表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/12

2

 ――いま思えばだが、ぼくは予兆を受け取っていた。

 しかしながら、予兆はことが起こってからでないと予兆とはみなされない。だからあの時点ではあれはなんでもないことだった。

 出発の日の朝、ぼくはいつもの習慣としてテレビを点けた。

 するとニュース番組で、海外で流行の兆しを見せているという新型の感染病について話をしていた。

 

 二日ほど前からこの件については繰り返し報じられていた。もちろんこのときは国民のだれもがこんな大事に発展するとは露ほどにも想像していなかったはずだ。

 少なくともぼくとあとの五人はしていなかった。していなかったからわけのわからない合宿に出かけたのだ。

 

 その番組にはお気に入りの女子アナウンサーがいて、彼女の顔を見るたび気持ちが昂った。

 見るとときめいて、シャキッとする。こういう恋人を作れる男になりたい、と思うわけだ。

 一ヶ月前の悲劇は傷痕を残してはいたが、多少前向きになりかけてはいた。

 だから朝早く起きる日はいつもその番組を見ることにしていた。

 だがその日はもうすでに昂りすぎていた。

 

 アナウンサーが

 「いったいどんな病気なのでしょうか」

 とゲストの医師にコメントを求めていた。

 医師がなにやら話し始めたところでテレビを消した。

 

 ――集合時刻が迫っていた。

 いや正確にはあと一時間以上あったが、やはり早く出るに越したことはない。

 いささか神経質なのがぼくのウィークポイントだ。

 

 本当のことを言うと、いささかどころではなくナーバスになっていた。

 これから向かうのは山奥にある友人の別荘。

 人里離れた避暑地でのんびり過ごす数日間。これだけなら楽しみなのだが、一緒に行くのが釣りサークルの面々とだったのだ。

 

 別に釣りサークルの面々を嫌っていたわけではない。

 だが、ぼくは釣りサークルには所属していなかったし、金魚以外の魚類を捕まえた経験もなかった。グルメの点からしても魚介は苦手で、寿司屋でも卵かサラダ巻きしか食べない。

 だから彼らとはほとんど面識がなかった。

 そしてぼくはひどく人見知りをするタイプなのだ。

 

 こうなったのは、別荘の持主であり、釣りサークルの一員であり、数少ないぼくの友人でもある萩原二郎の誘いがあったからだ。

 恋人の浮気現場に居合わせたとき一緒にいた友達というのが彼で、知り合ったのは大学に入ってからだが妙に馬が合って、唯一親友と呼べるような間柄になっていた。

 

 はじめは誘いを断っていた。

 釣りサークルのメンバーにとってぼくは部外者だし、なにより釣りをしたことがなかったし興味もなかった。

 しかし萩原は食い下がった。

 「大丈夫だ、釣りなんてできなくていい」

 「なんでだよ。釣りサークルだろ」

 「釣りは目的の半分にすぎない。もう半分は避暑地でのバカンスなんだ」

 「バカンス?」

 「そう。現代人は忙しいだろ? 時間、仕事、人間関係。そんな悩みだらけだ」

 「でもいまは暇を持て余してるだろ。大学生なんだし」

 「そう。大学生だからこそだよ。社会に出てみたら六日間も山奥でバカンスなんてできなくなるよ。いまだからこそ、やっておくべき時間の浪費なのさ」

 うちの大学はそれなりに名のある私学で、金持ちの子息、息女も少なくなかった。バイトをしていない学生も多く、一般的な学生よりも暇はあったのだろう。

 それにしたって六日間山奥で過ごそうだなんで酔狂もいいところだが。

 

 「でも六日はなあ……」

 さすがに六日間は長い。バイトは辞めていたから、夏休みの間、課題のほかとくにすべきこともなかったけれども山の中なら尚更することがなさそうだ。

 ちなみにバイトを辞めたのは例の彼女と出会ったのがそのバイト先だったからだ。

 あれから揉めに揉め、もはや口も利いてもらえないような関係になってしまったから、気まずくなってぼくの方から辞めた。

 

 「そうだけどもちろん途中で帰ってもいいよ。ちゃんと駅まで送るし交通費も出すからさ」

 「至れり尽くせりだな」

 「友達だからね。マルが辛いときは力になりたいのさ」

 ぼくの苗字は丸内だから、萩原はぼくのことを縮めてマルと呼ぶ。

 「萩原……」

 萩原の言葉に、じーんときてしまった。

 おかげで気持ちは行く方向に傾いたが、懸念していることもあった。

 「でも肝心の他の人たちはどう言ってるの?」

 「大歓迎だってさ。だから明日紹介するって話してある」

 「ほんとに?」

 「ああ、部長も言ってたよ。人数が多い方がいいって。だから頼むよ、マル」

 「ぼくでいいのかな?」

 「いいから頼んでるんだよ。おれだってマルがいてくれた方が楽しいからさ」

 「うーん」

 なんて言いつつも、やり取りを続けていると少しずつその気になってきた。

 消極的で受け身な人間はこのように強引に引っ張られるのに弱い。

 

 バイトも辞め、彼女にも捨てられ(もっとも、それらは同時に起こったことだが)、この夏楽しそうな予定は何一つなかったから、その間渓流のそばの涼しい岩陰で好きな本を読むのは魅力的なことかもしれない、と思った。

 交友関係が広がったり、気持ちにポジティブな変化が訪れたり、なにかしらの貴重な体験ができるかもしれない。

 

 たしかに、いつもそんな気だけはしているのに、なにも起こらなかったのがいままでの人生だ。

 しかしいままでの人生はいままでの人生でしかない。

 ぼくはこれからの人生を生きようとして釣り合宿へ参加することを決めたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ