A_Scene Of The Most Amazing In Paradise.)
(tale.)
「……、……」
彼、アダム・メルストーリアは、ヘッドセットモニターを外して溜息をついた。
場所は、メル王城のとある一室。
天日干しによって自然由来の殺菌処理を行った純白のシーツと、消毒液の匂い。
窓から降りる日差しは天頂の白色。それが、綺麗にされた室内と、アダムの肌をからりと温める。
それら、牧歌的なる光景が、
……真上から塗りつぶされるような、旺盛なる血液の匂い。
『戦闘終了を確認しました。また、甚大なる損傷を理由に魔道具、遠隔骨格の転送を行いました。以降は、カズミハルのモニタリングは出来ません』
「そう、……か」
呟いた彼の身体からは、今もドロドロと血がこぼれ続けている。
ただし、その血は先の戦闘による負傷の傷ではなく、それを治すための瀉血である。
「……このモニターを、クリーニングしておいてくれ。ひどい匂いだ……」
『了解しました』
パーソナリティの超火力による炎傷。
あの一撃は、アダムの知る単純最高火力の術式を6つ束ねてさえ相殺に持ち込むのがやっとだった。
そして、相殺した結果の余波でこれだ。
アダムは今、魔術的手段によって代謝を桁が一つ違うところまで活発化させて、迫る死からの逃走を行っている。代謝回復が間に合わず、死に追いつかれることがあれば、その時がアダムの死だ。
故に、彼が意識を保っているということはその時点であり得ない悪手だし、そもそも不可能な事でもあった。
それでも、エナジードリンクを濃縮したような劇物を静脈注射するような無茶で以って馳せ参じた異世界の戦場は、
……さて、思い返してみれば、痛み分けが関の山と言ったところだろうか。
『血液の補填を行います。また、血中の覚醒成分の中和排出を行います。通告。このシークエンスは、あなたの内臓器官に多大なる負荷を掛けますが、現在並行中のシークエンス、人為自然治癒療法は現在98%を外部機器、仮想臓器に依存しています』
「……そう、か」
『ですので、あなたがこれから感じることになるであろう、内臓を直接揉みこまれるような不快感には、この場での生存に対する直接的な悪影響はありません。強い吐き気を覚える可能性がありますが、現在あなたの胃には有効薬液が注入されています。嘔吐はしないようにお願いします』
「…………ヘ、ヘカトンケイル?」
『気絶した場合、無意識での嘔吐が発生する可能性があります。意識を保ち続けるよう、要請いたします』
「…………。」
『嫌気がさしそうなら、今後は、こんな無茶な真似はよしてください。――シークエンス開始まで、3,2,1,……開始』
「――――ぅおェッ!!!」
身体中の腱が灼き切れていたはずのアダムが、猛烈なる不快感に身体をくの字に折り曲げた。そうして動くたび、彼の身体がばしゅりと音を鳴らして、シーツが血を飲み、どくどくと溢れる。
『弛緩剤を追加投与。完了しました。』
「あ、 ぉ ぉ ぉ ぉぉ …… ッ !」
身体が裂ける激痛、身体が癒えるかゆみ、内臓を雑巾絞りにする不快感。そして、それらに指一本分も拘泥が出来ないほどに弛緩した身体。
一瞬でも睡魔に身をゆだねれば、彼はきっとそのまま泥の底まで墜落していったに違いない。
そんな彼は、……王道ではあるが、眠気への抵抗に、他者との対話を選んだようだ。
「……俺の、 街は、 ……どうなってる、ヘカトンケイル?」
『ジャンヌダルクの鎮静化を確認。王都全域の損傷率は25%。中心部から外円部に向かってグラデーションを描くような損傷状況です。最外端部から内円へ5キロまでの損傷レベルは0%。また、死者は0人。重軽傷者は報告待ちとなります』
「そんなもので、済んだのか……?」
『エイリィン・トーラスライト氏に連なる勢力が適切な対処を行った模様です。具体的な戦闘状況を参照しますか?』
「……掻い摘まんでくれ。仔細話されたら、そのうちに寝落ちしそうだ」
『了解。……エイリィン・トーラスライト氏に連なる勢力が、領域個体ジャンヌダルク氏との戦闘を、戦闘開始30秒時点で放棄。レオリア・トーラスライト氏の術式、シルエットファングで召喚した幻性使い魔種を主体とした避難誘導に全てのリソースを注いだ模様です。避難開始から完了までは2時間程度でした』
「……戦時下とはいえ、王都に何万人いると思ってる。それを二時間か?」
『ええ。避難誘導とは名ばかりの「狼による誘拐」が発生していた模様です。また、ジャンヌの性質上、逃げる背中と積極的に撃つことはあり得ません』
「……してやられたな。試しに聞くが、これによって『エイル派』に傾いた世界のパワーバランスを、おおよそ値で出せるか?」
『申し訳ありませんが、難しいです。世界の変遷は、これを以って開始されたものですので』
「なるようになった後でしか、分からないか。……バハムートはどうだ?」
『現在もレクス・ロー・コスモグラフ氏と交戦中です』
「そうか。……なら、ほかの特級……、アイツらは、何をしている? カズミハルによる宣戦布告時点で、アイツらも戦ってたんだろう?」
『全て、戦闘を終了している模様です。また、それぞれの陣営において多大なる変化があった模様。報告を後にまとめます』
「……痛い目にあったやつは、 いなかったか ……?」
『ええ。全員無事です』
「そうか」
『……、……』
「じゃあ、」
『……アダム?』
「カズミハルは、 どうしているかな……?」
『現在、モニタリングが不可能な状況です』
「そう、 だったな 」
『……、……』
「……、」
『……、……』
「……」
『……アダム』
「、 なん だ 」
『現時点を以って、胃に注入した薬液が十分に使用されました。また、拒否反応も安全圏まで鈍化したのを確認しました』
「……、そう か 」
『ですので、もうお休みになっても構いません。起きたころにはもう、身体が痛むことはないはずです』
「……、ああ、 そうか。 わかった ……少し休む」
『ええ。……おやすみなさい、アダム』
その言葉を区切りとして、その、『血の存在感』を除けば至極牧歌的な部屋に、静謐が降りる。
埃一つない部屋の、透明な光の階梯。窓の一つはアダム眠るベッドのちょうど真上にあって、日差しが、彼の顔だけを避けるようにして身体全体に降り注いでいる。
呼吸は静かで、眉間のしわが、少しずつ解れていく様子が分かる。そうして幾ばく、アダムはいよいよ全身を弛緩しきって、泥のようにシーツに埋もれ始める。
相当疲れていたのだろう。身体の輪郭が溶け出して、そのままスライムにでもなってしまいそうな勢いである。
「……久しぶり、ヘカトンケイル」
『……、……』
「清浄化の魔術を使いたいんだけど、良い? 水属性の、一般的な第一層級のものよ」
『構いません。それであれば、現在アダムに使用中の治癒魔術に競合はしないでしょう』
ただし、とヘカトンケイルは言う。
『丁寧に。アダムは今、身体中が出来立てのかさぶたに覆われたような状態です』
「解ってるわよ。……起動:バブルス+1」
彼女らしい小言に辟易としつつ、私は術式を展開する。
その術式は、任意の溶解物を含んだ液体をサイコキネシスみたいな力場で操るモノだが、今回は、何分彼の身体中が出来立てのかさぶたみたいなものらしい。なので溶解物操作の代わりに液体密度を操作して、きめの細かいミストを作り出す。
そして、その力場を操作して、丁寧に彼の脂汗とこびりついた血を拭う。
力場操作の感触が、時折ジュクジュクとした生傷の手触りを私の手のひらに返す。そこは特に、細心の注意を払って。
理論最小子まで細分化した机上物質のミストなので痛覚を刺激したりはしないだろうが、それでも、万が一ということはある。
「……窓を開けてもいいかしら? 彼の寝汗でひどい湿気よ」
『その場合は、無菌化の結界をお願いします』
「ついでに、日差しも遮ろうか? こんなにまぶしいんじゃ、アダムも寝づらいんじゃない」
『それは遠慮ください。使用中の魔術に、彼の生命継続を太陽の寿命に同期して維持するものがあります』
「そうなんだ、それで……。夕方に間に合わなそうなら言ってね。何日でも夜をスキップするから」
『心配には及びません。ですが、必要があれば通知いたします』
「ええ。……起動:ハウトゥニア+1」
術式の成立と共に、室内に一瞬だけドクダミの花の香り。私は好きだけど、たいていの人は苦手なにおいである。故に術式には、香りの消失を意味づけする。
そして、窓を開ける。
……とはいえ、一つ窓を開けただけでは風の逃げ場がない。風は、透るのではなく揺れ動くようにして、ゆっくりと、少しずつこの部屋の空気と入れ替わっていく。
なにせ、季節はもうすっかり秋だ。昼ごはんの時間を幾分か過ぎただけでも、日差しはほんのりとセピア色がにじんでくる時期。
この時期の冷たい風は、今のアダムには堪えるだろう。この程度のそよ風なら、日差しの温かさの方がまだずっと強い。
「あ、そうだ。私の方で記録したこれまでのことを、共有しておこう、ヘカトンケイル」
『ええ。……先に確認しますが、あなたの記録はどこから始まりますか?』
「最後の共有から、ウォルガン・アキンソン部隊の復活とパーソナリティの敗北までは、悪魔ちゃんの視点共有で記録のアップロードが出来ているよね? それ以降はどう?」
『私の最終ログは、パーソナリティが鹿住ハルさまに敗北した直後の、悪魔個体が鹿住ハルさまに何らかのスキルを使われた時点までです』
「そっか。……じゃあ、大体この紛争回りの共有だけだね」
魔術的な手段で思考をアップロードしてもよかったけど、せっかく久しぶりに彼女と話すのだ。
私は、これまでのことを敢えて、口頭で彼女に話して聞かせることにした。
「……それでね、鹿住ハルはそこで、本気の政治交渉で800人もの、しかもこの戦争の最有力層の抱き込みに成功したらしいのよね。見てた当時も思ったけど、本当にアイツ、どうやってケツを拭くつもりなんだか――」
『……■■■さま』
「ん?」
『……三時間たっております。まだ続きますか?』
「……、……ごめん」
見れば確かに、はっきりと日差しの角度が変わっていた。
だって、仕方ないだろう? こっちは久しぶりに彼女と話すのだ。気持ちが舞い上がって当然だろう。
「……じゃあ、残りはアップロードで。と言っても、ここからはそんなに長くないけど」
『……ありがたいことです』
さて、閑話休題。
私の目的の達成度は、これでもまだ半分だ。三時間たったぞとAIにさえ辟易とされたみたいだし、ここからはパパっと済ませよう。
「お見舞いは完了。ログのアップロードも、……済んだね。じゃあ、次の用事」
『……ま、まだあるのですか?』
「そんなこといわないでよ……。アダムに、いつも通りそれとない伝言を伝えておいてほしいだけだから」
『……、……』
言うと、彼女は神妙っぽい沈黙を置いた。
それも仕方あるまい、こういう仕事は、AIに任せるには人間味がありすぎる。
つまりは、伝言した人物個人を悟らせず、伝言した人物の存在さえ悟らせず、そもそもそれが伝言であるとも悟らせないように伝える伝言だ。こんなものは、人間の私にだって難しい。
「一つが、ニライカナイ提言の開始」
『了解しました』
「あと、……ついでだからもう二つ」
『はい』
「私が貸した方のモニターはまだ生きてるよね? 鹿住ハルはどうしてる?」
『……。』
私の問いに答える代わりに、彼女は映像を出力する。
……アダムの安眠を邪魔しない配慮らしいが、ご丁寧にミュートかつ字幕付きだ。だけど、これを見せられたら字幕なんて必要ない。なにせ、一目で何が起きたかが明白なのだ。
「この伝言は、あなたが不要だと感じたなら伝える必要はないんだけど、一応。『異世界で戦ったのは悪手だった』とよろしく」
『了解しました』
あの人のことである。きっと、
――十中八九、アダムが異世界への放逐なんていうどうしようもない必殺技を使ったくせに、そのあとわざわざ追いかけてきて手づからハルを葬ろうとしたという違和感一つで、アダムの失策と、今の状況への活路に気づいたはずだ。
それと、伝言はもう一つ。
「……これは、まずはあなた向けの言葉だけど、鹿住ハルの散歩スキルを無力化する作戦は、私にすべて共有して。それでアダムには、鹿住ハルの無敵は間違っても剥がさないように伝えてほしい」
『どのように伝えましょう? 理由が必要です』
「それは、……難しいんだけど」
私は、少し考えて、
「鹿住ハルは、無敵だからこそ手が付けられる程度の難敵なんだよ」
『それは、どういう……?』
「死ぬかもしれないなら必死になるでしょ? あの人の本当にすごい所は、必死になった時なの。すごいというか、なんといえばいいかなぁ。……とにかく、私もそんなところ見たくないし、鹿住ハルの無敵を剥がしたらあの人自身もとんでもないよ。今のまま、舐めプしてもらい続けないと」
だから、今回も彼を騙せたんだ、と私は言う。
「アダムがリモコン操作の機械甲冑を使っていたことも、ただの、何のスキルもないブラフの拳銃をあの人が警戒していたことも、全部そのおかげなのよ。特に後者は戦闘状況に直結したブラフだったし、あの人にバレたらたぶん、『馬鹿にされた』って怒らせちゃって、必死の片鱗を見せられてたかもしれないわよ」
『参考までに、それは、どのような?』
「……人殺しが選択肢に入る、とかかな? たぶんだけど」
そうでなくても、少なくとも今よりずっと凄絶になる。
彼が悪役だったのは、彼が、倫理観の解除も含めたうえでそれ以外の全ても含めて、誰よりも取れる選択肢が多かったからだ。
正義のヒーローは人を助けるしかないけど、悪役は人を助けても傷つけてもいい。出来ないことが減れば減るほど、人は悪と呼ばれる。だから彼は、あの世界における『最悪』だったのだ。
『……、……』
「じゃあ、伝言はこのくらいで。……名残惜しいけど、次が最後の用事」
そう言いつつ、私はアダムのベッドの縁に座った。
ぽふり、と柔らかい感触。それから、私の腰のあたりには、彼が発する熱が届く。
湿気るほどの寝汗をかいて当然といった体温である。ファンヒーターみたいになって、彼は今、頑張って自分の身体を治しているところなのだ。
私は、
彼の顔に伝う汗が、首筋に落ちる前に拭ってあげて、
「――王城術式を使いたいの。音階詠唱は煩くなっちゃうから、詠唱は私がやるわ。場所だけ貸してほしい」
『……了解しました』
/break..
といった経緯で私が貸し与えられたのは、王城ロビー前の庭園一帯である。
……考えてみれば、アダムが搬送されたあの部屋が仔細無事だったのは奇跡というほかにない。
家屋に剣を差す行為は、ケーキにナイフを入れるそれとは一線を画す。
ケーキなら、上手に切れなくても断面が整わなくなるので関の山だろう。しかし家屋は違う。屋台骨を断ち切れば、そこを起点に全域の崩壊を起こす。
そして、この王城にはその後者が起きていた。
全壊。
王城地下の地下空洞が露出するほどの、徹底的なる致命傷。この様を、上空5000メートルから俯瞰したとすれば、この街はきっと、心臓部に穴をあけた死体に見えたはずだ。
だけど、蟻の視点であれば、そんなことは分からない。
天頂にありながらセピアを帯びた日差し。秋の静けさ。瓦礫の香り。
そう言ったものが一身に集まるのが、この場所である。つまりは、王城入り口の直前の、屋内と屋外を隔つ蝶番の傍ら。
私の後方には、人気を失くして影にまみれたエントランス・ロビー。
そして私の目前には、人が往来すべき、見事なる街道。この城のエントランスは、この街の街道と直通なのだ。……そして、私の前も後ろも、今は見る影もなくズタボロである。
音階詠唱を使ったらアダムの目を覚ます、なんて配慮は、どうやら必要なかったらしい。
この様子では、そもそも使えるものでもないだろう。私は階下へ歩み行く。
「絶望の終わり。希望的観測の終結。」
今から使う術式は、元来なら、ほんの四節で成立するようなモノではない。
……光が降る崩落の庭園にて。
私はそんなことを、起承転結のスタートラインを、まずは思う。
この術式は、偉大なる大魔術らしい。
そも魔術とは、ラプラスなき世界の、非確定の世界における可能性の拡張だ。そして、その証明でもある。
非確定の世界、量子力学的にスタートの時点でゴールが確定しない世界。想像の余地のある世界においてのみ、魔術、魔道は成立する。例として言えば、ボールを投げた時のことを創造すると良い。
ボールを投げたとすれば、その次にはどうなる?
答えは、ボールが落ちる。これが、この世界においては【ラプラスの魔法】と呼ばれる始祖魔術の一つである。じゃあ、力強くボールを投げたとすればどうだ? そして、それを気軽にボールを放り投げた時と比較しよう。
前者の世界では、ボールは遠くに落ちる。そして後者の世界でボールは、比較してより近くに落ちる。
なら、ボールをもっと力強く投げたのなら? ボールを何かの的に向かって投げたのなら? ボールが、同時に二つ投げられていたとすれば? ボールが当たった的が、転がっていくとすれば?
これらは全て、前提条件が確定している時点で答えも確定する。1+1が2になるように、力強く投げたボールはもっと遠くに落ちて、的に投げたボールは的に衝突して、ボールを二つ投げたなら落ちるボールは二つになって、ボールをぶつけた的が転がっていくとすればその的はやがて止まるだろう。
これを、もっともっともっと複雑にすれば、いずれは全てが分かることにはならないだろうか? 世界創世の始祖の爆発をシチュエーションとして算出しきれるなら、投げたボールが落ちるのが当然のように、当然の帰結を計算できないだろうか? これが、【ラプラスの魔法】である。
そして、或る世界ではその答えを、ヒト種が解剖するには計算式が膨大過ぎるとして、実質的に答えをないものとした。観測できぬものは存在しないのと同様だ。宇宙の九割を満たすダークマターは「観測できない領域が存在することが観測できる」ゆえに存在を立証されたが、そもそも計算が成り立たないのであれば存在の立証の手前で行き止まりだ。【ラプラスの魔法】は、「観測できない領域が存在することが観測できる」と言える計算結果を、種族寿命という手段で以ってヒトから隔離した。故にヒト種は、そもそもこの計算式が成立するのかしないのかからして確認できないのだ。その、思考的な限界速度を用意するために、神様はこの世界に「光」という速度上昇の限界を作ったらしい。
さて、
そして、この世界には【ラプラス】はいない。
考えてみれば、それは不思議なことだ。ラプラスがいようがいまいが、最初にボールが投げられた時の条件は確定しているはずだ。どれくらいの強さで投げたのか、何に向かって投げたのか、それは何に当たったのか。それら全ては確定しているはずだ。それでも、この世界は【可能性領域】を許容するという。
それは、おかしい話である。そもそもこの世界においてパラレルワールドなんてものは成立しない御伽噺なのだ。だって、現実は一つなのだから。
パラレルワールドを夢想できる知的生命体がいるとすれば、その存在は「可能性の線」を認識していることになる。今朝の朝食を、ご飯ではなくパンとした世界を想像しているとこになる。そんなことが出来るのは、すでに今朝の朝食を済ませた昼間の知的生命体だけだ。なにせ、選択肢は選ばれ終わって初めて、「選ばれなかったイフ」が生まれるものなのだから。
例えば、誰かがタイムリープをしているとしよう。
そしてその人物は、タイムリープごとに記憶を喪失する。とすれば、一度目の世界と二度目の世界で、選ぶ選択肢が変わるはずはないだろう。だって、環境が変わらないのだから。
同じ轍を踏むようにして、その人物は何度だって同じ選択肢を選ぶ。
全ての知的生命体は余すことなく『地域文化と個人的歴史』という既定事実に洗脳されているのだ。ヒトを殺すことが許されない倫理を持っている文化においては摩擦なく全ての人民がヒトを殺すことが悪だと考えるように、誇りのために死ぬのは適当だと考える文化においては多くの人民が誇り高き自死を許容するように、生物としての本能との逆行にバランスを上手に取れるなら、全ての思想は全ての人民に浸透し得る。
それを細分化すれば、一人の人間は、まったく同一の環境に置かれれば100%の確率で朝食にパンを選ぶ。これが、【ラプラスの魔法】だとして、
これが成立しない世界とは、果たしてどんな【世界】か。
三次元の世界に在って四次元目の世界を夢想する存在には、この問いは解くことが出来ないらしい。
「オールブルー。オールブルー。オールブルー。向こうに見えるのが到達地点だ。」
さて、
今使っている術式は、元来なら、ほんの四節で成立するようなモノではない。
術式とは【不可能可能性の可能化】である。あり得ぬものをあり得るとする術があるとすれば、そもそもの話この世界から不可能は消滅する。矮小な種子一つから世界樹を成すような「計算の合わない無茶」も、不可能が可能である世界なら成立するのだ。では、その世界にルールと呼ぶべきものはないとは言えまいか?
答えは、是である。
正確に言えば、このスカイライナーという世界にルールはない。
だから、ルールの代わりに【承認】を経ることにした。
ルールの無い世界は即座に崩壊するだろうが、そこに人々の【承認】を経るなら、崩壊はあり得ない。だって、世界が崩壊するようなことを、人々が【承認】するはずがないのだ。
その上で、
この【承認】を求める行為が【詠唱】である。
とはいえ、詠唱するたびにこの世界の人民総意に投票を求めるわけではない。この世界の総意は、常に最新のものが、世界の果ての石碑だか書籍だかに明文化されているらしい。これを、この世界ではアカシックレコードと呼ぶ。
ラプラス亡き今、この世界の舵を取るのはヒト種の総意だ。
だけど、ヒトは夢を見たい。夢を見なければ世界は滞りなく存続するが、ヒトはそもそも夢を見なければ死んでいるのと同然だ。
結局、ヒトの発生がこの世界における最初のシンギュラリティであった。
ヒトの想像が、世界の許容を超えた。これを理由にした技術発展がこの世界の暴いてはいけない部分を暴いたことで【BC】は消滅したらしいし、その後の【AC】はこんな風だ。
結局、この世界は産まれた時点でうまくいかないようになっていたのだろう。
だけど、……それを乗り越えることを、【神サマ】は私たちに求めているらしいけれど、それは知ったことではない。悪いのはこの世界の初期設定を行った存在である。自分の尻は、自分で拭くべきだろう?
「踏み出すは塩の湖。踏み出せば波紋。
踏みしめろスカイヤード。踏み越えるは彼岸と此方。」
然るに、今使っている術式は、元来ならほんの四節で成立するようなモノではない。
そして、この世界は、ヒトの発生を得て限界を跳躍した。
いずれ限界を跳躍する存在が世界に発生するとすれば、ラプラスのルールに則ればそもそもこの世界に限界はなかったことになる。なにせ、初めに投げたボールが当たった的が、巡り巡って限界を超越する存在を生み出すことは、最初から決まっていたことなのだ。
だから、場合によっては【承認】のルールによって成立するはずのない魔術も、成立することはあるのだ。
この世界におけるラプラスの否定は、そもそもラプラスが否定されていたことによって為された。では、ラプラスを殺したものは何か。この世界に限界を跳躍させたものは何か。
これは、あくまで四次元を夢想する存在に分かることではないのだが、それでも言えば、ヒトの想像力らしい。
先に確認した通り、ヒトの想像力は【ラプラスの魔法】の発露でしかない。今日のこの日の朝にパンを食べたいと思った存在は、そう思うだけの下地を人生で以って練り上げてきている。環境が、その人物の朝食を決定したのかもしれない。ならば、別の可能性は存在しない。その人物は何度やり直しても、その日の朝食にパンを選ぶ。或いは、記憶を持ってタイムリープをして、運命に遡行するために別の食事を選んだとしても、それもまた運命の手の内だ。その人物は、運命に遡行したいと環境に思わされたとこになるのだから。
そんな、結局はがんじがらめな世界において、ヒトはいかにしてラプラスを殺すか。
そのヒントは、この世界では成立しない妄想にあった。
妄想は、無限である。
その妄想自体は環境がヒトに夢想させたものかもしれないが、空想の世界には物理概念が存在しない。故にヒトは、あり得ぬことをその胸の内に思う。その堆積が、ラプラスを圧死させた。あり得ぬことが成立する一つ一つの自我が、可能性の世界として成立した。ヒトの脳髄一つ一つに「あり得ない世界」が成立したことで、この世界はあり得ないを許容したのだ。その、あり得るとあり得ないの世界境界を取り払ったのは、とある学者による0の証明であった。その人物が脳髄の中の「あり得ない世界」を、この現実の「あり得る世界」に持ち込んだことで、全ては意味を成せなくなった。これが、魔術世界の成立であった。
0が証明されたことで、この世界には質量保存の法則を無視した無限のポケットが発生する。0を起点としてありとあらゆる妄想がこの世界に流入したことで、世界は【承認】という二つめの世界基準を用意した。【承認】は、民主主義的な最高水準の『平等な価値判断』に見えたが、それにも拙さがあった。
それが、【詠唱】である。
ヒトは言葉で魂を為す。考える葦は、考えなければ無記名の木っ端でしかない。そしてヒトは、【言葉】で考える。
この世界における詠唱とは、つまり、『最高の文学』とも言い換えられるような、【承認】に対し感情移入を求める類の『誘惑』である。
元来なら、この術式はたった四つの節でなるモノではない。
なにせこの術式は、ラプラスの死んだ世界とラプラスの生きる世界を繋げる『不可能の門』を創出するものだ。それを可能とするには、『不可能』を論破して、それを【承認】させる必要がある。
つまりは、世界との対話。
世界が用意した問いに答え、この術式がいかに成立することが当然かを説明する。ないし、【承認】という裁判員制度での勝利を勝ち取る。
そのうえで、
――【承認】が決定権を握る場合。話は簡単だ。
だって、理屈が通らなくたって、納得してもらえればそれでいいのだから。
「雨が降れど、風が吹けど、変わらぬ旗を、そこに立てたのでしょう?。
時に雷。時に槍。時には驟雨があなたを襲うとして、それをあなたは、シャワーのようだと笑うのでしょう?」
愚かな話だ。
【大衆】どもは、世界を変えれば、自分は上手くいくと思っている。
「さあ。逃げ出せ最果てまで。
――世界は、英雄を熱望している。」
だから、この魔術はたった四節で成立する。
愚かなる【人民】は、自分には何か隠された力があると思い込んでいる。だから、私を熱望している。
――ハレルヤ。幸あれ、異世界転生者ども。
お前が求めた救いが届くぞ。首を洗って、待っていろ。
※次回投稿は、11月17日の18時までにを予定しております。
もう少しのお付き合いを、どうぞよろしくお願いいたします。




