とある野良犬の場合
アタシがそいつに話しかけたのはただの気紛れだ。
アイツからしたら相当迷惑な気紛れだろうが、それはアタシには関係ない。
もう、興味は特にない。見た目がやたらと良くなってるのは気になるが、それで前みたいにアイツにカネを払おうってつもりにはならない。……それで迷惑だけかけてやろうって言うんだからとんでもない話だけど、それもアタシは気にするつもりがない。
アタシは、既にアイツの人生の悪役だ。
じゃあ、もういいじゃないか。なんでも。
「あ、舐め犬じゃん」
「……、……」
ソイツの後ろにいた小さな女の子が、ぴしりと凍り付いた。
たぶん、アタシが悪意を特に隠さなかったせいだろう。あの子の方に何らかの悪感情を向けたわけじゃないんだけど、あの子からしたら「大人が敵意を表示している」って時点で怖いんだろう。アタシはそれも、特に気には留めない。
「花束だァ? 見綺麗になってんじゃん。遂に誰かに飼われることにしたの?」
「……、何の用ですか?」
――仕事はもうやめました、とソイツは言った。アタシは、それに取り合わず隣の女の子を掌で追い払った。
その子は完全に怯えていて、だけどアタシに退くつもりもなさそうだった。……めんどくさいようならアタシから退散してやっても良かったんだけど、その前にコイツがその子に何か言っていた。
それを聞いて、おずおずとこの場を見て、それからその子は捌けていった。
ソイツ、――オルハは店員に頼んだらしいフラワーアレンジメントの作業を黙々と眺めている。分かりやすくこちらから意識を断ち切って、技でも盗むつもりかってくらいに店員の手先を注視してる。店員は、……どう見ても店に用事がなさそうなアタシに困惑していて、目が合うとぺこりと黙礼をしてきた。
「アタシにもそれ、同じのを」
「アレ、供花用ですが」
「供花? そんなの頼んだの?」
驚いた。あんな態度でも対話の意思はあるんだ。
ただ、視線をこっちに振るつもりはないらしい。なんでアタシも、興味もない店員の手先に視線を置いといて口だけオルハに向ける。
「仕事、やめたんだ? でその身綺麗さってのは何? 別の仕事始めたの?」
「何の用ですか?」
「……特にないけど?」
その言葉にオルハが、「はぁ?」って顔でこっちを見た。
「声かけただけなんだけど?」
「アンタが? 冗談でしょ?」
「何とでも言えば。それより答えろよ。アンタ、なんで身綺麗になってんの?」
「……、……。」
答えが返ってくるとはあまり思ってなかった。
コイツは、アタシが買ったガキの中じゃ群を抜いてギラギラしてた。つっても流石に今ほどふてぶてしくはなかったけど。……そもそもアタシが買ったガキなんて全員ガス欠でギラギラしようもないようなのばっかりで、こいつはまだマシだったってだけだけど。
「冒険者になった」
「……、……」
で、答えが返ってくると思ってなかったアタシは、まず答えが返ってきたことに絶句した。
相当嫌われてるはずなんで、アタシとは会話もしたくないはずだった。
アタシがコイツみたいな底辺を敢えて買ってたのは、予算が控えめだったのもそうだけど結構な無茶を飲み込ませるためでもあった。といっても、世の中には爪を剥いで悦に浸ったり糞を食わせて絶頂するようなのもいるらしくて、アタシはそこまでじゃなかったけど。でも、アタシがこいつにしてたのはお手本みたいなイジメと人格否定とストレス発散ではあったはずだ。アタシにはマゾを喜ばせる趣味はないんでこいつがよがってたわけでもないし。
「へぇ? じゃあ身なりを見るに結構稼げてる?」
「そこまで話す筋合いはないだろ」
「サービスしとけば? アタシはアンタの潜在的な顧客だろ冒険者」
「……アンタから二度とカネ貰うつもりないから」
良いジョークを返すようになったものだ。……なんてのは、思いついても口には出せないが。
コイツの師匠か先生かみたいな言動を選ぶのはアタシだって気色悪い。
「で、さっきの子は何よ。依頼絡み?」
「だとしたら一人にするわけないだろ。知り合いだよ」
「知り合い? ……へぇ」
それっきりで、会話が止まった。
さっきから恐縮するだけだった店員がアタシに何か言いたそうにしてるけど、それは面倒なので封殺する。
「……供花って、誰に?」
「質問が多いな。僕が好きなのか?」
「そういえばアンタ、自分のコト僕って言ってたわね」
乾いて笑うと、オルハが痛恨っぽい反応を横でした。
ただ、一瞬だ。で、意趣返しというには曖昧な横顔に持ち直して、
「答えるつもりない」
「あっそ。……それ奢ってあげようか? 昔みたいに」
「二度とゴメンだって言ったよな?」
「イキがよくなったねぇ? アタシのコト舐めてたりすンの?」
多少圧を込めてみる。ただ、本気じゃなくてただの意地悪だ。
なんせアタシに小金をせびるために媚びてた犬が急にイキが良くなったんだ、そんなの苛立ちよりも先に興味が勝つに決まってるだろ?
……さて、反応は、
「……、……」
無し。
敵ではなく隣人に圧を掛けられた時の反応だ。つまりは、不快そうではあっても怯えてはいない。
……まあ、それも当然か。
アタシなんてただの女だ。ガキが第二次成長期にも差し掛かればアタシなんて怖いもんじゃなくなる。
で、いよいよ会話は使い切りだ。
アタシもノープランでこいつに話しかけたんで、聞きたいことが特にあるわけじゃない。ただコミュニケーションがしたかっただけだ。
だから、終わった会話はそのままだった。
アタシは感情ゼロで、オルハと一緒に、店員の手際をのんびりと眺めることにした。
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アタシ、オリンジュ・シルブラーはただの大人だ。
雇用契約を以って一日を拘束され、多少黒めなタイムスケジュールで過ごしつつも死ぬほどの奴隷扱いはされてない大人で、ただ将来不安がほんのりと付きまとうだけの日々を過ごす普通の女である。……いや、普通というのは少し違う。
アタシは過去に、若気の至り程度の濃度で社会の薄暗い部分に足を浸していた。当時のアタシは何も考えてなくて、ただ身体を貸しておけばカネが入ってくるってシステムを甘い蜜だと思ってたバカで、傍から見ればイキりながら大人に消費される頭の弱いガキだった。で、そんな青春はきっかりタイムアウトして、アタシは普通のレールに戻った。
考えてみると、アレはただのアルバイト感覚だった。普通のレールに戻ってこれると信じて疑ってなかったし、自分の身体が経年劣化で市場価値を落とすことはバカなアタシでもちゃんと分かってた。いや、バカって言うのも違う。アタシは自分をバカだなって思ってなかったね。同世代の普通の子とは別格の収入を得ていた私は、知識はないけど地頭は良いと自分のことを思ってた。で、それは今も変わらない。誰も論破してくれないので、アタシはまだ地頭のいいバカモドキのままだ。
さて、そんな私が社会のレールに乗った。当たり前の努力を要求されるのは、当たり前じゃない方法で金を稼ぐ術を知っているアタシには結構きつかった。なんで、どうしてもアタシにはそっちの世界に本気になり切れなくて、心の一部をアングラの方に預けたままでいた。
……知り合いの地下バーに行くって程度にハメを外すだけだ。多少怒号が飛び交う可能性のある場所に行くって程度の火遊びだ。喧嘩が花だと言ってもいい場所に、アタシは深夜に逃げ込む。稼ぎ頭の一人として身体を壊さず引退したアタシを周囲はこれといって拒絶せず、深夜二時の繁華街はアタシを肯定する。そういう意味だと、アタシの青春に意味がなかったとは思わない。言葉通りの悪友どもは、経年劣化で絵に描いたように角が取れていって、大人としてはまだまだペーペー風情ながらに社会制度に不満を垂れている。
アタシは、一時期文字通りに身体を資本にしていた。だけどアタシは自分を被害者だとは思わない。アタシは自分を、同性異性含めた悪友連中と青春時代にしか許されない方法でカネを稼いでいた加害者だと思ってる。だから、夜の時間が不快感なく身体になじむのだろう。
で、その一環だった。
恵まれないガキの一晩をカネで買う。認めるがアタシはガキが好きだ。成熟した男にはあまりそそられない。アタシにこの街の夜は優しくて、アタシのニーズは伝手のおかげで叶った。
この街には貧富の差がある。本当に救われない層は未だ一定数いて、そいつらはカネを欲していた。だから、アタシがそいつらを買うのは需要と供給だ。だから、仮に通報されたってガキの方が被害届を取り下げることになる。悪いのはアタシでもガキらでもなくこの社会自体だ。
――ただ、そういう文脈で言うならこの社会は悪くなくなりつつある。州長をボストマンに変えて以後のこの街は日の当たる場所が多くなった。アタシが逃げ込む夜の日陰は日を追うごとに狭くなっていって、アタシの悪友は日陰から姿を消して行って、
……アタシも、いずれは日の元に出ていくことになるはずだ。
「…………、」
オルハ。『頭痛持ちのオルハ』
最低ランクの男娼風情のクセに、こいつは妙にヒトに知られていた。
コイツには何か企んでいることがあるらしい。それはただの噂で、確かめたヤツがいるわけでもない。だけど、今になってふと思う。こいつには本当に目的意識があったのでは? と。
だから他の本当に最下層のガキどもと違ってこいつは身体を消費しなかった。甘いだけの話に釣られて、たった一晩分のカネで身体や心に一生分の傷を負った連中は少なくないはずだ。
こいつは、考えてみれば客を選んでいたように思う。被害者ド真ん中の情けなさをしたままで、自分のやりたいコトだけは維持していた。コイツに何らかの目的意識があったという噂は、……今の姿を見れば、立証されたと言ってもいいんじゃないだろうか?
それが、アタシは少しだけ気になる。
でも、本当にちょっとだけだ。コイツに思いつく大体のストレス発散を試したアタシが、聞いて答えてもらえるものとは思うべきではない。
「覚えてる? アタシが最初にアンタを買った日」
「……、……」
返答はない。強いて言えば、花を束ねてる店員があり得ないモノを見る目でアタシを見てる。ただ、アタシがそれを見返したら視線は明後日の方に飛んでった。……睨み返されて萎縮するんなら睨んでんじゃねえぞクソメスが。
「初めてヒトの顔を踏んだわけ。アレは酔った勢いだったけどやってよかった。ああいう一線超えないと出来ない真似ってのは、経験しておくべきだと思ったなぁ」
「家で壁に相談してろよ。人様の迷惑になる」
「それは悪かったわ。……アンタ、」
「……、」
「なんかやってるんでしょ? 教えろよ」
「……。」
聞いてもらえることじゃないとは確かに思った。
でも、聞くのはこっちの勝手だろう? どうせこれ以上減るものもないんだから。
「答えろよ。アンタ風情の思惑なんて言って減るもんでもないでしょ?」
「……、……」
「…………あっそ」
対話の余地が消滅したのを感じた。
それで私は、腫物を触らないようにするみたいに話題をそっと閉じた。
……どうやら、本意気で挑んでる何かが本当にあったらしい。
まあ、なら、それが分かっただけでもいいか。
「ところでアンタ腹減らない?」
「いや? ……ちょうど朝食と昼食の中間だろ今」
「そっか。……コーヒー飲みたいんだけどアタシ。付き合えよ」
「ちょうどさっき喫茶店から帰ってきたところだから」
「あっそ……」
…………。
もう、いいか。
「……、……」
アタシは、そこに背を向ける。
アタシに向けられてた店員の緊張感がふっと消える。それが妙に腹立たしいけれど、文句を言うほどの不快感でもない。
まだ昼と呼ぶには早い街の風景。往来はご機嫌で、さっき追い払ったガキは、……もうどこかに逃げてしまったらしい。悪いことをしたと思わないでもないけれど、気にするまでじゃない。アタシは溜息を一つ。
「んじゃ」
「待った」
「……、……」
声を掛けられるとは。
足を止めたのは失敗だった。このままじゃ、次の足が踏めない。
「何も頼まないつもりなの? 失礼だろ」
「はぁ?」
「……、……」
アタシを止めたくせに、こいつは続きを言うつもりがないらしい。
店員の緊張感が復帰する。……ただ、さっきほどの濃度じゃない。アタシはオルハの横に立って、
……何も話しかけられないので、ただ店員の手際を見る。店員は、ゆっくりと花を束ねている。
「……、……」
「……、……」
手際が良いのは良いんだろうが、それよりも丁寧さが印象に残る。
細く白い指が、繊細な花を整えていく。女性の髪をクシで解くみたいに優しく結わえて、シルエットを揃えて、一本の花に化粧をする。それを幾度と続けていって、
やがて、束ねるのに十分な彩が揃う。
「。」
白と翡翠、紫紺。
真っ白なドレスに微かなアクセントがあるみたいなブーケ。或いは、お金をどれだけ積んでも再現不可能な、今という瞬間だけのドレス。
その色は清純で、潔白で、朝の最初の日差しと同じ純白だった。
華ではなく、花。その率直さこそが、あのドレスを白装束たらしめる。
――確かに、あれは供花だ。
贅を排した抜き身の誠意。そういった白さが、束ねられて一つになっている。
「」
アタシは思う。
アレは、誰のための花束なのか、と。
「 。」
聞く筋合いはない。だから聞けない。アタシはアイツの人生の悪役だから、アイツの大切な部分に踏み込む権利を持たない。
……出会いが間違っていたとは思わない。アタシは何度やり直してもアイツを消費する。こんなことを言えるはずないだろ? 言っちまえば楽になるんだろうし、許されなくても楽になるんだろうし、そもそもアタシは悪いと思ってるわけじゃない。
需要と供給だ。アイツという商品を卸していたのはアイツ自身で、アタシはアイツ自身からアイツを買ったんだ。だから、本気で悪いと思ってない。ここに欺瞞は絶対にない。
だけど、
「それ」
「……、……」
「誰に?」
「……。」
アタシは、この街の光に呑み込まれた。
だから、……バカだった頃を後悔はしてしまう。
そんな時に、アタシのバカの被害者に会ったんだ。声を掛けないなんて、無理だろ?
悪役でもいいから、声だけは掛けさせて欲しい。誠意が皆無だってことは認めるから。
「――僕の女神さまに」
「…………」
――それだけで、満足だった。
「……、」
はっきり言っておくが、アタシがこいつに未練があるんなんてことはない。それは確定。
ただ、自分が使ってしまったヤツが居たから声を掛けただけなんだ。誠意ゼロで、気遣いもなく。
花屋は謎に「まあ!」なんて顔をしてるがそれは睨んで黙らせる。なんだかそいつが、アタシが失恋でもしたみたいな面をしていたからだ。
だから、アタシは腹の立つそいつに言う。
「そっちの会計が終わったら、アタシのも頼めるかな?」
「え? あ、はい。……あ、お花のご注文ですか?」
「そうだよ。旦那に。記念日でもなんでもないときに送るようなやつをひとつ」
まぁ、正確に言えば旦那ではなく婚約者なのだがそれはハッキリさせなくてもいいだろう。
重要なのはこの場にいる全員に、これが失恋なんかなじゃくて、過去に迷惑をかけてしまったやつの様子を見に来ただけの事なんだと知らせるコトである。
「ま、アンタも悪くなかったけどねオルハ。……ほら、もう行けば?」
「……、」
「アンタのヤツは出来ただろ? 行けよ邪魔」
……まだ会計が済んでないことは判ってるけど、それでもアタシはあいつを急かす。
どうせ悪役なんだ、多少の理不尽はキャラで許されるだろ?
「……、……」
オルハが、新品らしい財布からカネを取り出して、店員に渡した。
それを店員は受け取って、祝福の言葉をオルハに投げた。それをアタシは見てる。あの店員はたぶん、アタシに同じ言葉はくれないんだろうな。アタシがメンチぶち込んだせいだけどさ。
「……。」
若気の至りだと思ってる。
身体で稼いで、その伝手がまだ生きてて、アタシのストレス発散にその名残を付き合わせて、場合によっては社会的弱者とニーズのやり取りをすること、それら全てを。
だけど、アタシは日陰から追い出されつつある。光の下に引っ張り出されて、アタシ自身も角が取れてしまってそれを受け入れつつある。寒いよりも暖かい方がいいと素直に認めて、舐めてたところに居座ろうとしてる。そこが心地いいとも思い始めてる。
だから、過去が鬱陶しいんだ。ミスってしまったことが忘れられない。今の婚約者に言ってないことはたくさんあるし、言わないつもりのこともたくさんある。だけど、言えたらどれだけいいかってのも分かってる。
それとの決別が出来たらいいなって、アタシはオルハの背中に声を掛けたんだ。
誠意なんてゼロだし、オルハのためのことなんて何にもない。だからアタシは悪役なんだ、
でも、ここからは悪役じゃなくありたい。アタシはここからヒトを愛して、子供を育てていくんだから。悪役じゃダメなんだ。
「……、……」
コイツに会えたのは幸運だった。
アタシが悪役だったのを直視出来て、それを反省できた。本当なら、あの花束分くらい本気で奢ってやるつもりだった。
だけど、
「……最低のお客さんだったよアンタは、二度と僕に声を掛けないでくれ」
「――。」
やっぱアイツは最低ランクの男娼にはもったいないな。
――モテるんだろうなぁアイツ。
最後にアタシが聞きたい悪態、まるっとそのまま言って行きやがった。




