「子牙出廬」1
姫昌の統治する西岐は、商の都・朝歌から西のかなた、岐山の麓にある。
商が暴虐で権威を失墜させ、民が塗炭の苦しみにあえいでいる中、姫昌は民衆に対して慈愛に満ちた献身に終始した。
老人をうやまい、幼弱者をいつくしみ、賢者を尊とんだ。
政務をとりしきる官吏が私利私欲に奔走し、そのために領民が苦しむことを恐れ、つねに謙虚な姿勢で高徳有能な人士の登用に努めた。
彼の声望は人口に膾炙し、天才、秀才、鬼才、傑才と多種多様な人材がつどい、善政に粉骨砕身───そのような領主、賢臣が治める都市が栄えぬはずがない。
西岐の市壁の内は、より集まってきた様々な人々によって、あちらこちらで市が立っていた。
商人のかな切り声、客の嬌声、置きならべられた鳥獣の鳴き声、それら熱気と活気がひっきりなしに宙を飛び交う。
冷めることを知らぬかのような喧噪の中、笠を目深にかぶった若い釣り師が、釣竿を肩にかけ、竹細工のかごをぶらつかせて飄々と路地を行く。
───若者の名は、姜子牙という。
「おい、蓮、ここからどっちに行けばいいのだい?」
ふり向いて連れの少女にたずねた。しかし、彼女の姿はそこにはない。
「おーい、おーい蓮!」
子牙から離れることはるか後方、同伴者は大きな瞳を輝かせ、棒を飲み込んだように路地の真ん中に直立していた。
少女の名は武蓮。
大きくくっきりとした二重まぶたと、冬でも白くならないであろう健康的な小麦色の肌が印象的である。
「……す、すごい、すごいよ。ここはすごい!」
目に映るもの、耳に届くもの、そのすべてが彼女にとって新鮮かつ驚異であった。
奇術師は巧みな話術と技芸で路地を行きかう人々の足を止める。彼の周囲にはいつしか幾重にも人壁ができていた。
蓮は奇術師に一番近いところに、しっかりと腰を下ろす。
出し物が一通り終わると、するすると人だかりをぬって今度は影絵の輪に加わる。
そうかと思えば、道端に店を広げた貝細工の屋台をのぞき込むなど忙しい。
蓮がせわしなく大路の両脇を行き来している間、子牙は梅湯を買って飲んでいた。
彼が所在なくたたずんでいるように見えたのか、売り子の娘がしきりに話しかけてくる。
───話の内容は、ご領主姫昌さまのことであった。