「姫昌受難」1
夏空の光と闇が、ゆっくりと後者の方に傾むくころからはじまった宴は、満天の星々が瞬く刻限となっていた。
商都・朝歌より南、沙丘に築かれた演舞場は、そこにつどった人々が放つ興奮の熱波に包まれている。
やや地下に掘りさげられている円錐形の石だたみでは、楽曲に合わせ、軽業師があざやかな技芸を披露していた。
手に持つたいまつの色を赤から青へ、青から黄へと変えたかとおもえば、おどけた素ぶりで燃え盛る炎の輪をくぐり抜けけてみせる。
おりからの暑気に、すり鉢状に配された席の人々は高揚し、熱気たかまる中、貴賓席の豪奢な椅子に座していた、ひとりの初老の男が立ち上がった。
冠をいただく頭の上方はやや薄くなっていたが、胸元まで流れる鬚はどこまでも白く滑めらかであり、背が高く矍鑠とした堂々たる身体には、ごく自然の威厳が備わっている。
男の名は姫昌。
西岐の領主にて、八百諸侯筆頭称号『三公』のひとり。
形の整ったいかにも温和そうな顔は、いまは疲労と虚脱で生彩をなくしかけていた。
「どちらへ行かれるつもりですかな? まだまだ宴はこれからが佳境」
座を外そうとする姫昌の前に、見るからに悪相の男が進み出る。
名は崇虎、商王辛の寵臣である。
「わしはこのような馬鹿げた席に出るために、わざわざ西岐より参ったのではないわ!」
苛立たしく早口で、だが一語一語明確に姫昌は告げた。
「辛王さまに、ご諫言申し上げるため、でございますな」
崇虎は、野鼠のような容貌に、酷薄な笑いを浮かべる。
「それもおひとりでは心もとないので、同じく三公の鄧九どの、鄂禹どのとご一緒に、おいさめ申し上げるつもり、かと」
「……わかっていたのか。ではなぜ、わかっていて王に会わせんのだ! 億生の民草は塗炭の苦しみにあえでいる。一体なぜか? 王たる者が奢侈逸楽にふけり、暴乱淫虐のかぎりを尽くしているがためだ。人民の憎悪、日増しに高まり、臣事する諸侯の心、すべからく王より離れておる。このありさまをおぬしら廷臣が見聞してなんとも思わんのか!」
姫昌は剛直公正な人物である。
民が王の無道に苦しんでいるのを、傍観しているわけにはいかなかった。
だが、 諫言すべく宮廷におもむくも、彼は長きにわたって辛王に拝謁することができていない。
「気宇壮大な王虎とて、痛いところを噛まれては、ねずみとて容赦なく歯牙にかけましょう」
崇虎は姫昌の言葉に、なんら怯むことなく極端に薄っぺらな唇の両端をつり上げた。
姫昌は気色を失う。
「……な、なんと我が身かわいさに、王の怒りを買うのが恐ろしいか。身を捨ててまで為政者としての魂を取り戻していただこうとするのが、君側にあるお主たちのなすべきことではないか!」
「おやおや、三公なるものはいつから口巧者の別称になりましたかな?」
さすがの賢人も、この言葉には怒髪天をついた。
「おのれ!」
姫昌は佩した剣に手をかける。
───と、その瞬間、羽根の震える音が彼の耳朶を打つ。
銀光を帯びて飛来した矢が、姫昌の服のそでを射抜いて椅子の手掛けに突き立った。
あまりに強力な弓勢に姫昌はおもわず椅子に腰を降ろす。
と、次々と向かってきた矢が、彼の美装を縫い止める。
しかし、からだのどこにも痛みはない。
矢はあやまたず衣服のみを射抜くにとどまっていた。
「……な、なに!」
これほどまでの弓術を会得している人間を、姫昌はひとりしか知らない。
ぐっとまなじりを裂いて、遠く正面の貴賓席に立つ男をにらむ。