(roots.)
※幕間の更新です。
そこまで多くはありませんが、完結までは毎日更新したい予定です。
なお、今回の更新分は一部過激な表現があります。閲覧注意です。
もしも気分が悪くなった場合には、無理せず飛ばし読みしていただければ幸いです。
――その少女の名は、コートニー・ミシエルと言う。
ナッシュローリ市街でパン屋を営む家庭の一人娘。歳はその時点で13。将来を有望視される容姿と、愛嬌と、両親の教育の賜物というほかに無い優しさを備えた彼女は、少女として当たり前に受けるべき庇護と愛を、その街と住まう人々から与えられて育ってきた。
街の偶像というほどのモノではない。彼女は、普通の暮らしを、普通に幸せに過ごす普通の少女だ。
ただし、誰だって秘密を一つは抱えているモノ。
彼女には一人、内緒の友人がいる。
「こんにちは、×××!」
少女が溌溂と言うのは、この街の『表側』と『裏側』を隔てた境界線の一か所。
少女の来た道には綺麗な街並みがあり、少女の行く先をもう少しでも深く潜れば、探さずとも娼婦が路地裏で喘いでいるような、そんなボーダーラインの際にある街角だ。
春の朝。今朝の日差しは調子が良い。
日差しが天頂に至るころには上着を脱ぐのも視野に入るような、そんな素敵な一日の、そのはじまり。
その少年は、根が張りそうなほど深く背をもたれた壁から身体を引きはがして、彼女の挨拶に答えた。
……彼との付き合いを秘密にしているのには理由がある。
彼は、この街の裏側の人間だ。少女が彼と初めて会ったのは、しばらく前。彼がこの近くで行き倒れているのを見つけた時である。
彼女は、彼にパンを譲った。それを彼は、三日ぶりに食う飯のように、丸呑みする勢いで貪っていた。それを見た時点でコートニーは、彼の素性を子供ながらに理解した。
その場では、彼とのやり取りはそれだけだ。彼は曖昧な礼だけ言って、狼のようにその場を後にする。彼女は茫然とその場に取り残され、……自失から取り戻し、奔って家に帰る。
恐怖を覚えての逃走。或いは、施しに対する礼が不足していたことへの子供ながらの憤り。そんなものは全く存在しなかった。彼女の未熟な思考能力では、このキャパシティーを大きく超えた事件に対して一つの思考を用意するので精いっぱいだったのだ。
つまりは、――助けが必要な人がいる。それを、自分一人では叶えられない。
だから彼女は両親に縋ることにした。
家に帰ると、暴漢にでも襲われたような必死さで縋りついてくる少女に、両親は大いに困惑する。事情を聞くと、次に見せたのは苦虫を噛み潰したような表情だ。
……童女から少女へ変わる岐路の頃にあった彼女は、その日初めて、反抗期じみた抵抗を両親に行うことになる。
両親の表情を見て、助けてはくれぬのだと気付いた彼女は、その怒りに任せて、店で一番高いパンを二つ掴んで店を出た。両親はこの状況に茫然としていて、……ようやく娘の名を呼んだ頃にはもう、彼女は、追いつけそうにない所まで逃避行を達成していた。
彼女には、13歳程度として妥当な自我と思考能力は備わっている。ゆえに彼女にはどうしてよいかが不明だった。社会は彼女の身長よりずっと高い位置で、彼女が如何に手を伸ばそうと決して触れられぬ場所にて成立している。子供の自分に不可能な事の全ては、大人には可能だ。大人は全て聖人君主であり、またそれを目指すべきであり、心の弱さが認められるときにはそれを切除し続けて生きている。大人は、完璧な存在だ。翻って自分は、こんなにも未熟だ。
――だから助けてほしいのに、この件についての救いは与えられないらしい。
少女が、少女の価値観で理解できたのはそこまでであり、そのあとにどうすればよいかは不明だった。その時点で子供の思考能力はパンクを起こしていた。
かくして少女は、そのパンを持ってこの街の裏側へと舞い戻る。
子供には理解出来ぬ嬌声に眩暈を覚えながら、身を切るような大人の男の視線一つに足を震わせながら走る。そして彼女は、……どれくらい走っただろうか。あの少年をついに見つけるに至る。
いや、
――正確に言えば彼女は、あの少年に見つけられたのだろう。
無防備に走る少女の背中。そのすぐ近くまで『この街の悪意』は迫っていた。
それは目視できる誰かの毒手ではなく、もっと曖昧で嗜虐的な何かだ。あの少女は、そう遠くないうちに誰かの餌食になる、と。そういった「予感」がふつふつと沸き上がり、それが沸騰し、ナニカから一滴零れ落ちた瞬間に実際にそうなる。
それを少女は、誰よりも理解していた。時間経過によるものではない何らかのリミットが自分のうなじのすぐそこまで迫っていると。既に正義観や義憤は塗りつぶされていて、彼女の足は何かを追いかけるためではなく、何かから逃げるために必死に動いていた。
悪意。悪意。嗜虐。彼女が見知らず、大人によって遠ざけられてきたものすべて。
それが、あふれだす直前に――
「――何してんだ。きみ」
彼は、――ケモノの王子様のように、乱暴に彼女の手を引いた。
それが、コートニー・ミシエルと少年との初めての出会い。
それから半年程度の時間をゆっくりと使って、彼らは友人としての関係性を深めた。
……最初にはあんなにも大人っぽく見えた彼は、今ではすっかり少女の弟分で、今朝も「カッコつけた子犬」みたいに少女をあの場所で待っている。
だけど、たった一つ。
その少年は、コートニーに救い上げてもらうことだけは良しとしなかった。彼はあくまで、救われるのではなく笑い合える友人としての距離感を少女に求めた。少女はそれを、利益度外視の男の矜持であると理解しながらも受け入れた。
馬鹿なことだとは、素直に思っている。助けてもらえる目があれば助けてもらったらいいのに、とは。
言葉に出したことも一度や二度ではない。彼が怪我を負っているのを見るたび、いつもより一段酷いぼろ布を纏っているのが我慢ならなくなるたび、死人のような血色で落ち窪んだ眼孔に気付くたびに彼女は本気の説得を彼に行って、それを彼は曖昧に笑って拒絶する。
やはり、彼の印象は少女の中で激変していた。
最初は乱暴で粗雑だけどクールで強くてカッコいい年上のお兄さんだと思っていて、それら全ては今日までに丸ごと反転している。そもそも彼は年下だし、繊細で弱くて臆病だけど、とても優しい。そんな彼だからこそ少女は気付く。あの初めての日に見せた暴力的な表情は、本気で焦って本気で自分を助けようとしてくれたからこその顔だったのだ、と。
少女にとって、ゆえに彼は最高の恩人だ。そして、それは少年にしてもそうだ。
日々食いつなぎ、少女の前でカッコつけていられるのは、少女がパンを恵んでくれて、話をしてくれて、自分を認めてくれるからだ。これが無かったら彼は、即座に獣に落ちていた。
……それを、二人は曖昧に理解しつつも言葉にはせず、友人としてのやり取りを今日も行う。
まずは挨拶を。そして、もっと閑静で視界が開けたところに行って、話をしよう。取り止めは無くていい。思いついたものを、思いついた端から。それに飽きたら、次は遊びをしよう。子供の技術で作った釣り竿で、クジラを釣るために糸を垂らそう。釣れなくても良い。釣れるかもしれないと思うだけで、一日が足りなくなるほど楽しくなるのは分かり切ってる。
そういうことを、今日もしよう、と二人は思う。
いつもと変わらぬ最高の日に、今日もなると信じている。
……ただしそれは勘違いで、少女はその日の帰りに腹を刺されたまま強姦され、延命魔術により三日間瀕死の状態で馬車で連れまわされ、人間で可能なありとあらゆる娯楽に使用されて死亡し、海に捨てられることになる。




