「黒虎義心」8
西岐より数里のところに渭河がある。
その流域は野獣駆けめぐる絶好の猟場であった。
───しかし、西伯姫昌は今日に限って、兎一羽すら獲れていない。
猟に出る前、今日の獲物は何かと占わさせたところ「獣にあらず、賢なるものなり」という妙な卦がでていたことを、「そういえば」と姫昌は思い出す。
いま彼は侍臣とはぐれ、ひとり川ぞいをさまよっていた。
───河面には微かな風があった。
潤いをふくんだその風が吹くたびに、白いものが多く混ざった鬚の先が震えた。
胸元まで垂れたその毛先をしごきながら岸に目を転じると、河畔で糸を垂らす釣り師がひとり。
彼は吸い込まれるように、その深めの笠をかぶった釣り師の方へと馬首を向ける。
西に傾きはじめた太陽の光が水面に跳ね、晶々と輝いて姫昌の目に射こむ。
彼は鞍を降りて、釣り師に包手した。
「もし、何か釣れますか?」
しかし、声が聞こえないのか、振り返りすらせず、釣り師は竿を引く。
糸が水を振りまきながら宙を舞った。
「これは、これは、大物が釣れた」
詩を吟じるように、釣り師は糸を手繰り寄せる。
───しかし、その糸の先には魚はおろか、うきも、針すらも付いていなかった。
(……いったい、何が釣れたというのだ)
姫昌は訝しむ。
「釣れた、釣れた、龍が釣れた」
「龍?」
「この前は子龍が釣れたが、おうおう、今度は大龍が釣れたわい」
老人のような口調とは違い、その声音は若く逞しい。
「岐山の麓では、子龍の名を発、大龍を昌というとか」
───刹那、突風が河畔を駆けた。
その見えざる手は、釣り師の笠をさらう。
そして、その背に金色の滝が現れ、吹きあおられて広がった。それはいままさに水面に映っている斜陽のごとし。
───姜子牙、その人であった。
「あなたは子牙先生!」
瞠目するとともに、姫昌の身のうちから止めどなく言葉が湧き上がる。
「大く、公の人々が望し賢者。まさに、あなたこそ『大公望』。いま億生の民草は辛王の無道に、涙も枯れるほど辛酸を嘗め、苦しみに喘いでおります。小生、西伯の身でありながら、上は天子を諌めることもかなわず、下は万民を安んずることもできません。おのれのふがいなさが腹立たしい。どうかこの不肖者にご教示を!」
姫昌はその場に泣き崩れ、額を地にすりつけて哀願する。
「お顔を上げられよ」
子牙は苦笑しながら振り向いた。穏やかになった風に金髪がさらりと泳ぐ。
「どうかお立ちください」
微笑を浮かべ、子牙は姫昌の手を取る。
「それではこの姜子牙、不肖をかえりみず、いささか意見を述べさせていただきます」
───西岐の未来と辛王の末路を姫昌に説いた。
あるときは整然と、あるときは熱を込めて。決して誇張をせず、あおりけしかけることもせず、冷静さを保ち、みずからの実力を誇示することもなかった。
だが、彼の容貌と同じく端正なその声、その言葉にはたゆまぬ自信と英知の片鱗が垣間見え、姫昌の心を掴み、離さない。
「子牙先生、いや太公望どの。あなたがいてくだされば、必ずや辛王の、商の暴政の世を変えることができましょう。必ずや天下万民を救うことができよう!
美酒に酔いしれるような心地よい高揚感が、心の底より湧いてくるのを感じずにはいられない姫昌であった。