孤独の女王
前回のあらすじ
ベルゼブブとミルフィー、そして栞の魂はこの世を去った。
誓いを果たす為に香川は立ち上がる。
その視線の先には早苗と栞の身体を奪った紫苑の姿があった。
「紫苑さんっ!」
長い睫毛に艶やかな唇、そして芸術とも言えるほど、整った輪郭。瞼を閉じたままの栞の美しい顔が、艶かしささえ称えている。しかし、彼女は紫苑である。
姿形こそ栞であったが、彼女は紛れもなく紫苑本人であった。
本来の身体を捨て、紫苑は悪魔ベルフェゴールとの契約により、より若い栞の身体を手に入れたのである。
しかし、代償は大きかった。彼女は悪魔に魅入られ、人である事を捨てたのである。
何故、彼女は闇に堕ちたのか。それは、早苗だけが知っていた。
(紫苑さん……可哀想な人)
ライフサーガを始めた早苗が初めて出会ったパーティメンバーが紫苑と彼女の夫、そして娘の未菜であった。
何も知らない早苗に、彼女は懇切丁寧にライフサーガの世界を教えた。
敵の倒し方、職業の説明、買い物の交渉術。
現実世界の辛さを忘れさせるほど、ライフサーガで紫苑と過ごす時間が早苗を夢中にさせた。
ある時、ミッション達成に魔導師が必要になり、ギルドで仲間を集う事になった。新しく彼女達のパーティに入ったのは一人の女魔導師であった。
話から彼女は現実世界ではOLをしており、早苗のより上の二十歳らしい。
ミッションは簡単に達成したのだが、間の悪い事に彼女は魔導師である自分を守る戦士である紫苑の夫に好意を持ったのである。
紫苑は主婦である。未菜の学校もあるし、家事やパートタイマーの仕事もある。
その頃から夫の態度が変わった。
一人でログインする事が多くなり、休みの日は決まって朝から家を出て行った。
(私、あの人に何かしたのかしら?)
若い時から夫と二人でいた彼女は、男の衝動的な行動に無知であったのだ。
夫に振り向いてもらう為に、彼女はあらゆる行動に出る。
とびきりの手料理を作り、彼の好きな髪型やお洒落をしたり。
だが、夫は彼女の変化に気付きもしなかった。
彼女は早苗と共に新しく導入された職業暗殺者へと転職する。
ライフサーガで暗殺者のトップランカーになれば、きっと夫も誉めてくれるのだろうと思っていたのだろう。
必死の努力が実り、彼女はライフサーガの世界において、暗殺者ギルドを仕切るリーダーにまで成り上がる。
だが、それは夫の関係を更に突き放す結果となったのだ。
暗殺者は影。しかも、リーダーとなれば自分を狙う敵が増えるのは当たり前である。そうなると、夫とパーティを組む事自体難しくなっていた。
一方、夫は魔導師の彼女と共にプレイする機会も増える。
ある時、彼女は夫が寝落ちした時に彼の会話のログを見てしまう。
それは、魔導師の彼女との情事であった。更にさかのぼると、彼女は近所に住んでおり、夫の休みの日には二人で会っているらしかった。
それまでなら、まだ許しても構わなかった。
紫苑の目にある一文が目に入った。
(彼女は老けていくが、君は若くて美しい。私はもう、君なしでは生きていける気がしないんだ。彼女とは話をつけるから、二人きりで遠くに行きたい)
そこで初めて紫苑は理解した。
私は捨てられたのだと。
そんな時に、彼女はベルゼブブと出会い、異変が起きた。
紫苑は早苗だけに悩みを打ち明け、行動に出た。
二人を殺害した後、彼女はカイザル女王となった。
嫉妬や妬み、憎しみが彼女を変えたのである。
(私が……紫苑さんを止める事が出来なかったから)
あの時の早苗は紫苑の考えを、始めはまるで夢物語のように捉えていた。
(紫苑さんは、私を必要としてくれている……の?)
異変により変わってしまった世界で紫苑の為に尽くす事が自分の運命だと錯覚してしまったのだ。
だが、アリスとの出会いが彼女に間違いを気付かせてくれた。
その時から、早苗は紫苑を『守る』事から『救う』為に尽くそうと決めたのである。
「しっかりして、紫苑さん! 貴女は死んじゃダメっ!」
早苗は紫苑の身体を激しく揺さぶる。意識を取り戻さなければと焦っていたのだろう。瞼を閉じたままの紫苑の左腕はミカエルの斬撃により、肘から下を失っていた。
今もなお流血が止まらない。
(そうだ! ベルフェゴールなら!)
彼女は自分の僕となった悪魔ベルフェゴールに呼びかけた。
「お願い! 紫苑さんを助けて! 紫苑さんをこんな身体にしたのは貴方でしょ!?」
しかし、悪魔ベルフェゴールは冷たく言い放つ。
「いかに主の命といえ手を貸す事は出来ません。この女の願いを私は叶えた。魂という代償で。ですから、この女は私に渡すものはありません。あ、そうですね……あるとすれば……」
「な、何! 私なら何でも……」
早苗は自身の命を捨てるに惜しくないとまで思っていた。が、ベルフェゴールの言葉は実に残酷である。
「女の娘の未菜という少女の魂を頂けれ……」
「…………」
早苗はそれきりベルフェゴールとの対話を中断した。
依然として、紫苑の目は開かない。段々と青白く弱々しくなっていく肌が彼女を半狂乱にいたらしめる。
「い、嫌よっ! 貴女まで失うなんて! 私を助けてくれた人はなんでみんな居なくなっちゃうのっ!」
早苗の脳裏にあの協会の凄惨な光景が甦る。真っ赤な紅蓮の炎の中、幼い子供達を救う為に一人飛び込んで行った小百合の事を。
「あ……」
早苗の願いが届いたのだろうか。紫苑がゆっくりと瞼を上げて、早苗の目を見る。
「ごめんなさい、サーヴェ……いえ、早苗さん。貴女を巻き込んでしまって」
「そんな! 孤独だったあの頃の私にとって、貴女は……」
頭上に現れた影が早苗と紫苑を覆い隠す。
紫苑は早苗の視線を外して目線を上げる。早苗も振り向いた。
「か、香川さんっ!」
そこには傷付いた身体を震わせ、強く拳を握り締める香川の姿があった。
彼は唇を噛み締め、涙をこらえながら紫苑を見つめている。
そう、つい今しがた永遠の別れを告げた愛しき彼女の姿がそこにある。しかし、その中身は彼女ではなく、自分達に苦しみを与えた張本人……紫苑であるのだ。
早苗は察した。
「やめて、香川さん! 紫苑さんは! 紫苑さんは!」
(香川さんは、紫苑さんを……)
両手を広げ、紫苑を庇う早苗。だが、香川は早苗の肩を掴み、身体を入れ替える。
「あ……」
殺意があっての行動なら、早苗は必死に香川を止めていただろう。しかし、香川が肩に触れた瞬間にレナスは彼女の中に香川の想いを伝えてきた。
それは悲しく、そして温かく、決してあきらめない強い想い。
「ふっ。無様でしょう? 悪魔に魂を売り渡し、貴方と愛する彼女を追いやった私が。さぁ、殺しなさいな。貴方の気の済むまで、殴りつけてもいい」
紫苑は再び目を閉じる。彼女は諦めている。生きることを。
そんな彼女に香川がとった行動とは。
「な?」
紫苑の左手の傷口を手にした包帯で手当てしていた。
「レナスシステム……」
香川はレナスシステムにより、包帯を生成したのである。
「これで少しは血止めの効果はある」
「バカな!? 私を殺しなさいっ! 馬鹿な私を!」
パンッ!
乾いた音が響く。
紫苑は驚いた目で右手で右の頬に触れた。香川に叩かれた頬は熱く、熱を持っていた。
「それが痛みだ。生きている証拠だ。あんたは今、死んではならない。それは償いでもなんでもない。あんたがしなければならない事は、残された未菜ちゃんを立派に育て上げる事だ。それが、あんたの義務であり……償いだ」
「未菜……」
紫苑の瞳に涙が溢れる。悪魔となったはずの彼女の目に涙が。
「紫苑さんの目から涙が……」
奇跡か、それともミカエルの力に悪魔の力が無効化されたのかは分からない。
「早苗さん、彼女を頼む。私は……彼女とした『約束』を守りに行く」
(栞、これで良かったのだろう)
ここからでは瓦礫の山に埋もれて見えないが、会場の中央……舞台周辺では既にミカエルとレナスメンバーの死闘が繰り広げられているのが彼等には分かっていた。
早苗は強く頷いた。
戦場へ向かって走ってゆく英雄の後ろ姿を見送りながら。
香川は走る。
友を救い、愛した女性の願いを叶える為に。
次回 神の使途、そして死闘へ
今回もご覧頂き、ありがとうございました。




