1話
昔から、少女は自己主張が少々苦手だった。
よく言えば寡黙。
悪く言えば無口。
これだけならば、なんて事はないただの個性だ。
けれども、どうやらそれが、多感な中学生の少女たちには癪に障ったらしい。
「痛い……」
全身を苛む鈍い痛み。
腹部、特にみぞおちの下あたりに刺さるような激痛。
立ち上がることはおろか動くことすらできない。
湿った土の上に横たわった身体を動かそうとするたびに走る猛烈な痛みが、動くことを拒絶する。
ありていに言えば、少女はいじめられていたのだ。
何がいけなかったのか、何度も考えてみたが分からない。
最初はちょっとしたいやがらせから始まった。
それがエスカレートしてエスカレートして、ついには数人で囲っての直接的な暴力に発展した。
ただの中学生の女の子の力と侮るなかれ。
運動部に所属していれば、その力は思った以上に強い。
そして何より、その暴威を受ける少女は小柄で華奢だった。
追い打ちとして、犯人が素肌が見えているところを避けるという悪知恵を働かせた結果、打撃が腹部に集中したのも良くなかった。
「……っ」
唐突に、もうダメだと、少女は理解した。
いっさい根拠はないのだが、ここで終わりだと確信してしまった。
悔しい。
悔しい。
悔しい。悔しい!
悔しい……。
終わりだと確信してから覚えたのは、煮えたぎる油よりもなお熱い感情。
何でここで終わりなのか。
いったい何をしたというのか。
何も、何もしなかったではないか。
なのにどうして、こんな目に遭わなければならないのか。
怒りと言うのは、制御が難しい感情だ。
誰でも簡単にできるのならば、「ついカッとなって」という犯罪の動機はゼロになるはずだ。
少女の中に宿った暗い焔は、しかしすぐに弱まっていく。
体力の低下と共に。
既に視界はぼんやりとしている。
既に周囲は暗くなってきているようだ。空のオレンジ色はごくわずかだ。
夏目前の逢魔が時。
虫たちがきれいな音を重ねて即興の演奏会を開いている。
意識も朦朧としてきた。
少女を送るのが夏の虫たちの演奏とは、なかなか悪くないのではないだろうか。
もはや存在しない、ありえない次を想う。
もしも。
「もし……次があったら……」
その時は。
降りかかる火の粉は必ず払うと決意する。
必ず。
そう、必ずだ。
少女は瞼を閉じた。
もはや目を開けている体力すらない。
心で燃やした焔が、最後に振り絞った力だったらしい。
身体から力と熱が抜けていく。
とても眠い。
少女を襲った猛烈な眠気に任せて、意識が落ちるに任せるのだった。
◇
「……う。……じに…………よう……な」
誰かの声が聞こえる。
誰だろうか。
意識が消える刹那、そんなことを思う。
次の瞬間、身体が温かい何かに包まれた。
「……っ」
その温かい何かは、失われた少女の体力を、幾ばくか戻した。
なんだ、それは。
信じられない。
まるで、魔法のような。
少女は目を開ける。
冷たい。
ほほに触れる感触は土ではなかった。
まだわずかに霞む目が動く範囲で周囲を見渡せば、そこは石造りの部屋だった。
閉め切られているのか、かすかに揺らぐろうそくの光のみが光源であるようだ。
いや、そんなことは正直どうでもよかった。
少女の真正面。
そこには、ヒールの高いブーツをはいた、すらっとした女性の脚。
誰かが、いる。
顔も動かせないので誰なのかはさっぱり分からないが。
「辛うじて目が開けられるようになったか」
上から妖艶な女性の声が降ってくる。
「だ……れ……」
かすれてはいるが、辛うじて声が出せる。
少し身じろぎしてみると、痛みがある程度和らいでいた。
立ち上がるほどの体力は戻っていないが、怪我は少し癒されているようだった。
「そなたには二つの選択肢を与えよう」
「せん……たくし……」
少女の誰何をすっぱりと無視して、女性は言葉を選択肢があると言った。
答えるつもりはないようだ。
「そうだ。死にかけの娘、佐々木 真菜よ。わらわのために生きるか、運命を受け入れここで果てるか、そなたに与える選択肢は二つに一つだ」
何故、名前を知っているのか。
この女性の声に聞き覚えなどないし、自己紹介をした覚えもないのに。
ただ、そんなことは既に、瀕死の少女――真菜にとってはどうでもよかった。
「生き……られ、るの……?」
まさか。
しかし彼女は間違いなく、生きるか死ぬかと言った。
つまり、生きられるかもしれないということ。
もう死ぬしかないと思っていた。
身体から力と熱が抜けていたところだった。
抗えない眠気が優先して気付かなかったが、今思い返すと恐ろしい感覚である。
「そうだな。わらわに従いその身を捧げるというのであれば……死なれては困るのでな」
どうやらすべてがすべて、真菜に都合がいい話ではないらしい。
まあそれはそうだろう。
世の中、そんなうまい話は転がっていない。
思い通りにいくことなどほとんどない。
そうでなければ、真菜は十三歳で死に瀕したりしなかった。
ただ。
今この瞬間に限っては、真菜にとっては都合がいい話であった。
何せ死ぬ寸前だったところで、真菜が死んでは困るというのだ。
命を救う対価に利用させてもらう、彼女はそう言っているわけで。
病院で怪我を治してもらうのだって治療費がかかるのだから、何もおかしなことは言われていない。
故に、答えは考えるまでもなく、決まっていた。
「なん、でも、受け入れる……」
死ななければたいていのことは騒ぐほどのものではない。正確な文言は忘れてしまったが、そのような言葉を見た記憶がある。
ちょうど、殴る蹴るの暴行がエスカレートし始めた頃だったか。
痛みをどうにかやり過ごすため、気晴らしにSNSというインターネットの海を泳いでいたのだ。
その時に見たこの言葉に、強烈な反意を抱いた。
騒ぐほどのことでもない? この痛みが? 冗談じゃない、大したことあるに決まっている。
湧きあがった悪感情のまま唾棄したものだが、巡り巡って今はその通りだと心から思う。
死なずに済むのなら、どんな条件をつけられても騒ぐほどのものでもないに違いない。
少なくとも、今の真菜にとっては、死から逃れるより優先するべきものはなかった。
死ぬのは怖い。
死にたくない。
このまま終わりたくない。
目の前に垂らされた糸を掴まずにいられるほど、潔くはいられない。いたくない。
「なんでも、とな。その言葉に嘘はないな?」
「ない、から…………たすけ、て……」
なけなしの気力を絞りだして、真菜は視線を上に向けた。
「……良かろう。その言葉、その目に嘘はないと見受ける」
突如、風が吹き荒れた。
発生源は目の前の女性だ。
あまりに強い風に、真菜は目を開けていられなかった。
「では……そなたの命、わらわが預かろう」
身体に何かが流れ込んでくるのが、真菜にも分かった。
信じられないほどの力の奔流。
何も知らない、何も分からない真菜だが、それがものすごいエネルギーであることが何となく分かる。
なんとなくだった。
それが、徐々に分かるようになってきた。
はっきりと明瞭になっていく思考。
だるさと痛みが取れていく感覚と共に。
真菜の中で渦巻き暴れ荒れ狂う力。
それが、魔力と言うものであることが分かるようになってきたのだ。
何故。
それさえも分かるようになった。
真菜の目の前にいた妖艶な女性。
彼女――アルヘラ・ヴァン・グランベルグの知識によって。
「……っ!」
突如頭を襲った痛み。
アルヘラが持つ知識が真菜の頭に流れ込んでいるのだ。
常軌を逸した……下手をしたら死ぬところだった同級生の暴行などはっきりいって比較にもならない。
目から、鼻から血が流れる。頭の中の血管と言う血管が、裂けては修復され、裂けては修復される。
しかし狂うことは許されていない。
真菜のちっぽけな精神が吹き飛び砕かれそうになるたびに無理やり修復され、補強されたのだ。
こんな苦しみを味わうならいっそ死んだ方がマシだと、真菜は後悔に苛まれた。
確固だった、断固だったはずの決意がもろくも崩れ去っていた。
『くくく。そなたが決めたのだ、前言撤回は許さぬ。諦めて身を委ねよ』
そう、慈悲だった。
死を選ぶこともできるよう取り計らってくれたのだ。
アルヘラ・ヴァン・グランベルグ。
四千八百年の時を過ごした、吸血鬼の女王。
魔導王、時と空の賢者と呼ばれた傑物の知識が流れ込んでいるのだ。
アルヘラの方で調整を行っているので、真菜が受け取っているのは膨大な知識量の中のごく一部ではあるものの、そもそもの総量が膨大だ。
百の一パーセントと一万の一パーセントは、割合自体は同じ。だが実際の量は百倍にもなる。
ただの人間に耐えられるものではない。
一瞬の出来事ではあるが真菜からすれば時間が引き延ばされ、永遠にも感じられる。
その永遠の中で、徐々に痛みが和らいでいる。精神が補強され続けているからだ。
真菜が感じる頭痛も和らげる配慮をしてもらっている以上、我慢できないなどとは言いたくはない。
自分が生きたい、死にたくないと願った。何でも受け入れると宣言した。
結果、生きるために必要なプロセスであることを理解したからだ。
矢継ぎ早に与えられる知識。
それはアルヘラのもの。
何故アルヘラの知識が流れ込んでいるのか。
「憑依、ってそういう、こと……」
既に、目の前にいたはずの女性の姿は見えない。
真菜と同化しているからだ。
アルヘラの精神は悠久の時を経て摩耗していた。
それは肉体も同様。
故に、一度肉体と言う軛を捨てて幽体のみとなり、適切な器にて養生させる必要があった。
その器として必要な最低条件が、清らかな少女であること。
さらには、その器が不死者である吸血鬼に性質が近い状態にあること。簡単に言えば死にかけていること。
そして生きたいと願っていること。未来を捨てていないアルヘラと同じ感情を共有していること。
最後に、アルヘラと魔力の紋様が七割以上一致していること。
その条件で召喚魔法を行使し、選ばれたのが真菜だったというわけだ。
ふらつきながらも、真菜は立ち上がった。
まだずきずきと痛み続ける頭を右手で押さえながら。
『そうだ。そなたはわらわの器として生き続ける必要がある』
だから、魔法が使えるようになったわけか。
簡単に他者に害されないように。
魔術ではなく。
気付けば、アルヘラの憑依魔法は終わっていた。これもまた、アルヘラが数十年という時を費やして開発した、この日のためだけの術式だということが分かった。
真菜には不要なものと判断されたのか、存在と概要は分かるものの術式の詳細はさっぱりだが。
ともあれ、儀式はつつがなく完了している。
だからこそ立ち上がれたのだ。
瀕死の重傷だった身体はすっかり完治しており、むしろこれまでよりも桁違いに強靭になっている。
未だ真菜を苛む頭痛は、憑依魔法の余韻でしかない。
これもじきに収まると、真菜に植え付けられた知識は言っている。
憑依魔法で与えられた知識もまた、アルヘラが持っていた知識の全量から言えばごく一部であるのはその通り。
そんな状態でも、この世界で生きていくのに必要な情報は大体得られている。
「……今の状態でも、プラチナランクは余裕でいけるんだ……」
冒険者ランクのことだ。
プラチナランクであれば、例えばそんじょそこらの盗賊団程度なら一人でも壊滅させることができるくらいの力があるとみなされている。
魔物の群れも同様だ。
授けられた知識から見るに、一人前と言われるランクよりも上であろうとの事。よほど無謀な真似をしなければ死は遠いところにあると言っていい。
なるほど、生き続ける必要があるとアルヘラは言った。
そのための力が与えられたわけだ。
そして……生きるためには力が必要な世界であるということ。
おぼつかない足取りながらも真菜は必死に立っていた。
だが、それもここまで。
いろいろとキャパシティオーバーなのは火を見るよりも明らかだった。
真菜の意識はゆっくりと暗転していく。
そしてそれに、一切逆らえない。
ただ。
このまま倒れたら石の床に叩きつけられてしまう。
それは、きっと痛いだろうなあ。
歯なんかぶつけてしまえば折れてしまう。
前歯だったら、みっともないからいやだなあ。
傾いていく身体を止める気力もないまま、そんなどうでもいいことを考える。
直後。真菜の意識は闇に呑まれていったのだった。