進むべき道 青年編 後編
前回のあらすじ
真田の家で元や明里達と幾年を共に過ごした真一。
家族の温かさを肌で感じ、武道の厳しさを心に刻み込んだ彼は、立派な青年へと成長していた。
元は恩師である時雨財閥総帥である景時の持つ情報網を頼りに記憶をなくした真一を助けたいと相談に行くが、納得のいく答えは得られなかった。
しかし、どこで聞きつけたのか、景時の婿養子である進が真一に護衛を頼みたいというのであった。しかも、向かう先は真一との出会いの場であった信州。
その返事に、真一は……
「やっ!」
「ほら、どうした? 突きのスピードが落ちてるぞ」
自宅と隣接している小さな道場で、神楽は真一と組み手をやっている。小さな体を精一杯動かして突きや蹴りを繰り出す神楽であが、いかんせん真一相手にクリーンヒットを出すには到底無理があった。
体格差もあるが、実力的にも雲泥の差がある。
元に鍛えられた真一の体つきは、出会った頃の少年の貧弱な体とはうって変わり、鋼のような引き締まった筋肉を備えた一流の格闘家として十分であった。こと、その様な体格に加え、天性の才能が上乗せされているのだから、見る者にとっては猫じゃらしにじゃれつく子猫のようにあしらわれているように見えるのも仕方がない。
「くっ! まだまだぁ!」
しかし、負けず嫌いな神楽はなんとか真一に一撃でも有効打を打ち込みたい一心であった。
小さな少女が汗だくになりながら絶えず向かってくる。真一は軽く攻撃をいなしながら、道場の壁掛け時計を見上げた。
組み手を始めて既に20分が経過している。
「よし。終わりだ」
がっくりと膝を落とし、肩を上下に揺らして呼吸を整えながら、神楽は悪態をつく。
「ま……まだ、やれるし。真ちゃん、疲れたんじゃないの?」
正直、神楽の身体能力は小学生レベルではない。持久力もさながら、スピードだけであれば中学生男子など足元にも及ばない。
「元さんも言ってたろ。無理して稽古しても体悪くするだけだ。ほら、水分補給」
「むぅ」
道場の壁際にあるペットボトルを神楽に向かって放った。納得いかない表情でそれを受け取ると、キャップをひねって口をつけた。
日課としている夕食前の二時間の稽古。普段は元もいるのだが、今日は用事があると家を留守にしている。
不意に神楽の鼻がぴくっと動く。
「わ! カレーの匂いだ!」
今晩の夕飯は、神楽の大好物である明里の手作りカレーライスらしい。ルーから仕込んで一晩かけて作るこだわりのカレーは、真一にとっても月に一度の楽しみのひとつでもあった。
「ほら、早く風呂入ってカレー食べなきゃな。行くぞ」
「仕方ないねぃ。続きは明日だかんね!」
夕飯だから風呂に入って続きは明日。毎日繰り返される二人の会話。真田夫妻からたくさんの愛情を受けて育った彼だったが、どこか心の底には得体の知れないわだかまりが残っていた。
(自分は誰なのか? どこから来たのか? 親は? 兄弟は?)
そんな悩みを抱えて生きてきた彼も、神楽の実の兄であるかのように自然体でいられるこんなひとときが好きだった。
「はい、お待ちどうさま!」
明里は神楽の前にカレーライスの皿を置いた。大好きなプチトマトの乗ったサラダと明里特製カレーライスに神楽は満面の笑みを浮かべた。
明里はそんな神楽を優しく見守っている。
「カレーひとつで幸せ感じるなんてな。将来、安い女になるなよ」
「じゃあ、真一はカレーいらないのね。ぼっしゅーと!」
真一の前のカレー皿がスッと消えた。
「かわいそうな真ちゃんには、らっきょうあげる」
プチトマトがあったはずのサラダの上に小さならっきょうがひとつ、ちょこんと乗っている。
(真田家の女は怖いぜ)
ちょうど食事が終わる頃に、元が帰宅した。何やら浮かぬ顔である。明里と真一はその様子を察しながら、食器を片付ける。
「お父さん、今日はお母さんのカレーだよ。神楽、お野菜も全部食べたんだよ」
「あぁ、うまそうだな。そうだ。いい子にしてた神楽にはお土産だ」
元は持っていた手提げ袋から一冊の本を取り出した。表紙には筋肉質の男がヌンチャクを構えて立っている。ハリウッドでも有名なカンフーアクションスターの写真集である。
一般に小学生の女児には一切興味がないような物……いや、あえて敬遠されるのがオチだが、神楽はまん丸に目を見開いて大きく口を開いた。
「カッコいい!」
さすが真田元の子である。
「部屋で見てきなさい」
「みっちゃん寝てるから静かにね」
「はぁい!」
写真集を小脇に抱え、充之が寝ている子供部屋にすっ飛んで行った。三才児である充之は本当によく眠る子供であった。様々な物に興味を持つ年頃なのだが、1日の大半は寝て過ごしている。
明里にしては、神楽のような天真爛漫の子供が二人もいたら気が滅入っていたと考えれば、充之は手のかからない楽な子供であっただろう。
「さて。真一、話がある」
元は急に真面目な顔つきでテーブルにつく。明里が冷蔵庫から冷えたグラスとビールを取り出して元の前に注いだ。
真一は何も言わず、元の向かいに座り、彼がビールを一杯飲み干すのを見ていた。
トンッ!
空になったグラスを置き、元はようやく口を開いた。
「お前の力を借りたいんだとよ」
「?」
それだけでは何のことやらさっぱりである。
「時雨の爺ぃは知っているな」
「あぁ。時雨財閥の偉いさんで、現在の学園長だろ? 確か昔は元さんの学生時代の教師で……」
明里も椅子に座り、二人の話に耳を傾けている。
「その爺ぃの息子……いや、婿養子の進って言うんだが……」
元から景時の話を聞きながら真一はただ黙っていた。瞬きひとつせず、表情を変える事なく。ただ、じっと聞いていた。
「それで、お前の返事を聞きたい」
明里は珍しく語気を強めて威圧的な元に眉をひそめた。
「俺は……」
最初から答えは決まっていた。
「信州へ行く」
「……そうか」
空のグラスに自分でビールを注ぎ、一気に飲み干した。
二人は分かっていた。この時が来る事を。それは別れの時。
「真一! 俺はな、お前に……」
「元っ! 駄目っ!」
明里にたしなめられ、口をつぐむ。もう何度も彼女と話して決めた事であった。
そう、元は真一を引き留めたかった。彼は真一を実の子同然に育ててきた。将来は血の繋がりはなくとも、彼に真田の名を継いでもらいたいとさえ考えていた。
真田の一族で最強と謳われた元を、今や超えようとするこの若者を手放す事が惜しかったのである。
しかし、真一の眼差しは元の眼を刺し貫くが如く、鋭かった。信念を曲げない強い意志が感じとれる。
(ちっ! 肝心な時に邪魔な能力だな。酒の力ぐらいじゃ、揺るがねぇか)
元には、千里眼を持つ充之と同じく不思議な能力が備わっていた。真田家の男子は生まれてすぐに極めて異例な力が身についている。
彼は生まれもって驚くべき『勘』が備わっていた。彼が真田一族の最強たる所以は、この『勘』にあったのかもしれない。
彼の勘は一度も外れた事がない。日常においても、闘いにおいても。
そして、景時と話を交わした時に感じた『勘』は、真一と真正面に向かい合った時に確信へと変わったのだ。
もう二度と真一と会う事はない……それが、彼の『勘』で得た答えだったのである。
まだ朝日が顔を出す前。
荷物を整えた真一は、二人に別れの挨拶を告げずに家を出る事にした。
二人への感謝は尽きない。だが、別れの挨拶をするだけ無駄な事だと理解していた。
(俺は自分の信じた道を進むだけだ。それが、俺の進むべき道)
「真ちゃん、どこ行くの?」
「神楽?」
玄関で靴を履いていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと寝ぼけ眼をこすりながら、弟の充之の手を引いて歩いて来るパジャマ姿の神楽がいた。
「ちょっとな」
幼い妹同様の神楽にも、別れを告げる事は出来ない。
「それより、神楽。充之を頼んだぞ」
「うん」
(俺なんかより真田の名を継ぐに足る男子である充之を……)
当然、今の神楽にはそれを理解出来るような知恵はない。
真一はしゃがみこみ、珍しくはっきり目を開いた充之の頭に手の平を乗せて微笑む。すると、驚くことに普段は口を開かなかった充之が初めて声を絞り出して言った。
「また、会えうよ」
「!?」
「みっちゃんが喋った! お母さん! みっちゃんが!」
神楽は驚いて充之の手を離し、夫妻の寝室に駆け出した。
だが、神楽以上に驚いたのは真一の方であった。
「また、会えうよ」
どこか、遠い昔に聞いた記憶がある台詞。だが、記憶の断片は直接的な映像の記憶には繋がらない。耳に残った充之の声が頭に響いていた。
だが、今はそれを思い出す時ではない。
つぶらな眼の愛くるしい弟を背に、真一は振り切るように真田の家を後にしたのであった。
真田家を離れ、時雨進と信州の地に向かう真一。
向かう先に待ち受けているモノは果たして?
次回 探しモノは……
今回もご覧頂き、ありがとうございました。




