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殷周演義  作者: 諸橋カムイ
【第三章】
22/23

「黒虎義心」8

西岐(さいき)より数里のところに渭河(いが)がある。


その流域は野獣駆けめぐる絶好の猟場であった。


───しかし、西伯(さいはく)姫昌(きしょう)は今日に限って、兎一羽すら()れていない。


猟に出る前、今日の獲物は何かと占わさせたところ「獣にあらず、賢なるものなり」という妙な卦がでていたことを、「そういえば」と姫昌は思い出す。


いま彼は侍臣(かしん)とはぐれ、ひとり川ぞいをさまよっていた。


───河面(かわも)には微かな風があった。


潤いをふくんだその風が吹くたびに、白いものが多く混ざった(あごひげ)の先が震えた。


胸元まで垂れたその毛先をしごきながら岸に目を転じると、河畔(きし)で糸を垂らす釣り師がひとり。


彼は吸い込まれるように、その深めの笠をかぶった釣り師の方へと馬首を向ける。


西に傾きはじめた太陽の光が水面に跳ね、晶々(きらきら)と輝いて姫昌の目に射こむ。


彼は鞍を降りて、釣り師に包手(あいさつ)した。


「もし、何か釣れますか?」


しかし、声が聞こえないのか、振り返りすらせず、釣り師は竿を引く。


糸が水を振りまきながら宙を舞った。


「これは、これは、大物が釣れた」


詩を(ぎん)じるように、釣り師は糸を手繰(たぐ)り寄せる。


───しかし、その糸の先には魚はおろか、うきも、針すらも付いていなかった。


(……いったい、何が釣れたというのだ)

 

姫昌は(いぶか)しむ。


「釣れた、釣れた、龍が釣れた」


「龍?」


「この前は子龍が釣れたが、おうおう、今度は大龍が釣れたわい」


老人のような口調とは違い、その声音(こわね)は若く(たくま)しい。


岐山(きざん)の麓では、子龍の名を(はつ)、大龍を昌というとか」


───刹那(せつな)、突風が河畔(かはん)を駆けた。


その見えざる手は、釣り師の笠をさらう。


そして、その背に金色の滝が現れ、吹きあおられて広がった。それはいままさに水面に映っている斜陽(たいよう)のごとし。


───姜子牙(きょうしが)、その人であった。


「あなたは子牙先生!」


瞠目(どうもく)するとともに、姫昌の身のうちから止めどなく言葉が湧き上がる。


(ひろ)く、(くに)の人々が(のぞみ)し賢者。まさに、あなたこそ『()()()』。いま億生(おくしょう)の民草は辛王(しんおう)の無道に、涙も枯れるほど辛酸(しんさん)()め、苦しみに(あえ)いでおります。小生、西伯の身でありながら、上は天子を諌めることもかなわず、下は万民を安んずることもできません。おのれのふがいなさが腹立たしい。どうかこの不肖者にご教示を!」

 

姫昌はその場に泣き崩れ、額を地にすりつけて哀願する。


「お顔を上げられよ」


子牙は苦笑しながら振り向いた。穏やかになった風に金髪がさらりと泳ぐ。


「どうかお立ちください」


微笑を浮かべ、子牙は姫昌の手を取る。


「それではこの姜子牙、不肖をかえりみず、いささか意見を述べさせていただきます」


───西岐の未来と辛王の末路を姫昌に説いた。


あるときは整然と、あるときは熱を込めて。決して誇張をせず、あおりけしかけることもせず、冷静さを保ち、みずからの実力を誇示することもなかった。


だが、彼の容貌(かお)と同じく端正(たんせい)なその声、その言葉にはたゆまぬ自信と英知の片鱗が垣間見え、姫昌の心を掴み、離さない。


「子牙先生、いや太公望どの。あなたがいてくだされば、必ずや辛王の、商の暴政の世を変えることができましょう。必ずや天下万民を救うことができよう!


美酒に酔いしれるような心地よい高揚感が、心の底より湧いてくるのを感じずにはいられない姫昌であった。

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