04.
コールズ・バインは現在、冒険者エイルと組んでいる。
彼からすれば、それは疑いようもない幸運だった。
彼も一流の冒険者ではあるが、それでもエイルは別格だ。一流の冒険者程度では彼女の作る神造の剣の一振りでさえ作り出せず、場合によっては後遺症が残るような形で体内魔力が焼き付く可能性すらある。
コールズも、この世界の多くの例に漏れず異邦者大戦をリアルタイムで観測している。
大抵の人間は先の紛争を魔導有線で聞いていたはずだが、彼は『エンターテイナー』をトップとするマスメディア組織のサービスによって、映像で情報を入手することが出来た。その際に見た彼女は、まさしく剣の女神であった。戦闘状況の最終局面については、……レクス・ロー・コスモグラフがあの場にいる文字通りの全員をのしてしまったせいで、――というより、あの場にいる文字通りの全員が戦闘に参加してしまったらしいせいで確認できていない。が、エイル派の勝利で終結したというのは間違いないはずだ。
その証拠に、特級に喧嘩を売ったはずのエイルはこうも自由を謳歌しているし、逆に特級は、現在までになんの動きも見せていない。これもまた、彼女という冒険者が一流風情の枠には収まらない事の一側面だ。
彼女は、この世界で最も新しい有力者である。その性質こそ『特級に牙を剥いた劇物』ではあるが、それでも大いなる価値を持つ身柄であることは間違いない。実際、コールズの周りでも異邦者大戦直後から冒険者エイルと接触を試みたらしい連中は(直接接触をする人物への援助などの間接的なモノも含めて)幾らでもいた。そしてそれは、一つたりとも成功しなかったようだ。
理由としては、まず『冒険者という存在そのもの』の消息の掴めなさ。それに加えて、「エイル派」という組織が上下関係に希薄であること。……というよりは、少数尖鋭であること。そして、参加している他勢力がどれもこれも有力者であること。
ゆえに、そんな彼女と、かような縁を繋げたのは幸運というほかに無い。
これほど極上の縁なら、いかに劇薬的であったとしても最適に運用せねばならぬ。それが出来ぬ奴は三流以下であり、――それが出来るからこそ、コールズと言う男はここまでのし上がってきた。
彼がナッシュローリ中央区の有力者になることが出来た理由もまたここにある。彼は、立身という一つのテーマに今日まで粉骨砕身を楽しんできた。
時に水面下での政治を、時に遠征による未知の財宝の調達を、時に知らぬ街の地下市場への潜入を、時には他の何モノでもないようなただの善行を彼はして、そしてここまで来た。
だから、同じようにすれば良いだけのことだ。
その、はずだった。
「……、……」
エイリィン・トーラスライト。彼女は底抜けのバカである。
ただ、もっと質の悪いことに、彼女は基本間違ってはいないのだ。
そう言った複雑なストレスが、――冒険者コールズ・バインに、ある選択肢を強いたのであった。
/break..
「……コールズ・バインを、あなたはどうしたいのか、聞かせなさい」
「…………。おいおい、知らねぇでこの喧嘩に割ってきやがったのか!? 俺はソイツにデケェ借りがあんだ。返さねぇと夜も眠れねぇって具合のヤツがなァ?」
このやり取りに、戦闘参加者が三者三様の気付きを得る。
ただし、それらの考察はその時点で既に価値がない。
なぜなら、状況が変わったから。
燃え盛る悪魔の火尾が、――『雨』に煙り、揺れた。
「……あ? なんだ」
芯の無い言動ばかりを見せていた不詳の人物が、そこで素の声を出した。
ソレと共に背後を見ると、ただの雨によって、巨大な火尾が解けて消えていくのが見えた。
じゅわぁ……、とワザとらしい音。
膨大な水蒸気が立ちのぼり、冬の乾気を野暮ったい熱で満たす。
不詳の人物が、水蒸気で判然としない背後から視線を切って、視線をやや上に持ち上げた。
そこには、
――およそヒト文明の範囲内で見ることなどありえない様な、怪鳥がいた。
「……はぁ?」
呟いたのは不詳人物である。
彼の声に緊張感が欠けていたのは、……彼の上背の三倍の巨躯をした生物がいて、それでなお彼が間抜けな声を漏らしたことには、二つ理由があった。
一つは、彼自身の自負。どれだけ巨大なシルエットをした強者だろうが、彼がたかがポッと出などに負ける道理はない。
そしてもう一つが、――その猛禽の瞳に、敵対の意志を感じ取れなかったことだ。
その瞳の血のような悪意は、懐にいる彼ではなく、その彼の敵の方を見ていた。
「……あなたの何か、ですか?」
エイルの言葉に、不詳人物は曖昧な態度を取る。
――怪鳥がちっぽけなヒトどもに許した自由は、そこまでであった。
『■■■■■■■■■■――!!!』
金切声のような絶叫。それが『彼』の、戦線の布告であった。
一帯には幾層の悲鳴。一部の人間は自我を早々に取り戻し、自衛のための魔術を使用する。その光景を眺めながらエイルは、――思わざるを得ぬことを思う。
「(この街の人間は、……危ないかもな)」
戦闘の桁で言えば、こんな鳥風情が巻き散らす災禍などたかが知れている。どうあがいたって自分とこの不詳人物気取りが見せた一合の足元にも及ばない。それでも、この街の住民は今こそと声を上げたのだ。
これを平和ボケと言わずに何とする? 眉間に銃口を突き付けるまで危機感を形にしない連中を何と呼ぶ? エイルの感情は呆れたそれというよりも、率直なる驚愕だった。或いは、違和感とまで言っていい。
違和感。――そう、違和感だ。
だからエイルは、騎士であるにも関わらずその事実に気付けた。
平和ボケしているなんて言葉で、さっきまでのコトの説明は本当に全部つくか? 天を突くような炎柱が振り回されている現場だぞ? と。
銃口は眉間に無くとも、銃弾は抜き身で住民らの頭上を飛び交っていたのだ。それに対してここの住民らが行ったのは、――冷静なる距離の確保と静観だった。
騎士である者が、その事実に気付くのはとても難しい。
ヒトは、魔物が突然現れたなら、とかく悲鳴を上げるのだ。だからエイルには、この平和ボケの極地としか思えなかった現象の根源とその違和感が、魔物が顕れた瞬間よりも前にあったと気付けた。
「召喚生物:ファンファーレか。安心してくれ諸君。そして速やかに避難を。こいつの魔物としての性質は私が知っている」
「おう! 見えてない範囲にいるやつに朗報だ! ――俺はテンダー・バーストン! 隣にいるのはボストマン・ジャクスモンド・アドリア! アンタらが勝手に転ばない限り怪我なんてさせねぇから足元に気を付けて今日は帰ってくれよなァ!!」
住民は最初からちゃんと怯えてはいたのだ。或いは最初から今この瞬間まで一片たりとも怯えてなどいないとも言えるだろうか。
響いた、戦場中央から街の端まで届くような声。
それに対する群衆の返答は万雷の拍手や分厚い声援ではなく、誠実なる行動で以って為された。
一人一人が思考して退避をしている。ファンファーレと呼ばれた雨の巨鳥に躊躇なく背中を向けて、魔物の齎した天気雨を一身に浴びながら隣人の手を取っていた。脚が悪い様子を見せた者の肩を青年が叩き、婦女が励まし、見知らぬ仲同士のはずの彼らが見事な連携でその身体を支えて歩き始める。泣く子を商人が抱き寄せて、自分ではこの人込みから守り切れぬと巨躯の亜人に声をかける。亜人は、商人の力強い視線に同様のモノを返して、子供を抱いて退路を進む。それに気づいた一人が周囲に声をかけて、そこに子供を保護した亜人を通すための導線が一瞬で確保された。似たような行為がいくつも、いくつも、いくつもあった。それは退避でしかなくとも、彼らの瞳には意志がある。自分らの一挙手一投足が、そのままヒーローの助力になると信じて疑わぬ顔で、――つまりはヒーローのように覚悟を決めた横顔で、誰も彼もがこの戦場に『貢献』をしていた。
「……、……」
無論、この街には現在数多くの旅客が訪れていて、彼らの反応はごく一般的な狂騒であった。そしてそれを、この街の住民が優しく聡し、叱咤を飛ばし、時には頬を張ってでも退避させている。――そして、エイルが呆気に取られている短い時間で、彼女の神造の剣が悠々と振り回せるようなスペースが街の中心部にぽっかりと空いていた。
『■■■――――……。』
また、怪鳥も彼女と同様の困惑に襲われていたようだった。とはいえファンファーレのそれは、あまりにも整然と動く群衆に不用意に手を出す事への危機感も多分に含まれていた。
社会性を持つ生物種は、その性質ゆえに組織性を伴って群体で行動している瞬間が最も危険である、その事実はヒト当人らよりも、むしろその外側にいる生物の方が、その被害を被る側であるゆえに詳しい。
しかしながら、蓋を開ければ社会性動物らが行っていたのはただの避難である。
それに気付いたファンファーレは、その時点で威嚇行為を再開する。降りしきる雨越しに日差しは降り落ちて、真昼のプリズムが光質の煙となる。その中央で『彼』は、『彼』にしか不明の言語で雨に歌う。
――歌っている暇など、ないと気付けぬ。
「行くぜ、見てろよなマイスウィート!!!!」
怪鳥の囀る『雨の歌』には、何らかの魔術を乗せたらしい魔素の隆起があった。それに気づいたテンダーが、羽も使わず地べたにて隙を晒す『彼』に、――或いはテンダーがマイスウィートと呼ぶ何者かにも叫んで、それが詠唱となる。
ガソリンを燃やしたような爆発音。エイルと不詳人物の反応さえ今ばかりは置き去りにして、魔術的な火焔により加速飛翔したテンダーが怪鳥の頬を蹴り抜いた!
「アンタの召喚じゃねえってのはマジなんだよな兄さん!?」
「あ?」
「じゃあどうだ、仕切り直しってのは!? 素直に言うけど俺はアンタにゃ勝てねぇ! でもここで拘ったらすぐにとんでもねえ大事になるぞ! 脅しと取られても仕方ねえが、アンタのそのクールな目出し帽を剥がすくらいなら俺たちだって出来ねえことはねえんだぜ!」
「……、……」
怪鳥が悲鳴と共に、首を振ってテンダーの身体を打つ、――その間際、テンダーが身を翻して威力を相殺する。結果、テンダーの身体が空中でコマのように三回転し、その不可避の隙を怪鳥の両眼が見据えていた。
猛禽の獰猛な瞳。剣の切っ先のような嘴が、テンダーの無防備な身体に照準を定める。否。それらの予備動作は言語化できぬほどに高速で、既に攻撃は為されていた。それでも『彼』は、――テンダーと目が合ったと、そう感じた。
「ヒヤヒヤしたか俺の天使!? それはキミが、俺を愛してるって証拠なんだぜ!」
爆炎。滅茶苦茶にまとめた火薬の束が暴発したような火焔がテンダーと怪鳥の間で破裂する。
「兄ちゃん! このクソ鳥をよ、アンタの強さで気が焦った、俺かボストマンに用事があるバカの仕業だと考えたらどうだ!?」
「なんだ?」
爆炎で虚空を更に吹き飛びながら、ホームランの軌道上でテンダーは叫んでいた。
「アンタ、誰かに利用されちまったんだよ! 訳も知らねえようなクソッタレの第三者に! アンタがアイツに恨みがあってこんなことしてるんだろうがそうじゃないんだろうが、どっちにせよコトのコントロールはアンタの手を離れた! もうどうなるかアンタには分かんねえんじゃねえのか!?」
「……、……」
「ここいらが潮時だぜブラザー! よく分かんねえ状況なら引かねぇと痛い目見るんじゃねえか? それか、いっそ俺らに手を貸してくれたらそっちに手を貸してやってもいい!! 殺しが無しならよ、実は法律は俺の身内なんだ!」
火焔の余波が降りしきる雨に叩き落とされる。煙り一つなく視界が開けて、その最中にいる怪鳥の横顔に傷の類は見て取れない。……テンダーの使用した魔術効果はあくまでも緊急回避のための現象だが、それでもテンダーは一流の騎士である。牽制一つにも乗せる威力は致命を用意する。それが無傷で済んだなら、そこにはトリックがあって然る。
「ボストマン――ッ!!」
着地したテンダーが、着地地点傍らにいたボストマンに叫ぶ。呼ばれた彼は、了解の代わりに詠唱の一節を空に浮かべた。
「――『咆炎晄々』」
雨が蒸発し、その水蒸気で世界は白む。
その術式は、元来なら数千人の魔術師による多重詠唱、多重魔力供給による【世界承認】で以ってようやく成立する魔術である。そしてそれはボストマンにしても同様だ。この魔術は、彼一人の力で為せるものではない。
正しく成立したこの魔術は、星を穿つ炎弾となる。火焔の生命がその身を賭した咆哮。叫びは晄々と焔を為し、その覚悟に世界の方が膝を折る。
――世界に記録された最高熱温の更新。この術式は『星を割るような火焔』を生み出すための副次的な要素として、世界の記録を更新する。ゆえにこの魔術は、術者一人が紡いだ程度で為せるものではなく、仮に為せるなら、その成立を禁忌目録が阻む。
しかしながら、その一部分を再現できずとも接近する程度なら、ボストマンという術者には可能だ。
本来の性能は捨てて、一定範囲へコンマ1秒ごとに80度の加熱を最大2分間与え続ける魔術。ボストマンの使用する『咆炎晄々』は、実質的には以上の現象を為す魔術である。
……それを彼は、此度は一秒使用した。これにより彼の設定した魔術効果範囲、この戦闘域の直上60メートルは一秒間で800度の灼熱に見舞われ、その影響は爆発じみた水蒸気の発生として地表へと到達する。冬の昼間の空気を割る熱風が街中に降りて、怪鳥が齎した『雨』をその名残ごと蒸発させる。
『――■■■』
怪鳥が何やら囀るのが聞こえた。
先ほどは、この音と共に『雨』が降り出したはずだ。しかし、今回はそうはならない。なにせ、この街の上空はまだ地獄のような余熱に炙られているのだ。魔術的に発生した『雨』は、同じ魔術を混泉に持つ魔力熱によって発生した端から蒸気に昇華する。――空には今、ちっぽけな白雲が一つと、水蒸気の破裂によって空気中の塵が一掃された洗い立ての青色があるばかり。
『――――。』
そこで怪鳥は、囀るのを諦めた。
女性の絶叫のような歌が唐突に止んで、残るは静寂。
これならば、声をそう張る必要もない、と、
ボストマンが、この均衡を壊さぬ程度の声量で、気軽に言った。
「そこの不審者」
「………………あ、俺か? お、……オイオイオイオイ誰が不審者だ俺は正当な理由で以ってコールズを殺しに来たんだよマジ死刑だコラ」
少し遅れて不詳の人物がそう答えた。
ただしボストマンは、その内容には取り合わず、
「――言い値を払うって言ったら、お前何までならする?」
「……靴を舐める直前まで行くって言ったら幾ら出せる?」
不詳人物の言葉に、ボストマンは先ほどと同様に沈黙を返す。
ただし、同質ではない。ボストマンは返答の代わりに、――彼の巌じみた顔からは想像もできないほどに多分なユーモアを含んだ笑みを向ける。
対して不詳人物は(目出し帽のせいでほとんど判然とはしないものの)おおよそ同質の笑みを、ボストマンに返した。
/break..
――さて、
彼らが相対す敵は、名をファンファーレという。
召喚生物と称される生物群の一種であり、ヒトと契約をしたかヒトに作られたかに大別されるこの種の前者。高い知恵と魔力を身に宿し過ぎたゆえに彼らという種は、種を存続させうるだけの量の『次世代』を遺すことが出来なかった。生物とは、長命であるだけ残す次世代の数が減っていき、また多くの次世代を遺すためには、個々の性能を下げる必要がある。種を遺すという概念には、そう言ったリソースの反比例のようなモノが存在する。
そして、その『種の設計』を間違えたのがファンファーレ種である。完成しきった彼らは子を為す機能が薄弱となり、そして彼らは絶滅の前に不老不死へと到達することがかなわなかった。ゆえに彼らは、召喚生物として外部に、……ヒトの魔術に不死を求めた。
その結果、ファンファーレは詠唱として生存し続ける不死の存在となる。ならば彼らは、不死へと自ら到達できなかった弱者だろうか? 否。そんなわけがない。彼らは世界のルールを紐解いて不死へと到達した、生存戦略の覇者の一種だ。
彼らは、その歌で雨を呼ぶ。種を遺せなくなるほどの圧倒的なる雨を。ただしそれは、苛烈なる洪水ではなく、嗜虐に満ちた酸性でもなく、むしろ天気雨のように透明だ。そして、彼らはその雨の内側にいる間、雨の世界に愛される。
彼らの魔術は尽くが成立し、彼らを害する魔術は雨に嫌われて、形を為せなくなる。この世界の生物の分析が一歩進めば、ヒトは『魔物と天候の共生関係』にいずれ行きつくことになる。彼らは雨を愛していて、雨もまた、彼らを愛しているのだと証明される。
さてと、……以上が召喚生物ファンファーレの概略である。
雨を晴らせぬものにファンファーレは倒せない。そして、この場には雨を晴らせるものが既に二人いる。
『剣聖の冒険者』エイリィン・トーラスライトと、それに最低でも比肩する不詳の冒険者。
さらには、この街の守護者がもう二人。その生物的性能こそ前者二名に劣るとはいえ、ボルトマンは最高級位の火焔を単体で一部再現する術者であり、テンダーはそのボストマンが防衛力として信頼を置く人物だ。これだけの戦力があって、雨に愛された不死の鳥類風情が勝てる道理などあるはずもない。
――ただし、今回の話で言えば、事情は少し込み入る結果になった。
「…………。」
ナッシュローリ領館の、最高品質の応接室にて。
その人物、――テレスティア・フォン・ローゼンバッカードは、その美貌を窓に向けて、外の景色を眺めていた。
彼女が約束を取り付けたのは今より40秒後の時間なのだが、扉の向こうに人の気配はない。
扉の先にあるのは、長く、直線の廊下だ。気配にせよ足音にせよ、それがあるなら見落とす彼女ではない。ならば、この時点で約束の人物は、少なくとも全力ダッシュしなければ時間に間に合うことはないだろう。
……彼女が、扉元に立つ職員に視線を向ける。
その瞳に、職員の女性は何を感じ取ったのだろうか。萎縮しながら、恍惚としながら、憧れながら畏怖をしたように、不明の感情を持って身体を震わせていた。
「早く、着き過ぎたかしら」
「い、いいえ滅相もありません! も、申し訳ありません!」
風で鳴った鈴のような言葉に、舌の根の震えた悲鳴が返る。……平素のテレスティアならば、この場で態度に苛立ちを多少でもにじませるような真似はしない。しかしながら、今の彼女には少しばかり事情がある。ゆえに感情を計算で対消滅することには失敗をして、先の言葉にはほんの少し皮肉気なニュアンスがあった。
とはいえ、ヒトを震え上がらせるような質のモノではない。女性職員が感じるそれは、女神のごとき美貌を持つ女性に対して迷惑をかけてしまったらしいという自負による、惧れであった。
さて、約束の時間まではあと12秒。
――そこで、気配を探らずとも分かる派手な足音が、扉の向こうから聞こえた。
「――待たせてしまったかな、テレスティア・フォン・ローゼンバッカード殿」
「いいえ。先ほど来たこところですの」
慌ただしく扉を開けたら闖入者、ないしこの領館の主二名。
領主ボストマン・ジャクスモンド・アドリアと騎士長テンダー・バーストンは、礼もそこそこにテレスティアの対面に腰を落とす。
「……、……」
「どうなさいましたかな? いえ、少々慌ただしくなってしまいましたな。謝罪いたします。 ……キミ、私とテンダーには冷たい飲み物を頼む」
「え、あ、は、はい……っ?」
「今、彼女がおかわりを用意してくれるでしょう。握手は省略いたします、改めて、私がボストマンです。こちらはテンダー・バーストン。ご存じのお顔でしょう。本日は彼が同席いたします」
「貴方……」
「ええ。どうなさいました?」
「……泥遊びでもしてきましたの?」
「コレは失敬。当方の格好は自覚があります」
「だから言ったんだ、せめてコロンはつけておくべきだって……」
女性職員が急ぎ用意したお茶とタオル。二人がそれで顔を拭うと、一発で使い物にならないレベルの汚れが付着する。
……まずの問題は、ファンファーレが雨を齎す存在であることだった。この時点で二人の衣服はヒトに会えるレベルではなくなっていて、先の戦闘ではさらに問題が一つ。
「何がありましたの? 日を、改めるべきでしょうか……?」
「ご不快な思いをさせてしまっては申し訳ない。ですが可及とおっしゃるのでしたら、どうかご容赦を。それと、何があったのかという問いについては……」
ボストマンが、テンダーに視線を投げる。それに彼は意を返して、
「テレスティアさん。ファンファーレってご存じ?」
「ええ。……高等召喚術式の契約種目録にある一種ですね。雨を齎す歌を歌う美しい鳥。まさか、ソレと交戦でも?」
「そのまさか。ついでにそいつが、彼氏まで連れてきやがった、……んですよ」
「??? ……つがい、ということでしょうか?」
「いや。……なんでしょうね。ここからじゃ見えませんでした? 雨雲落ちてきてたと思うんすけど」
「??????」
「……よければ、テレスティア殿」
と、ボストマン。
彼は、――桁違いの抗戦を経たそのままの勢いで以って、三者の中央にある卓上に、今会合の本題を抜き身でぶちまける。
「私どもは、このように、日夜領民の安全のために文字通り泥だらけになって働いているのだとご解釈いただきたい。服の汚れは私からすれば勲章で、私たちがしてきたのは、不躾ながら何よりも優先すべき行為でした。――それで、本日はどのような用件で?」
「……、……」
そう言い切って、ボストマンは卓上の冷えたお茶を一息に飲み干した。




