第三十二話 安倍晴明
(終わり…ですかね)
木の高みにいる男は、地上の様子を見ながら枝から飛び降りた。その高さはゆうにマンションの三階はあるだろう。落下地点には鬼の首があった。両の足に踏み潰され、酒呑童子の首であったものは形を失い、霧のそれのごとく霧散した。同時に、体も消えていった。
「な、なんだお前は!?」
突如降ってきた男に兵馬は声をあげる。勿論、愛洲だけでなく千晶や柚子、優音やかろうじて顔を上げた清音の目にもその姿は視認できた。男はパチパチとにこやかに拍手を送る。
「いやいや、鬼退治ご苦労様でした。まさか、ヒトの手で酒呑童子を討つとは畏れ入りました」
男の声は清らかでかつ繊細な音色で響き渡る。声に比例するかのように美しい顔立ちは女性とも見分けがつかないほど不気味なほど美しく妖艶さを称えていた。
(こいつは…危険だ)
兵馬は本能に逆らわず、ゆっくりと髭切を正眼の構えにとった。鬼の首を足蹴にできる人間などそうそういるものではない。
「おやおや。そう邪険にしなくてもいいじゃないですか。この通り、悪鬼羅刹の酒呑童子もいなくなったのですから」
扇子をひらりと回しながら、ほくそ笑む男は警戒するでもなく一歩歩み寄る。
「拙者達の振る舞いを高みの見物でいたそなたの名を問うている」
愛洲の鬼気迫る声音に、眉をぴくりと震わせた男は歩みを止めて答えた。
「私は安倍晴明…と呼ばれていましたね。とうの昔のことですが」
兵馬を始め、皆がギョッとした顔持ちで男を見た。千晶は漫画や映画で見た安倍晴明の姿と比べてみた。陰陽師として名高い安倍晴明は純白の衣に身を包み高烏帽子の似合う清々しい好青年が思い浮かぶ。が、目の前にいる男は金銀の糸で仕立てられた虎と龍を刺繍した派手な着物を纏い、どこか妖艶でなんとも掴みがたい男だった。
「安倍…晴明だと?」
「お姉ちゃん、無理にしゃべっちゃだめだよ!」
ポタリ、ポタリと優音がハンカチで押さえた傷口からは今もなお血の滴が伝い落ち、地面に血だまりを作っている。清音は苦痛に耐えつつも安倍晴明と名乗る男に話しかけた。
「安倍晴明といえば、平安時代の陰陽師。少なく見積もってもこの時代から五百年前の人物だ。生きているはずがない!」
晴明は瞳を閉じ、意味深に微笑を漏らす。
安倍晴明。
平安時代に陰陽師として活躍した人物であり、兵馬の祖先でもある渡辺綱とも深い関わりがある。かつて、渡辺綱は酒呑童子退治に用いた髭切を源頼光より借り受け、酒呑童子共に京の都を脅かした鬼である茨木童子の片腕を斬り捨てたが命からがら茨木童子は逃げ伸びる。その事を安倍晴明に相談したところ、鬼は腕を取り返しにやってくると助言するのだが、渡辺綱の母に化けた茨木童子にまんまと腕を取り返されてしまった。
「俺の先祖の時代から生きている等とうそぶくとはおこがましい限りだな。貴様の正体もどうせ物の怪の類だろう。正体を現せ!」
「物の怪ですか。『ヒト』にはその様に見えても仕方ありませんね。そうですね、少しばかり昔話をして差し上げましょう。あれは、雨の降りしきる宵の口の時でした…」




