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三日目も同じようにして過ぎていった。
だが四日目には正直言って少々辛くなってきた。基本的に酒と釣り以外に娯楽がなかったし、そもそもぼくはそんなに釣りが好きではないからだ。
釣りサークルのメンバーでさえいつでも好きなときに好きなだけ釣りができるとなれば却ってやりたくもなくなるようで、部長を除いてだれも竿を持ち歩かなくなった。
そして五日目。
もう帰りたかった。
五日間に渡るスローライフは情報過多からのデトックス効果をもたらしたが、これ以上のデトックスは健康を害するおそれがあった。体がYOUTUBEを求めていたのだ。
だから、
「そろそろ帰らない?」
昼過ぎに部長がポツリと言うと、全員から賛同の声が上がった。
ぼくたちはすぐに後片付けと荷造りをして、夕方には車に乗り込んだ。
車は例の獣道を抜け、山道を下っていく。
しばらく進むと、
「あ、電波発見!」
と鳥見が声を上げた。迷子が親を見つけたときのような声だった。
帰りはぼくがハンドルを握っていて、スマホはバッグに入れっぱなしにしてあったので確認できなかったが、どうせ通知は来ていないだろう。
「お、通知めっちゃ来てる。一〇〇件以上!」
鳥見が言った。
「え、わたしも同じくらい来てる!」
「いや、ちょっと様子がおかしくないか?」
五反田が言った。
「そうだね。もしかして行方不明だと思われてたとか?」
と部長。
「それはないはずだ。みんな家族や友人には行き先伝えてから来たんでしょ? だったら全員にこんなに通知が来るのは変だ」
萩原が少し頭を掻いた。
「だれか返事してみたらどうかな」
「ちょっとお母さんに電話するね」
伊藤が電話を掛けるが、
「だめ。電話取らない」
「こっちも繋がらない!」
一同そんな様子で、車中は軽いパニックに陥っていた。
「ちょっと待って、電話繋がった!」
部長が叫んだ。
部長はスピーカーボタンを押して、通話の音を周りに聞こえるようにする。
「――よしき! あんた無事なの?」
少ししわがれた女性の声。ちらっと背後を振り返ると画面には「母」と表示されていた。電話越しに唾が飛んできそうなほどの剣幕。よほど息子を心配していたのだろう。
「うん、こっちは大丈夫だけど、なんかあったの?」
「なんかあったの? じゃないでしょ! あんたなにも知らないの?」
「落ち着いてよ。ちゃんと説明してくれないと」
「電池が切れそうなのよ。いま避難所にいるから。あんたそっちがなんともないなら、そこにいて救助待ちなさい! 帰ってこないように! わかった?」
「避難所ってどういうこと? 大丈夫?」
部長の母親がなにか言いかけたところで通話はぷつっと途切れた。
「わけわかんないね」
部長は肩をすくめてみせたが、母親のことが心配なのか声がうわずっていた。
「どうやら世の中では感染病が一気に広まってたらしいよ」
萩原がスマホの画面を後部座席のみんなに見せた。さっきから隣で黙ってなにかしていると思ったらネットでニュースを確認していたようだ。
「この感染病は人の脳を侵す。……だから感染すると凶暴化して周りを襲うようになる……らしい」
萩原が訥々とその記事の内容を読み上げた。
「はあ? なんだそれ」
鳥見が言った。
「血液を介して人から人へと感染する。全国で少なく見積もっても一〇〇万人の患者が発生しているそうだ。三日前の時点で」
「じゃあいまは?」
伊藤が小さな声で訊いた。
「いまは推定不可能らしい。首都圏の機能はほとんど麻痺しているって書いてある」
「じゃあなんでネットはできるんだよ?」
五反田が眉根を寄せながら言った。別に萩原が病気を広めたわけではないのに。
「それはわからないよ。でもずいぶん遅くなってないか? ページが表示するの」
「たしかにそうかも……」
伊藤が頷く。
「相当ヤバいことになってるみたいだね」
部長がまとめた。
ヤバいで済むはずもなかったが、それでも世界が終ろうとしているなんて、だれも考えなかった。
なにしろ、いままで終わったことがなかったものだから。
しばらく車を走らせると空港が近づいてきた。
だが異変は明らかだった。もう日も暮れかけているのに付近がやけに薄暗いのだ。
街灯は光っていたし、空港の敷地内もそれは同様だったが、それにしてもなにかがおかしい。
もっとも空港などめったに寄ることはないから、こんなものなのかもしれないが。
ぼんやりとそんなことを考えていると、視界の先に人影が写った。
やばい!
ぼくはブレーキを踏む。
判断が早かったおかげでまだ距離のある段階で、車を止めることができた。
だがその衝撃で後部座席のメンバーが声を上げる。
「どうした?」
「いや、道路を横断している人がいたから急ブレーキかけたんだ。ごめん」
そう言って、道路の先を示したが、その人は横断しているのではなくこちらに向かって歩いてきていた。
それも淀んだ足取りで。
「なんだこいつ?」
鳥見が怪訝そうな声を出す。
「っていうか、人増えてない?」
見るともっと遠く、空港の敷地から続々と人が道路へ溢れてきているではないか。
離れていても、尋常でない様子が理解できた。
バグったマスゲーム。正常な人間ではなしえない光景がそこにはあった。
「もしかしてこれってさっき萩原が言ってた……」
気づいた後部座席から一斉に悲鳴が上がった。
「マル、Uターンしよう」
萩原が冷静に指示をくれた。
「わかってる!」
ぼくはハンドルを思い切り切って転回し、いま来た道に向き直った。
しかし、気付かない間に、いましがた通ってきた道をいつのまにか四人の人影が塞いでいた。
「ゾンビだっ!」
鳥見が無遠慮に叫んだ。
病気に侵された人間のことをゾンビと呼ぶのは多少気が引けたが、しかし彼らの様子を見ればそう思わざるえない部分もあった。
呆けた面でよろよろと歩き、眼球はあちこちを向いてさ迷っている。しかしそれでいて、どこかで獲物を認識しているのか、着実にこちらに歩み寄ってくるのである。
この逃げ場のない一本道で、背後は大勢に取り囲まれ、前方では四人ではあるもののこちらを視認したゾンビが迫ってくる。
ぼくは折れそうなほどに(むろん、ぼくの指の方が)ハンドルを強く握りしめながら、どうすればいいか脳みそをフル回転させていた。
そしてぼくの脳みそはオーバーヒートを起こす。
やばい、という焦燥がぼくの右足を動かした。
ミニバンは思い切り加速をつけ、前方の四人を跳ね飛ばす。
速度が不十分だったので、跳ねるというより押しのけて踏むという形になり、ぐしゃっという嫌な感覚がお尻の下を通り過ぎた。
おかげでエアバッグは起動しなかったが、バッグミラーに映る映像は衝撃的で頭がどうかしてしまいそうだった。
アクセルを踏みながら、
「やってしまった……。やってしまった……」
と唱えていると萩原はぼくの肩を優しく叩いた。
「いまのは仕方ない。おれでもそうする」
だが実際にやったのはぼくなのだ。
とはいえ少し安心したのも事実で、気持ちをちょっとだけ取り直し、ちゃんと前を見られるようになった。フロントガラスには血糊が少し飛び散っていた。
後部座席の面々はショックのせいか言葉を失っている。
「これからどうすればいい?」
ぼくは訊ねた。
「とりあえず別荘に戻ろう。一旦情報を整理して落ち着いてから計画を立てた方がいい」
萩原はこんなときでも、落ち着いた声でそう言った。さすが政治家の息子だと感心した。
「待って、ほかの道はないの?」
部長が割って入る。
萩原は他人事のように冷静だった。
「この一本道だけだね。山の中を通って街へ出ようとしたら車では行けないはずだ」
「じゃあ早く戻ろう!」
鳥見が甲高い声で言った。よほど怖かったのだろう。自分以外がこれほどうろたえているとなんだかぼくも少し冷静な気持ちになってきた。
伊藤は五反田の胸板に顔をうずめたまま喋らない。
部長も異論はなかったようで、ぼくたちは別荘へと引き返すことになった。