第百五十九話 さよなら
前回のあらすじ
魔王ベルゼブブの語る悲哀に満ちた過去。
しかし、それは同時に彼を変えてしまった過ちの始まりでもあった。
「わかっただろう? 私が彼女を誰よりも愛していると」
香川とアリス、そして早苗は長い夢を見ていたかのような感覚を覚えていた。
ベルゼブブの記憶と彼が創りし創造の世界が混濁し、疲労と陶酔、喜びと悲しみがない交ぜになる。
そう、ベルゼブブはレナスを利用し、彼等に鮮明な過去の映像を見せたのである。
「レナスシステム……か。人間は面白いモノを作ったものだ。ん? 香川くんは何か腑に落ちないようだね」
香川は頭を振り、苦痛をこらえながら吐き出すように言う。
「貴様の作った幻覚だ。そうに決まっている。何故なら、バアルという悪魔の記憶もでっち上げた話だからだ」
内藤の姿をしたベルゼブブの頬が緩む。
「いいところに目をつけたね。流石、香川くんだ。何故だか教えてあげよう。バアルやベリアルはね、私が殺したんだよ。後に起きたサタンとの戦いの最中にね。あぁ、勘違いしないでくれたまえ。彼等はサタン側に内通していたから……いや、私の大切なモノを奪ったからというのが本音かな。だから、ほんの軽くお仕置きしてあげたんだよ。彼等は情けない程に命乞いをした。許す筈がないのにね。先程の映像に加えたのは、我が眷属が彼等の脳を食い散らかした時に得た記憶だ。しかし、怒りに任せてバアルを殺してしまったのは悔やまれるよ。彼には永遠の責め苦を与えてあげたかったのだがね」
アリス……いや、サーヴェである体が震えている。さらりと言ってのけるおぞましき事実に、早苗の魂は心の底から震えが止まらなかった。
「そして、香川くんにもうひとつ教えてあげよう。何故、ミルフィーの魂を沢村栞という人間の器に移したか。私の教えを受けたアリスなら分かるね?」
「……魂は肉体から離れる時間が長いほど失う時間が進むから」
パンパンッ!
ベルゼブブは満身の笑みで拍手する。
「その通り。私はミルフィーの記憶を封印し、何度も異なる生命体に魂を移し続けて来た。その結果、人間の体がミルフィーの魂を保存しておくのに最良だと分かったのだ。一番良いのはエルフや妖精だが、彼等は現世から隠れ住むようになってしまったからね。しかし、それも単なる時間稼ぎに過ぎなかった。人間の体もそれらに比べた老化してゆくのが遥かに早いんだ。そして、今、彼女の魂は他の人間の体には移せなくなるほど傷付いている。もう時間がないのだよ」
言葉尻に、憂いを込めて話しこむ。
「だから、数多くの魂でサタンを復活させ、ルシファーと争わせるのさ。どちらが勝ってもかなりの深手を負う筈だ。私はサタンを殺して永遠の肉体を持つルシファーの体にミルフィーの魂を移すつもりなんだよ」
「ば、バカなっ! ルシファーはお前を頼っていたんじゃないのかっ!」
香川は普段の冷静さを失い、心から叫びを上げた。
「そうだね。だが、私のミルフィーへの愛は全てを超越するのだよ。分かってくれるよね、ミルフィー?」
ベルゼブブの視線は絵画となり壁にかけられた栞に向けられる。
「分からないっ! 分からないよっ! いつもの優しい内藤に戻ってよ! お願い……だから……」
栞の葛藤、心の苦しみが香川の心を激しく打つ。しかし、それはベルゼブブには伝わらない。
「人の体は失われても、まだ少しだけ人の心が残っているようだ。だが、安心するんだ。もうじき、人の心を失い、ミルフィーの記憶が戻ってくるから。そうすれば、今の記憶も苦しみも全て消えてなくなるさ」
「き、貴様ぁっ!」
香川は全身に力を込めてベルゼブブに向かい弓を引き絞った。
「ほぅ、打つのか? まぁ、よい。何倍……いや、何千倍もの苦痛にして返してやろう」
アリスはベルゼブブの体から恐ろしいほどの魔力がほとばしるのが分かった。
「ダメだ! 香川さんっ!」
魔力がゼロに等しい香川にもベルゼブブの異様な力を感じているはずだが、彼はアリスの言葉に耳を貸さず、今にも矢を放とうとしていた。
(くっ! 仕方ない。私が……)
アリスが剣を抜くより早く、後方から栞の声が上がる。
「ベルゼブブ様っ! ミルフィーでございます。今、わずかに記憶を取り戻しました!」
「ミルフィー! 取り戻したかっ!」
歓喜にうち震えるベルゼブブ。対照的に、香川は戸惑いを隠せず弓を引く手を力なく下ろした。
「さ、沢村……嘘だろ? 嘘だと言ってくれ!」
栞の目は潤み、さもいとおしそうにベルゼブブを見つめる。
「長い間、お待たせいたしました。貴方に受けたご恩、未だに忘れもいたしません」
「あ、あぁ! 私も君に会いたかった。もうすぐ、もうすぐだ。永遠に二人の時を過ごせるのだ」
ベルゼブブは放心状態の香川の横を素通りし、壁に掛けてある絵画を胸に抱き締める。
アリスはその瞬間を見逃さなかった。彼女の目が香川に向けられ、わずかだが唇がひとつの単語を告げているのを。
さよなら、と。
「ベルゼブブ様、もう私は人間が死ぬ姿を見たくありません」
ミルフィーの死因、そして彼女の目の前で自害してゆく王と側近達の光景が彼女を苦しめるのだとベルゼブブは理解した。
「分かった。彼は私が手を下す事もない。アリス。君はアスタロトの使い魔だが、私の元に戻る気はないか?」
「……私はアスタロト様の使い魔。ベルゼブブ、貴方をもう二度と父と呼ぶ事もないだろう。そして、アスタロト様の命令あらば、いつでも貴様の命を頂く」
極めて冷たく、斬り捨てるように別れを告げる。
「ふ。残念だな。君なら私の元にいれば魔王を名乗るにふさわしい力を得る事も出来るだろうに。あぁ、君の体にかけた呪いは解いておこう。今、私はすこぶる機嫌が良いのでな。さて、私にはまだやらなくてはならない事があるから失礼する。あぁ、今日はなんて幸せな日であろうか! はははっ!」
ベルゼブブは絵画を手に彼等に背を向け歩き出した。
「さ、さわ……む……ら」
既に消え失せたベルゼブブに届かぬであろう力なくかすれた声が、行き場を失い狭い部屋に漂った。
咲き誇っていた花びらが散るように、今、香川を支えていた栞への愛情がまさに散ろうとしていた。
「喝だ! これっ!」
「ア、アスタロト様っ!」
入れ違いに小さな妖精が光る羽を羽ばたかせて部屋に飛んで入って来た。云わずも知れたアスタロト本人である。
「しかし、端から聞いていたが、沢村栞も『女優』ね」
香川はあまりに落ち着いた様子のアスタロト全身を怒りに震わせた。
「聞き耳を立てていたのかっ! な、なんで加勢しに来ないんだ!」
「まぁ、待て。アリス、魔力返してもらうわ」
「は、はい……」
(え、アリスさん!?)
アスタロトはおどおどとするアリスの唇に口付けし、自身が付与した魔力を吸収する。早苗はただただ慌てふためくばかりである。
「よしっと。香川、聞こえていなかった? 私は『女優』だと言ったのよ」
「は?」
アリスは未だアスタロトの話を理解出来ていない香川に合いの手を入れて説明する。
「沢村さんはまだ、人間の心を残しているの。記憶を取り戻したって言うのは真っ赤な嘘よ。貴方を……私達を助ける為にひと芝居打ったのよ」
「本当か!?」
香川の顔に明るみが増す。
「まだ、沢村を取り戻す事が出来るかもしれないわね。でも、その前に……こそこそしてないで出てきたらどう、ベルフェゴール?」
「う! 流石はアスタロト様、お気付きになられていましたか」
先程の姿とうって変わって、小鬼ほどの小さな体が部屋の隅に現れた。
「大方、香川の背後から襲おうとしていたのでしょ?」
ギクリという言葉にふさわしく、ベルフェゴールは肩をすぼめた。彼にとっても魔界の大魔道士であるアスタロトは恐るべき存在であるのだ。
「フフッ。私がお前を殺すのは雑作もない事だが、ひとつチャンスをやろうかしらね」
「へ?」
「私は手を出さないから、香川とアリスを倒す事が出来れば見逃してやるわ」
ベルフェゴールは勿論、香川とアリスも目を見開きアスタロトをまじまじと見つめる。
「ベルフェゴールごとき倒せないようならば、ベルゼブブには永遠に太刀打ち出来ないわね」
アスタロトはいたずらっぽく微笑んでいた。
アスタロトの提案でベルフェゴールと戦うことになった香川とアリス。
アリスは魔力をアスタロトへ返した事もあり、パワーダウンしている事は否めない。
魔界の実力者を相手に今二人の戦いが始まる。




