「妲己囁声」5
(西伯の称だって!)
蓮は驚愕した。おもわず声が出そうになり、あわててその形のよい口を引き結ぶ。
西方に住む年端もゆかぬ少女でも、「西伯」とはどのような立場の者を呼ぶのか知っている。それほどに「西伯」の官位称号は大きく重い。
───西伯とは、いわば「西方総司令官」。
王の許可なく軍隊を増強させ、砦を築き、戦争を行い、得た領地を治め、税収を得ることができる。
それは、「もうひとりの王」に他ならない。
本来なら王族、しかも優秀かつ背心抱かぬ血が濃い者に与えられてしかるべきものであり、三公とは言え、どれほどさかのぼっても血のゆかりない地方豪族がなるべきものではない。
特例であり、特殊である。
それが王の言葉ではなく、妃の口から告げられている。
仮に辛王の名において王座より下されたとして、その後いくつもの儀礼を経てのち、冠を戴くもの。
このように、幼児に菓子をくれてやるような軽々しいものであってはならないのだ……まともな社稷であれば───。
「過分なる御沙汰、恭悦至極にございます」
四人は深々と頭を下げる。そして顔を上げ、たがいの顔を見合わせると、期を同じくして会心の笑みをこぼした。姫昌を解放させることに成功し、さらには「西伯」の位まで得たのだから、作戦は上出来にすぎる成果を上げた。
だがしかし、その笑みは瞬時にして氷結する。
蘇后が侍臣の口を通して、子牙のみその場に残るよう命じたのである。
散宜生、閧夭、そして蓮の三人は子牙の顔を見る。
「……子牙先生」
「……わたしのことはいい。王妃が気変わりせぬうちに、おまえたちは早く姫昌さまをお救いするのだ」
不安気な蓮のささやきに彼は静かに返す。
───やがて後ろ髪をひかれる思いで蓮たちは退出する。
三人の靴音が消え入ると、蘇后は侍臣侍女すべて下がらせた。
広大な廟内には、蘇后と子牙のふたりだけ。
蘇后はみずから垂廉をはらい、ゆるりと壇よりおりたち、首、腕、腰に巻いた装飾品を鳴らせながら子牙の前まで進む。
───子牙はさらに頭を低くする。
いくら彼の慧眼をもってしても、いまこの事態は予測できなかった。
(……まずは王妃の出方を見よう)
こちらから仕掛けずに、状況に応変しようと考えた。そののち言葉巧みに対処すれば、活路はどうとでも作れよう。
豪奢な装束から伸びた蘇后の白く細い腕の先が、子牙の金髪に触れた。
花のような、蜜のような芳香が、子牙の鼻をくすぐる。
いくつもの宝玉で飾られた蘇后の指が、金糸を思わせるその髪をからめ、たわむれている間、彼は身じろぎしなかった。床の一点を凝視する。
しばらくすると蘇后の指が離れた。
───と、鈴の音のような、笛の奏べのような声音で蘇后は子牙の耳元で囁く。
「……!」
子牙はその言葉を耳朶にとどめるや、目を大きく見開く。
───驚愕し、絶句した。
がばりと面をあげ、蘇后の玲瓏な容貌を見る。
彼女は微笑していた。