通学路の交差点でぶつかって始まるラブコメ
「先輩はどの季節が好きですか?」
喧騒をドアの向こうに押し込めた病室は静寂と呼ぶには雑音があって、けれど白くて静かで寂しい部屋だった。
病室の中に彼の心音が電子音に変わって鳴り響く。
「今日はすごく晴れてますよ。ちょっと歩くだけで汗かいちゃって。夏は嫌ですね」
心音。
「私は春が好きです。夏は暑いので嫌ですし、冬は寒くて嫌です。秋は……なんだか死骸っぽくて嫌なんですよね。だから春が好きです」
心音。
「嫌だなー……。外に出たくないです。でもバイト行かなきゃ……」
心音。
「そろそろ時間なので行きますよ」
人工呼吸器をつけて目を閉じる先輩の顔をじっと見る。
心に生じた嫌な感情。
その感情がまた嫌で、感情を絞って絞ってカラカラにする。
病室を満たす冷たい空気を肺に入れて、先輩の顔をよく見て、病室を出た。
「じゃあ、また」
あの日、私はいつものようにベッドから起きた。
いつものように両親と会話をした。
いつものように自転車に乗って、
いつもの道を辿って学校へ向かった。
そしていつもの十字路を進んで、
制服を着た男が角から出てきて、
私は彼とぶつかった。
それが私と先輩の出会い。
彼の名前は後から知った。
同じ高校に通うひとつ上の先輩だと知ったのもそうだ。
彼は私との事故のせいで、生涯癒えない大きな怪我を負った。
素直に言えば、それだけなら良かった。
彼は生涯覚めない眠りについてしまったからだ。
私は多額の慰謝料を払わなければならなくなった。
正しくは私の保護者が払わなければならなくなった。
それはもう本当に高額で、家が土地付きで買えるような額だ。
私は一生をかけて、先輩から奪った未来の金額を、彼と彼の両親に返し続けなければならなくなった。
先輩を轢いてしまった瞬間もそうだが、あれからじわじわと私を蝕み、慰謝料の金額を知らされた瞬間の感覚。
私は絶望という言葉の本当の意味を知った。
まぶたは上がっているのに視界が閉ざされて、光が届かなくて、ずっと息苦しい。ずっと、ずっと、ずっと。
起きた時も、友達と話している時も、授業中も、薄暗くて息苦しくて、すべて他人事に思える。
「先輩、私大学へ行くことにしました。親にも、先輩のご両親にも納得してもらってますよ」
白くて、電灯が点いているのになぜだか暗い病室。
先輩はいつものように様々な器具に繋がれ、眠っている。
窓の外は秋。
砕けた蝉の抜け殻が降り積もっているみたいだ。
夏の死骸が街を茶色くしている。
「すぐ働くべきと思われるかもしれないですが、長い目で見れば大学を出た方がいいんですよね」
心音。
「中卒とか高卒でも稼げる人は稼いでますけど、誰でもそうはいかないんですよ。長い目で見れば大学を出た方がいい。親が学費は出してくれるらしいので」
心音。
「そういえば、親が私の代わりに払っていた分の慰謝料なんですが、二十歳を過ぎたら返せと言われました。まぁ、全部私のせいですもんね……。親が…………」
心音。
「……」
心音。
「……」
心音。
「なんだか、嫌ですね。……バイトに行ってきます。また」
私は先輩の両親に嫌われていた。
それもそうだ。自分の子供をこんな風にした張本人なのだから、恨まれて当たり前だ。
でも、私が大学へ進学してからしばらくした頃から、少しずつだが話をしてくれるようになった。
世間話とかお互いの近状とか、そんな普通の話を本当にちょっとずつするようになっていった。
それから先輩の話をするようになった。
先輩は犬が好きだったとか、
一人っ子で兄弟をずっと欲しがってたとか、
卵アレルギーだとか、
進路が決まらなくて悩んでたとか、
音楽が好きだったとか、
こんな映画が好きだったとか、
親戚のお姉さんが初恋の相手だったとか、
アイロンがけがやけに上手かったとか、
よく笑う子だったとか。
そんな話を聞けば聞くほど、先輩に色がついて見えた。重みを感じた。息遣いが生々しくなった。
彼は生きていたんだ。
そして今も、すべて失っても生きているんだ。
私が奪った。
全部。
「私、今日、人生で初めて告白されたんですよ」
窓の外は灰色に淀んで、見るだけで冷たい雪は薄く街を覆っている。
先輩の病室に通うようになって迎える何度目かの冬だった。
「最近よく話してる人です。バイト先が一緒で、専門学校に通ってる人」
心音。
「その人に先輩のこととかも話してたんですよ。この人なら大丈夫かなって思って」
心音。
「それでも、これだけ負債があってもいいって言ってくれたんです。一緒に返すって言ってくれたんですよ。すごく男前じゃないですか?」
心音。
「……」
心音。
「……もちろん断りましたよ?」
心音。
「私だけ幸せになるなんて、そんな気持ち悪いことはしないので安心してください。ちゃんと、不幸に……というか、加害者らしく生きます」
心音。
「でも、どうなんですかね、その人と結婚まで行って共働きなら確実に返済できるんですかね」
心音。
「……学校行ってきます。また」
あの日のことを何度も思い返す。
そして、妄想する。
あの角で、先輩の足音に気づいて急ブレーキで自転車を止め、先輩とぶつからない妄想。
雨で、バスに乗って登校し、先輩もそのバスに乗り合わせている妄想。
高熱を出して、学校に行けず先輩と遭遇しない妄想。
先輩の方が自転車に乗ってて、私が徒歩、それで私の方がぶつかられる妄想。
先輩の病室にいるときとか、寝る前にそんなことを考える。そんなことばかり考える。
何年もこんな妄想を続けている。
妄想で何も変わらないことは嫌というほど知っている。
しかし、これがすごくいい気休めになるのだ。
日常というのは思っている以上に不安定だ。
大勢の者たちが自転車に乗るなか、私は先輩を轢いてしまった。
免許なんていらない、小学生だって乗っている、何万円かで買えてしまう自転車で、人ひとりの人生と私自身の人生が真っ黒に塗り潰された。
そのふたりだけじゃなく、互いの家族にも大きすぎる損害があった。
世界は重みに満ちている。
一歩踏み違えるだけて帰ってこれなくなる。
私だけ関係ないなんてことはない。
もうなに一つ取り返しはつかないのだ。
こんな簡単に、身近なもので人生がこれほどめちゃくちゃになってしまうなら、少し頑張って気を張って生きていればどれだけ幸福な人生を送れただろう。
今の私に可能性なんてものは残ってはいないが。
もちろん先輩にも。
だから少しくらい甘い妄想に浸ることを許してほしい。
もう何も叶わないのだから、少しくらいは。
でもいつ頃からだっただろうか。
そんな妄想をしなくなったのは。
先輩の死に顔をみた。
これまでも死んでいるようなものだったが、あの状態でさえちゃんと生きていたんだとわかるくらいに、死んだ先輩の顔は正気がなく物じみていた。
社会人も五年目。
ようやく仕事をそつがなくこなせるようになって昇給し、副業の方も慣れてきた。
私が生きているうちに慰謝料を払いきれそうだと思っていたのに、これだ。
仕事中に先輩の母親から先輩が危篤になってしまったと電話があって、病院に着く頃にはとっくに先輩は息を引き取っていた。
それから仕事は休むことにして、そのまま家に帰ってきた。
先輩の死んだ顔が思い浮かぶ。
不気味だった。
数えきれないほど見てきた先輩の顔が、たった一日であんな風になるなんて、不気味で仕方がない。
先輩の両親に言われたことを思い出す。
慰謝料はもう払わなくていいと言われた。
「あなたは頑張った」とか「もう自分のために生きていい」とか、そんな言葉も求めていなかった。
私は先輩のすべてを奪った。
けれど同時に、先輩が私の青春や自由を奪っていた。
私は死ぬことにした。
暖かくて、体が軽い。
私は目を覚ます。
部屋、携帯、カレンダー、家族、鏡。
どれを見ても、私が高校生で、今日があの日であることを示している。
「夢?」
頰を叩いてみたら痛かった。
「は、はは……嘘みたい……」
神さまっていうのがいるのかどうかわからないけど、いるならありがとうって思っておこう。
どうやら本当に過去に戻ってきたみたいで、なにを見るのも楽しかった。
ずっとこの世界を堪能していたいが、そうのんびりとはしていられない。
私は懐かしの制服に着替えて家を出る。
自転車には乗らなかった。
学校へ向かう。
懐旧の情にかられ、いくども足を止めてしまう。
しばらくそんな風に歩いて、時間もちゃんと確認しながら進んだ。
一瞬その場の景色に怖気付いてしまう。
それでも心を落ち着けて、時間を確かめて、耳をすませる。
視線を上げた時、カーブミラーが目に入った。湾曲した鏡に映る光景を見て不安は解消される。
私は歩き出す。
そうして角から男が飛び出してきて、私にぶつかった。
「いたっ」
私は地面に倒れる。
男は体勢を崩したようだが転ぶことはなかった。
「ご、ごめん!」
私と同じ高校の制服を着た男が驚きと申し訳なさでいっぱいの顔をして私のそばに屈み込んだ。
そんな声だったんだ。
そんな表情をするんだ。
「大丈夫?」
「……全然大丈夫じゃないです」
「え、え?」
困惑している。おかしくて思わず少しだけ笑ってしまった。
「とりあえず起こしてください」
「わ、わかった」
先輩が片手を差し出して、私は差し出された手を両手で掴む。
なんども触った先輩の手。でもこの手は、あったかくて張りがあって、動いてて、生きてた。
ずっと触っていたかったけどそんなことはできない。
名残惜しいが先輩の手を放す。
「……とりあえず学校に行きましょう」
「え? …………いいの? 大丈夫?」
「大丈夫じゃありませんけどいいです」
先輩が話してて、目を開いてて、表情があって、動いてる。
先輩のことは大っ嫌いだった。
人生をめちゃくちゃにした原因の半分は彼にあるからだ。
私に非があろうと、彼がいなければ私はこうはならなかったと思っていた。
嫌いな人に人生を捧げるのは嫌だったから、好きになる努力をした。
まるで親しい人に話すみたいに話しかけ続けた。
そんなことを続けていたら、どんな話をするのかも、どんなふうに笑うのかも知らない人なのに、いつしか本当に好きになっていた。
変な話だけど、その気持ちは本物だった。
間違いなく私は先輩が好きだ。今ならはっきりわかる。
「ちゃんと交差点とかは角から人が出てこないか気をつけて歩いてください。本当に。お願いしますよ」
「ごめん……」
私が注意すると先輩は申し訳な顔をして、首の後ろを掻いた。
先輩は、私がどれだけ先輩に貢いできたかわからないでしょう。私が貢いだ分、今度は先輩に貢がせますからね。
それと私の青春を奪ったんですから、先輩の青春を消費して埋め合わせてもらいます。
私は先輩の趣味だって好きな料理だって、なんでも知っていますから、私が先輩の青春を奪うのは実に余裕なことですからね。
覚悟してください。
「わかってくれたんだったらいいです」
私今、先輩と話している。一緒に登校してる。
ウキウキしてしまって、ついこんなことを口走ってしまった。
「実は私、未来から来たんです。というか未来の記憶があります」
「え……」
先輩の顔を見ると変な顔をしていた。
舞い上がってやってしまった。
神さまもう一回朝からやり直させてくださいお願いします。
私が後悔の念にボコボコに殴られうめき声をあげていると、先輩が話し始めた。
「……おもしろいことを言うね」
「今度三万円程差し上げるので今のは忘れてください」
「いいよ別に」
先輩は笑った。そんな顔で笑うんだ。
いや、しかし、ヤバイ女と思われてしまった。
神さま本当にもうワンチャンください……お願いします……。
「じゃあ僕も変なこと言っていいかな」
「…………ええ、どうぞ」
そういう優しさが私の心を傷つける……。
「僕も春が好きだよ。消去法じゃなくてさ、希望に溢れてる感じがして、すごく好きだ」