【上】
「仁」
そう呼ばれて仁は顔を上げる。
十二月の放課後の図書室は肌寒く、それでも窓から差し込んでくる西日に照らされてどこか暖かな光に満ちていた。
仁を呼んだのは、友人の智弘だ。
そのとき仁は、図書室のカウンター内にある椅子に座っていて、チューブから指先にハンドクリームを二センチほど出したところだった。
指先を宙に漂わせた状態のまま仁は、そばに立つ智弘の顔に目を向ける。
彼にいつもと違う様子はない。
「なんだよ、じっとこっち見てさ。俺の顔、何かついてる?」
「……いや、別に。キミの顔は、普通だ」
そのとき智弘は、仁の指先についたハンドクリームに気づき、白い滑らかなその表面を見つめていた。
そんな智弘の様子を仁は眺めている。
なんだか不思議な反応だなと思う。
大体にして、そんな珍しいものじゃあるまいし。
そもそもこのハンドクリームは、仁が智弘にもらったものだった。
智弘の姉も手の乾燥に悩まされており、家には愛用のクリームが大量にストックしてあるそうだ。
ラベンダーの香りがするそのクリームの一つを、モノは試しだと、仁に分けてくれたのだ。
やがて仁は、手の甲にハンドクリームを塗りこみはじめる。
仁の手はしばしば、冬になると乾燥する。
こればかりはそういう体質だからしょうがないと思っている。
ひどい時には皮膚が割れて血が流れたり、手を洗ったりすると痛みが走る。
それを防ぐために冬にはクリームを塗る習慣があった。
「あかぎれ、ひどいのか?」
仁にそうたずねてくる智弘は、仁と同じ図書委員だった。
一・二年生の間は二人一組、二月に一度の頻度で、一週間の貸出・返却受付の当番が回ってくる。
仁と智弘は同じ学年ではあるけれど、遠くクラスが離れているから、仁が彼と話す機会は図書室の中が最も多い。
手にハンドクリームを塗る作業を続けたまま、仁は首を横に振る。
「ううん、予防のために塗ってるだけ。キミがくれたクリーム、ありがたく使わせてもらってる」
「そうか」
智弘は仁の隣の、空いていた椅子に座る。
図書室の中は静かだった。
今のところ、まだ誰も来ていない。
我が高校の生徒は読書に興味がないらしい、と仁はいつも思っている。
その仁自身だって、あんまり読書が好きな方ではない。
ふと、隣で智弘が、静かな深いため息をつく。
手にクリームを塗りつけながら、仁はその息の音を聞いていた。
やがて智弘が口を開く。
「ところでさ、仁。ちょっと、相談に乗って欲しいことがあるんだけど」
「相談?」
「ああ。ちょっと、これを見てくれ」
智弘は制服のブレザーの内ポケットから、あるものを取り出し、カウンターの内側に置いた。
仁の呼吸が一瞬、止まる。
「それ……」
「うん。手紙なんだ。ラブレター、といえばいいかな」
智弘がカウンターに置いたのは、淡いクリーム色の封筒だった。
表には『安原智弘様へ』と智弘のフルネームが書かれている。
「でさ、もらったのはいいけど、困ってる」
「……困ってる?」
仁がそう繰り返すと、智弘は眉をひそめて、うなずいた。
「そう。……実は、それ、差出人の名前がないんだ」
「え?」
仁はじっとその、クリーム色の封筒に目を落とす。
ラブレター。
だけど名前がない。
名前がない?
胸の内で仁はもう一度、そうつぶやく。
「だから、誰から送られたものなのかがわからない」
仁はクリーム色の封筒を手に取る。
いわゆる洋型封筒。
ダイヤモンド貼りというタイプのもの。
封筒の口は、銀色の丸いテープで止めてある。
智弘は確かに一度、その封筒の中身を読んだらしい。
軽くつまむと、粘着力の弱まっていたテープは簡単にはがれる。
封筒の中には白い便せんが一枚、入っている。
「その封筒を見つけたのは、昨日の放課後、この図書室で。――もし昨日ここに仁がいたら、そんなものに頭を悩ませなくても済んだのにな。突然、用事があるなんて言って、図書委員をすっぽかすから」
仁は細めた目を智弘に向ける。
「だって……それは本当に、事情があって」
「でも、すっぽかしたのは確かだろ。それはさておき、だ。俺が図書室にやってきた時点で、その手紙はなかった。それは間違いない」
「……それって、何時ぐらいのこと?」
「三時三十分ぐらいかな」
「いつもよりも早いね。キミのクラスの掃除場所って広いのでは?」
掃除場所は各クラスに特別教室を含めた校内の各所が割り当てられている。
そして智弘のクラスに割り当てられているのはいずれも、比較的時間がかかる場所ばかりだった。
「今月のはじめにさ、担任が教頭に文句を言ってくれたんだ。そしたら他のクラスと調整してくれた」
ふむ、と答えながら仁は封筒の中の便せんに触れてみる。
ざらざらとした感触が残る。
「早めにやってきた俺は、しばらくカウンターでぼんやりしていた。実を言うと、仁、お前を待ってたんだ」
「……どうして?」
「準備室のカギ、家に忘れたんだ」
図書室のカウンターの内側には、図書準備室という部屋がある。
廊下ともつながっているその部屋には、受付業務に使用するパソコンが収納されている。
図書委員は通常、廊下からカギを開け、図書準備室を抜けてカウンターの中に現れる。
彼らが最初にする仕事は、図書準備室からパソコンをカウンターに取り出し、受付業務に備えることだ。
この必要不可欠なカギを智弘はよく忘れる。
図書室にやってくるのはたいてい仁の方が早いし、仁がカギを忘れることもないから、なまけることを身に着けてしまったのかもしれない。
「で、そのうちに三人、生徒がやってきた。――誰が来たのかはよく覚えている。それから俺は、図書室の奥に向かった。窓の外を見に」
「雪?」
少し考えた後、仁はたずねた。
昨日は、仁たちの住む地域には珍しく、雪が降ったのだ。
初雪だった。
「そう。降るぞ降るぞ、って言われてて、実際に降りはじめたから、気になったんだ。そうしたら、テラスはすでに雪が積もっていた」
この図書室は高校の一階にあり、図書室の奥にあるガラス戸からテラスに出ることができる。
このテラスは校門からのアプローチにもつながっていて、昇降口で靴を履き替えた後で、借りたい本を思い出した場合は、外から直接この図書室に上がり込むこともできる。
帰ろうと思えばそこからそのまま帰ることもできる。
しかし、タダでさえ閑古鳥のなくこの図書室には、そこまでしてやってくる生徒はない。
テラスからの出入り口は、実際のところほとんど利用されていない。
「雪を見るのに満足した後、俺はカウンターに戻った。そこを離れていたのは、十分あるかないか、だったはずだ。そしたら、カウンターの中には木澤先生がいた」
司書教諭である木澤先生は、通常、放課後の図書室には現れない。
生徒たちの自主性を重んじるとかで、受付などの仕事はほとんど生徒である図書委員に任せられている。
受付を担当する一週間のうち、せいぜい一度現れるぐらいだった。
その珍しい一日が、昨日だったらしい。
「俺を発見した木澤先生は、こう声をかけてきた。『準備室のカギ、かけっぱなしだったから来てみたんだけど……智弘くん、パソコンは?』俺はこれ幸いと、こう答えた。『カギ忘れたんです。先生が来てくれて、ちょうどよかった』。『まったく』俺がパソコンを出した後、木澤先生はこの手紙を俺に渡してくれた」
「……木澤先生が持ってたの?」
「床に落ちてたんだとさ。場所はこのカウンターの中。それで、俺の名前が書かれているのを見つけた」
「へえ」
「中には結構、甘い言葉が書いてある。……で、最後には『この気持ちをどう思うのか、返事が欲しい』って、そんなことが書いてある」
「なるほどね」
「……読んでみるか?」
仁は、首を横に振る。
「名無しだとしても、ラブレターなんだろ。そんな個人的なものに、目は通せない」
「そうか」
仁は封筒を智弘に差し出す。
智弘は何気ない手つきで封筒を受け取り、制服のブレザーの内ポケットにしまい込む。
「それでキミ、これをどうするの?」
「そう、そこが困っている。……返事をしようにも、誰がこれを書いたのかもわからない。だから、仁に相談したかった」
そのとき不意に、ギィ、という比較的大きな音が鳴る。
図書室の入り口の扉は建て付けが悪く、いつもこんな音がする。
二人は図書室の入り口に目を向ける。
すぐに小声で話をする数名の男子生徒が入ってくる。
今日はじめての来客だ。
そう思ったときに智弘が口を開く。
「ヒントがあるとすれば、この音」
「音?」
「そして雪」
仁が首をかしげてみせると、智弘が言葉を続けた。
「俺はさっき、テラスを見たって話をしただろ。そこはまっさらな雪が積もっているばかりで、足跡ひとつなかった。それはよく覚えている」
仁もまた、昨日の記憶を思い出す。
そのころ仁は、自分の教室のロッカーに戻り、リュックを収めていたあたりをひっくり返していた。
窓の外を見る余裕なんて、とてもじゃないが、なかった。
智弘が言葉を続ける。
「その少し前――三人の生徒がこの図書室にやってきていた。全員女子だ。集団じゃなく、みんなそれぞれバラバラに来て、それぞれの場所にいた。図書室は当然、話し声もなく静かだった」
今の図書室は、先ほど入ってきた生徒のざわめきがする。
利用する生徒が少ない分、グループで来た場合には、騒音を上げることに抵抗もないのか、話し声が響いている状況も多い。
図書委員の仁たちも、大抵の場合、今日のように二人で話をしている。
だが昨日の図書室は静かだったらしい。
「だから、音がよく聞こえた。俺がカウンターを離れている間も、な。……その音の中に、あの建て付けの悪い図書室の扉が、開いたり閉じたりする音は、含まれていなかった」
「つまり、キミはこう言いたいの? その三人の中の誰かが、キミに手紙を書いた」
「そう。――名前がないのは書き忘れたのか、あるいは意図的なのか。直接渡さずにカウンターの中に置き去りにしたのはなぜか。わけがわからないことは多いけど、名前のない手紙を置いたのは、普通に考えれば、その三人のうちの誰かだ。だってそうだろう? その時間に、そこにいたのは、その三人しかいないんだから」
そうだろうか、と仁は心の中でつぶやく。
だが、言われてみればそういう考えに至るのは理解できなくもない。
確かに、可能性があるのは、その三人しかいないようにも思える。
「……ちなみに、その三人って?」
「うん。全員、同級生だ」
そう言って智弘は三人の名前を挙げる。
二組の佐々木麻衣。
四組の久住恵理那。
八組の長谷川莉紗。
「三人とも、わからないな」
「これだから、仁は……」
智弘があきれ顔をする。
そうして、その三人について、仁に若干の情報を教えてくれる。
佐々木麻衣。
仁だって彼女のことは確実に見たことがある、と智弘はそう請け合う。
なぜかというと麻衣は、この高校では最も有名な陸上選手だからだ。
女子陸上百メートルの県記録保持者。
すでに大学からも勧誘が来ているとか、来ていないとか。
外見は、スポーツマンらしく細身で、すらりとしたシルエットだ。
髪型はいつも、長く垂らしたポニーテール。
「やけに詳しいね。好みのタイプだったりするの?」
率直な感想を仁が口にすると、智弘は肩をすくめる。
「麻衣とは去年までクラスメイトだったからな。結構、話もする方だった」
「なるほどね」
智弘の今のクラスは一組だ。
しかしこの高校のクラス替えは、二年に進級する際に行われる。
それまで智弘は、麻衣とはクラスメイトとして話す機会があったらしい。
次いで、久住恵理那。
もしかしたら仁は恵理那のことを知らないかもしれない、と智弘は言う。
ピンと来るなら来るし、そうでないのなら決してわからない、と。
「四組の派手なギャル……って言えば、わかるか?」
「いいや」
仁がそう素直に答えると、智弘はため息をつく。
「それでわからなければ、ダメだな。……ともかく、ウチの学年だと一番派手な格好をしてるヤツだよ。髪はほとんどピンクに近い金髪だし、化粧もしてれば、カラコンだってたまにつけてる」
仁はじっと、脳内の記憶を探る。
言われてみれば確かに、明るい髪の女子生徒がいたような気がする。
だがあんまり他の生徒を気に留めない仁からすると、派手だな、と少し考えた程度で記憶から流したような気もする。
一方で、恵理那のその派手さが決して嫌な感じではなかったことも覚えている。
たぶんそれは、そういう格好が、派手な彼女にはよく似合っていたからなんだろう。
「中学校までは普通だったんだけどな、恵理那も。どっちかといと、清楚な、優等生な感じでさ。だけど高校デビューで、ガッツリそっち路線に行ってしまった」
その発言に、仁は眉をひそめてみせる。
「またしても、知り合いなんだ?」
「まあ、な。こっちは中学三年間、同じクラスだった。あれで成績は優秀だから、教師も指導に困ってるんだろうよ」
三人目は、長谷川莉紗。
「この子は、仁も知ってるはずだ。……ほら、よく図書室にも来てる、丸いメガネの。仁は七組だから、隣のクラスでもあるだろ」
そう言いつつ、智弘は首のあたりで開いた手を水平に動かす。
それがどうやら髪の長さを示している動作であることに、仁は気づく。
「ああ、あの子か。歴史小説好きの」
うなずく智弘を見ながら仁は、それまで長谷川莉紗という名前を知らなかった、彼女の顔を思い返す。
首あたりで切りそろえられた黒髪。
厚くて丸いメガネ。
莉紗と話したことはないが、たぶん大人しめの性格で、本好きなのは間違いない。
一つ一つの要素を上げると、どうしても野暮ったくなりそうな彼女だが、どこか幼く、可愛らしい顔立ちをしているのは、仁もよく覚えている。
彼女は二日に一度は本を借りに図書室にやってきていた。
たまに智弘と話し込んでいるところを見たことも、二人の会話を聞いたこともある。
だが、今日のところは、昨日借りた本で間に合っているらしい。
その姿を見せていない。
「それが、智弘のにらんでいるところの、三人の容疑者」
「……その言い方はアレだけど、まあ、そうだな。なあ、仁。一体、誰だと思う?」
そう言って智弘は、ブレザーの上から、内ポケットに収めた封筒を指さして見せる。
スポーツウーマン。
ギャル。
メガネっ子。
三者三様のタイプの女子。
誰だと思う、か。
仁は胸の奥でそんな言葉をつぶやく。
もちろん、その手紙の出し主が誰なのか、仁にはすでにわかっている。
ただ、まだ、解けない謎があるだけなのだ。
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