委員は他にもいるし――なんなら、同じクラスにだっている。わざわざキミに聞くってことに、特別な意味があるんじゃないの?」
その追及は、智弘にも答えられない問いかけだったようだ。
彼は肩をすくめると、弱ったように仁に答えた。
「知らないよ。それこそ、直接莉紗に聞いてくれ」
「だけど、なんでその長谷川莉紗じゃあない、と思ったんだ?」
「そう、俺が言いたいのはそこなんだ。字が違う」
智弘は胸ポケットに収めた手紙を引っ張り出す。
洋型封筒の表面には、さっきも見せてもらった通り、『安原智弘様へ』と書かれている。
「ほら、ずいぶんきれいな字だ。こんなきれいな字を書く相手が誰か、というのだけでも知りたくなるぐらい。でも、莉紗の字は違うんだよ」
「長谷川さんの字、どこで見たのさ」
「図書カード。あれ、手書きで名前も書いてあるだろう」
図書委員が本の貸し出しの手続きを行うとき、生徒からは各個人に配布されている図書カードを預かることになる。
手続きはいたって簡単。
画面の指示に従って、パソコンに接続されているバーコードリーダーで、図書カードのバーコードと、貸し出す本につけられているバーコードをそれぞれ読み込むだけだ。
図書カードはバーコードがついているだけの、プラスチック製のものだ。
だが紛失を防ぐために、バーコードの下部に手書きで名前を書く欄がある。
智弘は、そこに書いてある文字を覚えていたらしい。
「莉紗の字は丸いんだ。本人の印象とは少しギャップのある字だから、よく覚えている」
「へえ……」
そう言いながら仁は、字のことを考える。
智弘の書く字は、何となく思い出せる。
その字はクセこそあるけれど、明確な筆跡で、読みやすい字だ。
「ところで、仁の字ってどんなのだっけ。あんまり印象にないんだけど」
「それなり、かな。あんまり気にしないでくれ」
仁自身が書く文字は、普段は手早く書くことを重視しており、はっきりいって汚い。
そこは自覚がある。
何せ面倒くさいからだ。
丁寧に書こうという意思があり、時間こそあれば、また違うのだけれど。
そしてまた、仁は考える。
智弘が長谷川莉紗の字を覚えているのって、本当にギャップがあったから、というだけなんだろうか。
そこにはまた何か、特別な意味もあるのではないだろうか?
とはいえ、智弘本人が、莉紗はない、といっているわけで。
「と、すると、あと二人。佐々木麻衣は、可能性としてはどうなのさ。去年のクラスメイトなんだろ?」
「麻衣か。……麻衣だとすると、ずいぶんヘンだな」
「どういうこと?」
「一年生のとき、それなりに仲がよかったのは確かだ。大体にして、あいつが社交的なんだよ。男子にだって平気で話しかけてくるし。それに話好きだからこっちも、ついつい口が回って、余計なことまで話してしまう」
その言葉が正しければ、佐々木麻衣というのは、なかなかに開放的な女性だ。
少なくとも智弘の眼には、そのように映っている、と仁は感じる。
スポーツができ、誰にでも話しかけてきて、しかも話していても苦じゃない。
男というのは当然、そのような女に惹かれるものなんじゃあなかろうか。
それに、智弘が話した余計なことって、どんな類の話なんだろうか。
「だからこそ、違和感がある」
智弘がそういって首をひねる。
「さっきも言ったけど、麻衣は社交的なやつなんだ。はじめて話しかけられたときにはもう、連絡先を交換するような。別に男子とも平気で、二人で出かけて行ったりもする」
「……キミにもそんな経験が?」
智弘は首を横に振る。
「ないよ。でもクラスの他の男子とは実際、遊びに行ったなんて話を聞いたこともある。ちなみにそいつは、風のウワサだと後で麻衣に告白をして、そしてフラれた」
「佐々木麻衣は尻が軽いということ?」
「そういう言い方はどうかと思うけど」
智弘は少し嫌そうな顔をしてから、真顔に戻る。
「でも、あいつは俺の連絡先だって知ってる。二人で遊んだことはないけれど、休みの日に、他のクラスメイトと一緒に外出したことだってある。……だからさ、もし俺に言いたいことがあるのなら、こんな手段をとる必要はないってことだ」
「だけど……手紙でしか伝えられない、ということもあるのでは? 普段、顔を合わせてだと言いづらかったり、スマホだとなんか軽々しくなったりさ。キミは、手紙自体が嫌いだったりする?」
「そうでもないけど。むしろ、この手紙の中身は、相手が誰かを抜きにしても……なんだか真剣さが伝わってきて、よかったな。でもこれを麻衣が書いたのだとしたら、やっぱり違和感がある」
「佐々木麻衣はそんなことを書くような人物じゃない。キミはそう感じている」
「そういうこと」
仁はじっと、口元に手を当てて考える。
智弘が想定した容疑者、つまり可能性があると思われている人物は、残り一人。
「久住恵理那は?」
その名前を口にすると、智弘が急に難しい顔をする。
「恵理那か。いやあ、……どうなんだろう、な」
「ずいぶん歯切れが悪いな。久住さんと、何かあるの?」
「何か、っていうか……」
智弘が困り顔をする。
それを見て仁は、こりゃ確実に何かがあるぞ、と直感する。
少し胸を高鳴らせながら、追及をはじめてみる。
「もしかして、キミたち、付き合ってた?」
バッと智弘がこっちを見る。
的中か? と仁が思ったところで、智弘は何度も首を横に振る。
「いや。いいや、断じて、そんなことはない」
「そうとも思えないリアクションだけどな。中学三年間、同じクラスだったんだろう。仮に付き合ってたとしたのなら、キミへの想いが、再び燃え上がったとしてもおかしくはない」
「う、うーん……」
智弘が頭をかく。
それから、渋い顔をしてうなった後、やっとのことで口を開く。
「まあ、可能性としてはあり得ないわけではないけど、……いや、あり得ない」
「どっちだよ」
「あのさ、……実は俺、昔フラれてるんだよ。恵理那に」
仁はじっと智弘を見つめる。
少し気まずそうな表情をしている。
そこにはどうやら、ウソは混じっていなさそうだ。
「……それは、それは」
なんて、仁にはそんな言葉しか出せない。
しばらく二人で黙った後、仁はたずねた。
「フラれた、ということはつまり、キミの方から告白したんだ?」
「それは……まあ、そうだな」
「どこが好きだったの?」
智弘はちらりと仁を見て、それから視線を遠くへと向ける。
そうして独り言のように、どこか気のない言葉で話し出す。
「どこだったんだろうな。顔……というと、身も蓋もないけど。でも、そうだったのかもしれない。男子みんなから人気があったし。あの頃は、どっちかというと、おしとやかなイメージだったし。だからさ、言ってみれば誰も本当の恵理那のことは知らなかったんだよな」
「でも智弘は、本当の姿じゃない、彼女のことが好きだった?」
「……まあ、その頃は、だな。それに俺からすると、話せない相手ではなかったけれど、高嶺の花だな、みたいな思いもあった。それでも、同じ高校に進むことにもなったこともあって、意を決して、告白してみた」
「それで、フラれた。こっぴどく?」
「いいや。妙な感じのフラれ方だった」
智弘は頬をかくと、どこか思い出に浸るような遠い眼から、徐々に仁へと焦点を戻す。
「ごめん、悪いけど、って謝られたよ。それから恵理那は真剣な顔で、まるで自分に言い聞かせるように、言ったんだよな。わたしにはずっと、なりたかった自分がいる。高校に入ってわたしは、なりたかった自分になるんだから、恋愛にかまけている余裕なんてない、ってさ。……それがまさか、ゴリゴリのギャルになることだったなんて、俺は考えもしてなかったんだけどさ」
「その、新しい自分になれたから、改めてキミとのことを考えてみたって可能性は?」
「ないだろうな。もし本当に好きな相手に告白されたとして、仁なら、断ったりするか?」
「しないだろうね」
「だろう。それにあいつ、昨日は珍しく、本を借りていったんだ。メイクがなんたら、って本。未だに研究に勤しんでいて、ついにこういう本にまで手を出したんだよね、って笑ってた。まだ自己研鑽中ってことは……」
「恋にかまけているヒマはない、か」
仁がそう後を引き取ると、我が意を得たり、という風に智弘がうなずく。
久住恵理那が、何かの拍子で智弘から告げられた気持ちを思い出す可能性だって、ゼロではない。
本を借りに来たのだって、智弘と顔を合わせるための口実だった、ということだってあり得る。
そう仁は考える。
だけど、智弘自身がその可能性を信じていない。
今の二人の関係は、つまり、そういうことらしい。
「そんなわけでさ、俺自身は正直いって、この三人のうち、誰がこの手紙を出したのか、全然わからないんだよ。というか、みんながありえないように思う」
仁は視線をカウンターの上に落とし、三人の同級生たちのことを考える。
それからまた、智弘に目を戻す。
「一応、聞いておくけどさ。もし、相手がわかったとしてさ……智弘は、その三人のうちの誰だったら嬉しいの?」
その問いかけに、智弘は困ったような顔をする。
「なんだよ、それ」
「いや、だって。……相手が誰だかわかったら、返事するんだろ。その返事次第では、智弘に答えを教えるのが、かえって残酷になる可能性だってありうるだろうよ」
智弘はゆっくりと首を横に振る。
「誰が嬉しいとか、俺にはないよ。ただ、相手が知りたい――手紙にあるように、求められているのなら、返事をしてやりたい、ってだけで」
「じゃ、相手がその三人の誰だろうと……智弘のする返事は、変わらないってこと?」
智弘はゆっくりとうなずいた。
「まあ、そうなる」
ということはつまり――。
「……それに、なんというか、俺には、他に好きなヤツがいるからさ」
仁は智弘のことをじっと見つめる。
その言葉は、仁が心の準備をする間もなく、実にあっさり、智弘の口から発せられた。
「それは、つまり、その……お前だったりするわけなんだけどさ、仁」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
よろしければ、下の方にある応援(☆☆☆☆☆)を押していただけると嬉しいです。