「子牙出廬」5
子牙は席から離れ、舞踏を終えて跪いている踊り子たちに近づく───と。
「あっ!」
散宜生と閧夭は驚きの声をあげた。椅子を蹴倒すほどの勢いで立ち上がる
なんと、子牙はとりわけ美麗な踊り女に歩みよるやいなや、彼女の胸のふくらみをその大きな手のひらでむんずと掴んだのである。
一瞬後、子牙は苦笑していた。
悲鳴をあげ、彼の手を振りほどいて逃げると思われた美女は、懐刀の刃先を子牙の喉元にあてていた。
先ほどまでみごとな群舞を見せていた他の踊娘たちも、みな懐刀を構えている。子牙の周囲に刃の円環が形成されていた。
「いやぁ、なに、剣を隠したままでは踊りづらかろうと思って、ね。それにしても勇ましいことだ。みんな、朝歌に放たれる細使だろ?」
子牙は押しつけられている白刃を指ではさんでゆっくりと押し返すと、今度は壁に向かって歩き出す。
廟堂の壁を覆っている錦地に金糸で模様飾りを織り出した艶やかな布を掴み、力いっぱい引いた。
布の下からは、壁板ではなく組み木が現れた。そのどれもがいびつで変色した、朽ちかけた柱であった。
建築に使用するようなものではない。あきらかに廃材のたぐいである。豪勢な作りの布は、これらを隠すためのもの。
つまり、この後宮めいた屋敷は、見た目とは裏腹な安普請。
「賢明な言動をひかえ、むしろわざと馬鹿になったふりをして情勢をにらむ。冬の雷雲が力を蓄え、時節到来、一気に爆ぜるがごとし。これ、『仮痴不癲の計』。これまでの姫発さまの愚行の数々、商の、辛王の姫昌さまの子息たちに対する警戒心を和らげるための演技と、この姜子牙お見受けしましたが」
子牙は穏やかに風狂公子に尋ねた。
散宜生と閧夭、そうであったのか、と感嘆の視線を姫発にそそぐ。
「子牙先生、あなたが持参した『宝』とは、あなた自身でしたか」
視線を床に伏せ、微笑をたたえていた姫発は、すっと顔をあげた。
───視線が子牙の瞳に重なる。
(おぉ!)
見つめられた子牙はうなる。姫発の顔には、それまで浮かんでいた幼稚さなど微塵もない。威厳に満ちた高貴な容貌には、神ごうしさすら漂っている。
どのような人物に対峙しようと戦慄を覚えたことなどなかった子牙が、いま、畏怖の念に身体を硬直させたかと思うと、次には自然な動作で眼前の若者に拝跪し、こうべを垂れた。
「無学を承知で、岐山の庵を出でて、帷幄に参じました」
───姜子牙の出蘆である。