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五分ほど山の手に沿って行くと、巨大な水溜まりが見えてきた。
「ここが白鳥沼」
萩原がそう添えた。位置的には大学から遠くないが、駅と反対方向なのでぼくは一度も来たことがなかった。
低地にたたえられた緑色の水に、日差しがはねてぎらぎらと光っている。
その眩しさの中、沼と道路を区切るガードレールのそばに一組の男女が立っていた。こちらの車に気付いて手を振っている。
男の方はやや背が低いが整った顔立ちをしており、服を着ていても筋肉の隆起が見て取れた。二人分の荷物の半分以上を彼が抱えている。名前は五反田剛。意志が強そうで男らしい、高校の野球部にいそうな見た目をしていた。
隣の女は伊藤莉緒。背は五反田よりも頭一つ高くモデルみたいにスタイルがいい。顔もまず美人の部類に入る。といって完全な美人というのではなく、やや崩れたところもあったが、人好きのする笑顔が全体に調和をもたらしていた。
五反田と伊藤、美男美女といって差し支えないだろう。
あれ以来カップルを見ると心がざわつくようになっていた。それが美男美女である場合は、吐き気も追加されることにこのとき気が付いた。
ずいぶんとこじらせてしまったようだ。
「荷物はトランクに」
萩原が窓を開けて指図した。
二人は車の後ろに回り込む。
「萩原くん、荷物が入りきらない」
一分ほど手間取った末、伊藤がそう訴えた。
「今回荷物多いもんな」
萩原は苦笑いする。
「仕方ない。カールーフに乗せよう。あとは悪いけどみんな置けるものは足元に置いてくれないかな」
六人も乗って、着替えなど全員分の荷物を積むのはビッグサイズのミニバンでも無理があるのだろう。車内はかなり窮屈だった。
五反田は二列目の座席に詰めて座り、三列目には行き場のない荷物と伊藤が座った。すし詰め状態の男三人は見ているだけで暑苦しい。
「狭い。五反田、伊藤と変われよ」
鳥見が五反田の肩を押した。
「お前が後ろに座ればいいだろう」
五反田は手を払いのけ、片頬をつり上げて笑う。
軽口の体裁をとってはいるが本当に反目しているのが伝わってくる。軽薄な鳥見と、物静かでどこか斜に構えたようなところのある五反田ではいかにも取合わせが良くない。実際この二人はこの後も、ことあるごとにいさかいを起こしていた。
「お前ら本当に仲がいいな。ったく」
端に座っていた部長が、鳥見と五反田の間をこじ開けて座った。それから両隣の肩に腕を掛け抱き寄せる。
「あほか!」
「そもそも部長がでかいせいなんだよ!」
二人はそう言って部長の腕から逃れるも嫌そうではない。どうやらこのサークルでは部長が潤滑油の役割を果たしているらしい。
「またやってる」
三列目に一人腰掛ける伊藤がクスクス笑った。釣りサークルの紅一点でなおかつ美人。笑う度、細く滑らかな黒髪が小刻みに揺れる。
こんな子が同じサークルにいれば、ぼくだったら惚れてしまって、サークルの活動なんか二の次にしてしまうことだろう。
この間、挨拶に行った折にぼくが伊藤に見とれていると、萩原がそっと耳打ちしてきた。
「伊藤は五反田と付き合ってるからね」
自分を殴りたくなった。健康的に日に焼けた肌、くりくりとした大きな目、魅力的な笑顔。そんな女の子に相手がいないはずがないではないか。
一か月前の事件を思い出せ。ぼくは一目惚れなんてリスキーなことをしていい人間ではないのだ。
「へえ、お似合いだね」
そう強がったが、心の中では泣いていた。
「――ねえ、丸内くん」
出し抜けにぼくの名前が呼ばれた。声の主は伊藤だ。
「うちはこんな馬鹿ばっかりだけど、よろしくね」
「ぼくもそうですよ。改めてよろしくです」
と、どうにか取り繕った。如才ない対応だったと思う。
横で萩原が呟いた。
「混乱しているときは釣りをしてると心が休まるよ」
「へえ、そうなんだ」
その釣りのせいで混乱する羽目に陥っているような気もしたが。
三時間後、車内で声を上げるものはカーステレオと冷房だけになっていた。
目的地は、清流の水音が木霊する深奥の地と聞いている。つまりド田舎だということだ。
だけどまだまだ辺りは山奥というにはアスファルトも民家も多い。到着までは時間がかかりそうだ。
だれも口を開かない。萩原さえ、ぼくに運転を変わることもなく黙々とハンドルを握り続けている。
静かな時間がしばらく続いたあと、窓も開けていないのに突然轟音がした。何事かと思っていると、
「空港が近いんだ」
萩原が説明した。
部長と五反田は騒音など気にせず仲良く眠っているし、伊藤は窓の外の景色を必死に見つめていた。おそらく吐きそうなのだろう。エチケット袋を握りしめている。
「それはいいんだけど、あとどのくらい?」
「一時間くらいかな」
バックミラーで伊藤が背もたれに倒れ込んだのが見えた。
「それって車で?」
ぼくは確認する。
「もちろん。最後まで車で行けるさ」
「でも電気は来てないんだろ。どんな場所だよ」
鳥見が笑った。
「行ったらわかるよ」
萩原によると、電気だけでなく電波も来ていないらしい。ガスも水道もだ。
二十一世紀に存在する場所ではないような気がしたが、そんな辺鄙な場所もあるところにはあるのだ。
「でも発電機があるから大丈夫。水も井戸から引いてある。冷房だってある」
「しかしそんな場所によく別荘なんか建てたな」
鳥見が言う。
「土地自体は代々持ってるものなんだけどな。ま、釣りのためさ」
萩原はハンドルを離して、リールを回す手振りをする。
「おれが釣りを始めたのも親父の影響だしな」
ぼくは萩原の父親とは面識がないが、実業家出身の国会議員としてテレビで何度か目にしたことがある。
本人は父親のことをひけらかしはしないし、次男だから目を掛けられているわけでないとぼくには話してくれた。
「別荘を建てるなんて羨ましい限りだ」
鳥見が心底羨ましそうにため息をついた。
「ただの馬鹿だよ。下流の漁協に寄付して地域の永久遊漁券まで貰ったくらいだ。趣味には金を惜しまないタイプ。そういうやつが金を持つとこうなる」
萩原の口調にはどこかとげがあった。両親と仲が悪いという話は聞かないが、父親の極端な振る舞いに思うところがあるのかもしれない。
しかしその親父さんのおかげでぼくたちは合宿なんてものに来れているわけだ。
恩恵に預かっている側としては萩原の愚痴に相槌を打っていいのか微妙に悩ましかった。
やはり金の影響力は凄まじい。
「ごめん、あのさ……」
伊藤が突然口を開いた。
「休憩したい。もう限界……」
車内がパニックになりかけた。
大変なことになる前に、萩原は路肩に車を急停止させた。
「――着いたのか?」
その衝撃で五反田が目を覚まし、寝ぼけまなこを擦っている。
「違うよ。疲れたんでちょっと休憩してるんだ」
萩原が答えた。
「ごめんね、車酔いで。酔い止めは飲んだんだけど」
伊藤が謝る。
五反田は鳥見が伊藤の介抱をしているのに気付いて眉をひそめた。伊藤の肩を抱いて外に連れ出し代わりに背中を擦った。
「なんだよ。人が親切でやってたのに」
鳥見は毒づいた。
たしかに鳥見に下心はなかったような感じはした。いやあったのかもしれないが、多少の下心は男女の間には空気のように存在しているものだろう。
五反田はいかにも嫉妬深そうだ。
この間見惚れていたなんてことがバレたら殴られるかもしれない。竿と伊藤にはあまり近づかないようにしようとぼくは心に決めた。
「うーん着いたの?」
そのごたごたで部長も目を覚ます。
一〇分ほどして、伊藤が落ち着いてきたところで、萩原が休憩するために空港に寄ろうと提案した。もうこの先店がないようだから、買えるものはここで買っておこうということだった。
空港に着くと全員がまずトイレに向かい、そのあとバラバラになって休憩したり、あるいは店舗を冷やかして回った。
萩原から電話があって、みんなで軽食を取ろうとのことだった。たしかにぼくも、まだ一一時前だが朝が早かったのでお腹が空いていた。
伊藤も回復してきていたし、なにか飲み物がほしいということだったので、現地で集合することとなった。
国際線ターミナルの三階にあるレストランに入ってめいめい注文をする。昼時なので結構混雑していた。
向こうに着いてからプランについて話していると、突然大きな音がした。店内が一瞬静まり返る。
見なくてもわかった。やらかした音だ。小学三年生のとき給食当番で似たような音を立てたことがある。
「――すみません!」
見ると、やはり床に料理と皿の破片が散らばっていた。
若い女店員が泣きそうな声で謝っている。
キッチンからほかの店員がモップを持って出てきた。
「アア……」
近くでは、白人の男性客が酔っぱらっているのか、もつれる足を持て余していた。どうやらこの男が店員にぶつかったらしい。その衝撃でさらに頭がどうかしてしまったのか、男は店員の方を見ようともしない。
「あの、お客さま、お怪我はありませんでしたか?」
店員からの声掛けも無視して男はそのまま近くの席座りテーブルに突っ伏した。慌てているのは店員たちだけで周囲の客はおしゃべりを再開する。店のトラブルも浮かれ客にとってはちょっとした余興でしかない。
「なんだあれ」
五反田が怪訝な顔をする。たしかにちょっと異常だ、とぼくも思う。どこか具合でも悪いのではないだろうか。風呂に入っていないのか髪ももつれて脂ぎっている。
ぼくも講義がない日は風呂に入らなかったりするので気を付けようと思った。清潔感が大事だよ、と萩原に何度か言われたことがある。
「酔っぱらっているんだろうね」
部長がそっと呟く。
「部長と一緒にしたらだめだよ」
それを伊藤が茶化す。
「ぼくはあそこまで飲まない」
「いつもベロベロじゃん。酒癖悪いし」
鳥見があざ笑うも、
「それはお前もだろ」
と五反田に指摘される。
萩原はすかさず、
「結局はおれが全員の介抱するんだけどさ」
「あはは、萩原は強いもんな。ま今日は気を付けるよ」
部長が頭を掻く。
「いいよ。今回はマルもいるから」
萩原はそう返す。
「丸内くん強いの? それとも飲めない?」
伊藤がぼくに訊ねる。
「飲めない方です」
「えー、いっぱい持ってきたのに」
「だから荷物が載らないんだよ!」
だれもメンバーの大半が未成年であることには突っ込まない。
会話が弾んで長時間の移動の疲れが消え、場の空気は打ち解けたものと変わっていった。
数分前のハプニングはもう全員の意識から締め出されていた。
そのハプニングこそが最後にして最大の予兆であったのだったが、ぼくたちはだれもそんなことには気が付かなかった。
若者はいつもそうだ。テレビの向こうの事件が自分の身に降りかかるとは考えない。しかしまあ仕方のないことでもある。だってそれこそが若者の最高の特権の一つなのだから。




