「黒虎義心」2
血に塗れた両掌を見て、身体を小刻みに震わせ、歯を打ち鳴らせる黒虎。
「……この子は、人を斬ったことがなかったのか……そうまでして、わしを助けようと……いや、商を憂いているのか」
姫昌はしばらく瞑目する。
目を開けると、手を差し伸べて黒虎を立たせた。そして剣突き立て絶命している男の胸からその刀身を引き抜き、走れるかと伝える。
その問いにやや冷静さを取り戻した黒虎は強くうなずき、ふたりは出口を目指して回廊を駆け抜けた。
極彩色の宮殿から無機質の監獄へ蓮、散宜生、閧夭を乗せた馬車は移動していた。
朝歌から東に数里、幽谷の行きつく先に、「幽里の獄」と呼ばれる山はだを半ば砕いて造り上げた堅牢強固な獄塞があった。巨大という言葉には収まりきらない、これが本当に人の手で作り上げたものかと思わせるほどの威容である。
五つの門をくぐり広大な敷地を持つ中庭に出た。
「あれを!」
蓮が指さす先を、散宜生と閧夭は注視した。
───初老の男と少年の周囲に、牢兵の槍ぶすまが形成されていた。
「姫昌さまではないか!?」
「間違いない!」
叫ぶがはやいか散宜生と閧夭は馬車から飛び降り駆けだす。疾走しながら、腰の剣を抜き放つ。
牢兵たちは崇家の若さまが人質にとられていると思い、攻めあぐねていた。そこへ突然、礼服の部外者が剣刃を光らせながら向かってくる。
戸惑いながらも、兵士たちは殺気を放ち、喝声を飛ばしてくるふたりの男へ槍を構えなおした。
「遅いッ!」
閧夭の剣にからみ取られ、槍は瞬時にかなたへと飛び去った。すかさず兵士の面上に刃を振り下ろす閧夭。
───しかし、斬先は鼻わずかな間を残し止まる。
膝が崩れて、尻をついた兵士は、声を上げる間もなく、口の端から白泡をもらして卒倒する。
「ま、待て待て! 王妃さまのご指示であるぞ!」
馬車に同乗していた、くだんの侍臣がせり出した腹を波打たせながら大声をあげて走り寄る。息せきかけてきた侍臣は、兵士たちに王妃の命で姫昌を出獄させ、帰国を許す旨を告げた。
兵士たちはそれを聞くや、槍を小脇に抱え、拱手する。
「姫昌さま!」
散宜生と閧夭は剣を鞘に収め、姫昌の前に進み出ると拝跪した。
───久かたぶりの主従の再会である。
「ご無事で何よりでございました」
臣下ふたりは喉の奥から涙声をしぼりだし、主君の顔を仰ぎ見た。
「おぬしたちには、心配のかけ通しであったな」
姫昌はふたりの手を取り、あらためて再会のよろこびを感じていた。