【一】
・・・・チリン・・・チリン・・・チリン・・・
月のない漆黒の闇に、鉦鼓(※)幽かな音が聞こえてくる。
※小さな叩き鉦、手や首に下げて鳴らす
・・・その音は次第に屋敷の方に近づいてくるのだ。
「・・・奥様・・・あの音が・・・」
「ああっ、また・・・あれが・・・怖いわ・・・戸の掛け金をしっかりかけてきておくれ!」
後妻は美しい顔を蒼白にしてガタガタと震え、召使いの女達に指示をする。
・・・今夜もやってくる恐怖の時。
・・・・チリン・・・チリン・・・チリン・・・
鉦鼓のどこか悲し気な、恐ろし気な音が段々と近づいてくる。
「・・・あっ・・・」
今まで部屋の中央にで抱き合うように固まり、後妻と共に恐怖に震えていた数人の召使い達が、ほとんど同時に眠ったようにコロリと畳の上に倒れ込み、起きている者は後妻だけとなってしまった。
「・・・あ、ああ・・・お前達・・・」
たった一人、この恐怖の坩堝に置かれた後妻の額にタラリと冷たい汗が流れ、歯の根が合わずカチカチと鳴る。
・・・サラリ・・・サラリ・・・
あれほど厳重に錠をかけていた玄関の戸が開き、サラサラと二間、三間の襖を開けて何者かが足音も立てずに入ってくる気配を感じる。
「・・・ああ・・・」
後妻が一人で震えている奥の間の襖一枚隔てた所まできたその気配はピタリと動かなくなり、恐ろしげな低い女の声が後妻に呼びかける。
・・・弱々しい、しかしどこか恨みのこもったような若い女の声だった。
「・・・ここを開けてください・・・」
「・・・・」
「・・・ここを開けてください・・・」
後妻が気絶しそうなほどの恐怖に声も出せずに震えていると、声の主の女は諦めたように言う。
「・・・ここを開けてくださらなないのであれば仕方ありません、今夜も帰るといたします、また明日の晩参りましょう・・・」
後妻は総身の毛がよだつような恐ろしさと戦いながら、瞬きも出来ずに声のする方を見つめている。
「・・・ただ、わたくしがここに来たことはあの人には絶対に言ってはなりませぬ、もしこの事をあの人に言ったならば、貴女の命は無いものと・・・そう思いなさい・・・」
女はそれだけ言うと、再び鉦鼓を鳴らしながら遠ざかってゆく。
・・・・チリン・・・チリン・・・・
ハッと我に返った後妻は恐る恐る、去ってゆく女の姿をわずかに開けた格子窓の隙間から覗いてみる。
・・・黒い女!全身を漆黒に包まれた美しい女!
経帷子を着て、背丈ほどもある流れるような黒髪を振り乱し、手に鉦鼓を持ったその若い女の横顔は闇のような漆黒だったのだ!
いや顔だけではない、その細い手から足まで、全身が深淵のような黒色だったのである。
「・・・う・・・う~ん・・・」
その恐ろしい姿を見た後妻はその場で気を失ってしまった・・・。
豊後(今の大分県)の国に、土地で小間物屋を営んでいる裕福な男であった。
彼には、十七になる美しい妻がいた。
近郷近在まで知れた隠れなき美人で、男はこの美しい妻を深く愛し大変に夫婦仲が良かった。
男は閨の睦言に繰り返し妻に言った。
「もしお前が俺に先立つようなことがあったら、俺は絶対に後妻は貰わない・・・桶が生涯で愛するのはお前だけだよ」
「・・・わたくしも同じですわ・・・約束でございますよ、あなた・・・」
しかし、寒さの厳しい日が数日続いたある冬、ふと妻が患いづいてしまった。
最初は軽い風邪かと思ったが、妻の容態はみるみるうちに悪化し、ついには布団から少しも起き上がることも出来なくなったのである。
男は高名な医者を何人も呼び妻を診てもらったが、その甲斐なくとうとう妻は自分の死期が近いことを悟り、男を枕元に呼び寄せて力のない声で言うのだった。
「・・・わたくしはあなたと夫婦になれてとても幸福でございました、でも・・・もうお別れのようです」
「そんな弱気な事を言ってはいけない!薬を飲んて養生して、必ず元気になるんだ!俺を一人にしないでおくれ」
「・・・いえ・・・自分の身体の事は自分が一番よく知っております、わたくしはもう長くはないのです・・・お別れする前にあなたに一つだけお願いがございます・・・」
「・・・・お願い?お前の願いならどんなことでもきっと叶えてあげるよ」
「はい、わたくしは死んでもあなたと離れたくはありません・・・もしわたくしを不憫とお思いになられるのでしたら、土葬や火葬にはしないでください、わたくしの腹を裂いて臓物を取り出してその中に米を詰め、全身を漆で十四回塗り固めて・・・庭に持仏堂を建て、鉦鼓を持たせたわたくしの遺骸をその中に収めて毎朝念仏を唱えに来てくださいまし・・・そうすれば、これからもずっと・・・ずっとあなたにお会い出来るのです・・・」
・・・そう遺言を残し、美しい妻は短くはかない生涯を終えたのだった。