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バカンスは疲れを抜くのには適していない。家の外に出て、遊び歩いて疲れないわけがないからだ。バカンスの疲れを抜くのにはまた別の休暇が必要になる。休みがいくらあっても足りないわけだ。
そういうわけで、五日間のバカンスを終えたばかりのぼくたちは疲労のピークの状態にあった。
なにしろ毎日おてんとさまの下で何時間もじっとしていたのだ。顔は赤くなっていたし、体の芯には熱が残っていた。
さらに燃料を節約するために冷房も切っていたから、夜は寝苦しいなんてものではなかった。窓を開けてもときおり、山の匂いと共に生ぬるい風が入ってくる程度だ。。
しまいには下着だけになって、眠れない時間をどうにかやり過ごそうと努めた。
「起きてる?」
真っ暗闇の中、ちょっと呟いてみた。
「ああ……」
萩原が返事をした。やっぱり起きていた。いつもなら布団に入った瞬間にはもう眠っているのだが、この暑さと状況ではそうもいかないのだろう。
「眠れないのか?」
ぼくが訊くと、
「そりゃあね。初めての経験だから」
「初めてはだれでも怖いもんな」
「ああ、でもこれで次のときは大丈夫」
「そうだな。なにごとも経験だから」
お互い、精彩を欠いた軽口を言い合う。無意識に強がっていたのだろう。
「正直さ、現実味がないよなあ」
気まずい沈黙をかき消すため、ぼくはそう言った。。
「そうだね。ちょっと世間を抜け出してる間にこれだから。本当に冗談みたいな話だよ」
いままでの付き合いで萩原が動揺している様子なんてほとんど見たことがなかった。
人間じゃないみたいに、どんなときだってスマートだった。
すなわち現状はそれだけやばいということなのだろう。
「……ぼくたち生きて帰れるのかな」
「そう思って行動するしかないさ」
「そうだね」
「だから早く寝よう。明日は忙しくなるから」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
おやすみを言ってどれくらい経ったかは定かではないが、いつのまにか眠りに落ちていた。
どんな状況でもいつか必ず眠気はやって来る。そして必ず朝は来る。
ともかく生きている間は。
翌朝――といっても午前一〇時過ぎ―一、ぼくと萩原は同じように目を覚ました。
「ずいぶん遅くなっちゃったな」
「マルが眠ったの夜中の二時くらいだったからね」
「なんでわかる?」
「あのあと話しかけたら寝てた」
「じゃあ萩原はもっと遅かったわけか。大丈夫か?」
「試験前に比べたら全然平気だよ」
「ふふ、それもそうかもな」
などと平時みたいに呑気な会話を交わしながらリビングに行ってみたが、まだだれも起きていなかった。
食事の形跡なども見当たらなかったから、おそらくほかのメンバーはぼくたち以上に眠れなかったのだろう。
三〇分くらいして、まず部長が、それから鳥見。最後に伊藤が顔を見せた。
「五反田は?」
萩原が訪ねると、
「具合が悪いって。部屋でまだ横になってる」
生気のない挨拶を交わして、あえて現状について言及しようともせず、作業のようにカップ麺を啜った。
インスタント食品ばかり続けて食べているとなんとなく気が塞いでくるものだ。一人暮らしの学生としては、そんなことは十分すぎるほどわかっていたが、六日目ともなるともう選択肢はなくなっていた。
新鮮なものが食べたければ自分で魚を釣るしかない。幸いなことに川は目の前だ。
先日バーベキューした新鮮な川魚は美味しかった。
釣り合宿でよかったことをもう一つ挙げるなら、魚嫌いを克服できたことだろう。
コーヒーの香りがカップ麺の匂いを上書きする。
食後のコーヒーが給じられるが、手をつけるものはぼくと萩原しかいない。
「――今日、もう一度下山を試してみない?」
気詰まりな沈黙を破って萩原がそう提案した。
一同がおもむろに頭を上げる。
「救助の連絡がつかない以上ここにいてもジリ貧だろうから。空港の前を突破できれば、街に出ればなにか変わるかもしれない」
萩原はそう続けたが、
だれもなにも言わなくても場の総意は決まっていた。
一晩、考える時間がたっぷりあったせいで、及び腰になってしまったのだろう。
「いや、あの大群を突破するのは無理だよ」
ためらいつつも部長が発言する
「それに街の方はここよりもっとひどい状況かもしれないし」
「わたしも部長に賛成。剛の体調だってよくないんだし」
「おれもそう思う」
伊藤と鳥見もそれぞれ同意見のようだ。
「マルはどう?」
「え? えっと、ぼくも様子見がいいと思う」
急に水を向けられて、ぼくはひよってしまった。
「……そうか。みんながそう言うなら仕方ないな」
萩原は引き下がった。
「なら幸い倉庫にはまだ保存食もあるし、食料はしばらく大丈夫だと思う。昨日も言った通り電気はもうあんまり燃料がないけど」
萩原がすまなそうに言った。
昨日ぼくたちが電波を見つけに行っている間に、萩原たちは一通りの在庫の確認をしていたらしい。
「これから救助がくるまで籠城するってこと、だよね?」
伊藤が訊く。
「そうなるかな。情報がない以上、みんなの言う通りそれが賢明かもしれないしね。おれも少し焦っていたと思う。ごめん」
萩原はすっかり意見を翻した。みんなが怯えている以上、突破は不可能だと頭を切り替えたのだろう。
「いまなにかできることはあるかな?」
ホッとして平常心をいくらか取り戻したのか、部長がそう言った。
「そうだなあ。本当はちゃんとしたバリケードを作れたらいいんだけど資材がないし……」
萩原が考え込む。
「それなら釣りは? いくらかでも食料の消耗を抑えられるかもしれない。ほかにも有名な山菜くらいならわかるよ。道具があれば木を切ってみてもいいし」
面目躍如とばかりに部長がまくしたてる。
「ぜひお願いしたいけど、籠城するなら今日は敷地から出ない方がいいと思うな。もしかしたら感染者が近くまで来てるかもしれないから」
「うーん、そうだね。じゃあ今日のところは……」
部長が心なしかしょげたように唸った。
会話が一段落したとき、
「――ところで五反田のやつ、あいつ大丈夫なのか?」
それまでだんまりを決め込んでいた鳥見が突然そう口に出した。
仲間の身を案じているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「もしかしてその、変なウイルスに感染してるとか」
「鳥見くん!」
伊藤が声を荒げる。
「まあまあ」
それを部長がなだめる。
「鳥見、さすがに言葉は選ぼうよ」
「だけど、昨日はだれも車から降りなかったよ」
ぼくは反論する。
「けど空気感染したのかもしれないだろ」
鳥見はそう突き返す。
「まあ、そりゃあそこまではわからないけど」
ぼくは口ごもった。
「空気感染はしないってニュースにはあったよ」
萩原が助け舟を出してくれる。
「しょせんニュースだろ。本当にそうならなんでこんなことになってるんだよ」
鳥見はなおも食い下がる。
「そうかもしれないけど、だとしたらもうどうしようもないさ」
萩原が諭すように言った。
「とにかく五反田の世話はこっちでやるから、鳥見は心配しなくていいよ」
まだ不満そうではあったが、それで一応鳥見も納得したようだ。
手持無沙汰なので、気休め程度ではあるが、なぜか物置に大量においてあった丈夫なロープを二巻きほど使い門扉をぐるぐる巻きにして、リビングに置いてあった重たい机を外に運び出して門の前に配置した。
こうしたことは手間がかかるように見えて、時間があり余っているときには簡単に終わってしまう。
ぼくたちが燃料節約のために冷たいシャワーを浴びた後、リビングに戻ると、ずっと部屋で看病をしていた伊藤が降りてきて五反田の容態をぼくたちに伝えた。
「やっぱり剛、熱があるみたい」
「夏風邪かな。熱中症でないといいんだけど。昨日熱かったから」
萩原が言う。
「喉が痛いって言ってたから風邪だとは思うんだけど……」
伊藤は一同を見回して、
「だれか風邪薬持ってる?」
「ああ、たしか倉庫に薬箱があったはずだ。取って来るよ」
萩原が二階を指差す。
「風邪がうつるとよくないから、伊藤は鳥見の部屋を使うといいよ」
部長がそう言うと、
「ええ!」
と鳥見が嫌な顔をする。
「ありがとう。でも鳥見くんはどうするの?」
「一階のぼくの部屋で寝ればいいさ」
「部長を引き取りたいところだけど、一部屋に三人じゃあちょっと窮屈だからね」
萩原が肩をすくめる。
「悪いけど相部屋を頼むよ」
「まじかよ……」
「仕方ないだろ。こんなときなんだから」
部長もちょっと強めの口調で言う。
「わ、わかったよ」
さすがに嫌とは言えないようで、鳥見も不承不承頷いた。