「黒虎義心」3
「では、子牙どのという智者が、わしと西岐を救ってくれたのだな」
馬車は姫昌と蓮、そして姫昌に臣従を誓った黒虎が乗り、その脇を散宜生と閧夭が馬で進む。
孫ほどに年の離れた蓮の話に、姫昌は真剣に耳を傾けていた。
───姜子牙という御仁に、ぜひともお会いしたい。
姫昌はまだ見ぬ賢者の姿を思い描く。
しかし、その子牙は姫昌救出のため、蘇后の掌中にある。
「……子牙先生、大丈夫かなぁ」
かぼそく蓮がつぶやく。憂いでその大きな瞳を曇らせ、重そうにうなだれる。
彼女の脳裏から、悪い思いが離れない。最悪のことを想像する。もしや、命を奪われてしまったのではないか、と。
「なに、やつのこと。そのうち飄と現れるさ。子牙先生は蓮の師匠なんだろ。信じろ」
蓮の顔をのぞき込んだ閧夭が、髭の下から白い歯をのぞかせて無造作に彼女の髪をかき撫でる。
「わかってるよ!」
邪険に閧夭の腕を払いあげると、蓮は鼻から息を吐き出して背を伸ばし、腰を手にあて胸をはる。
「それでこそ子牙先生の愛弟子。実にいさましいことだ」
散宜生が茶化すと、
「バカにしたな!」
蓮は弾はじかれたように立ちあがって飛びかかろうとする。
馬車のへりを乗り越え、あやうく地面に落ちそうになる。それを黒虎が掴まえ、慌てて支えようとした。
が、もちこたられず、彼も体を浮かせる。
「おいおい、元気だな」
姫昌は子供ふたりの腰をつかみ、好々爺の笑みが浮かばせながら、抱え戻す。
───獄に入れられて以来、いや辛王に諫言申し上げるべく西岐を出たとき、それ以来の姫昌の笑顔であった。
「どうやら、崩れます、この空」
天を仰いでいた馭者は首をねじ曲げ、子供たちとなごやかに談笑をはじめた姫昌に伝える。
一行が林の点在する平原にさしかかったとき、いままで雲ひとつない蒼空がその形相を一変させ黒雲群らがりおき、今にも泣きだしそうになっていた。
姫昌たちは朝歌へは入らず、その城壁を右手に見ながら大きく迂回して西岐への帰路を急いだ。
朝歌市街を突き抜けるのが一番早い道のりだが、辛王の目に止まりかねないことを考え、あえて遠回りを選んだ。
───と、突然馭者は手綱を引いて馬の足を止めた。
前を進んでいた散宜生と閧夭は、停車したことに気がついて馬首をまわす。
「おい、なぜこのようなところで止まるのだ。われらは急いでいるのだ」
散宜生の問いに答えることなく、鞭を放り投げ、台から飛び降りた馭者は林の方へと駆けていく。
「一体どうしたというのだ?」
怪訝に鼻を鳴らした散宜生であった───が、次の瞬間その表情を引き締め、そして叫んだ。
「待ち伏せだ!」
その声と同時に、逃げた馭者が草原に横倒れになった。どこからともなく飛来した矢に頭を射抜かれたのである。それが合図のように林の中から一行に向かって矢が降り注いだ。