『旅のはじまり』
00
それは、よく晴れた春の日のことであった。
風が強く、それが少し長い前髪を揺らす。
風鳴りの音が、遠くから来て、俺の耳をかすめて、そして後方へと流れていく。
少し、冬の気配を残した風だ。冷たく、鋭く、俺の頬とうなじを刺して、その都度それが俺の目を覚ます。
雲が高くて、空が広い。日差しが白く、俺の瞼を焼くようだ。
そんな日に、俺は、
死んだ。
</break..>
「……、……」
――おはよう、ハル。死出の目覚めはいかがですか?
「……。?」
脳裏に響く声に、俺は疑問の声を漏らした。
次いで、辺りを見回す。
否、「見まわそうとした」というのが適切であったに違いない。俺の視野には、幾ら見まわそうと何の視界もなかった。
「?」
視界がない。
それに熱感も、匂いも、音も、四肢の感覚も。
思考のみが存在する世界だ。そこにおいて俺は、先ほどの「声」を幾度と、幾年と、幾星霜と反芻する。
なにせ、
それ以外にここには「すること」が無かった。
――あなたの願いを解析しました。
ふと、そんな声が響いた。
それは続けて、三つの願いの成形に成功。スキルとして出力します。と、妙な言い回しの残響を残す。
「――――。」
返事を紡ぐはずだった声が、無音を成した。
呼気や唇の開閉の音さえない、それは全く以って「完全たる無音」である。
かような、情報の存在しない空間において俺は、やはり幾星霜と「その声」を反芻する。
俺の返答は、唇から先に行く前に無音となる。
だから、俺に出来るのは声の反芻のみだった。
――あなたに、第二の生と、その旅路の祝福を。
次に、
ふと降りたその言葉を反芻する時間は、どうやら俺には無いようであった。
『楽園の王に次ぐ』
一章――『旅のはじまり』
01
光が、俺の瞼を灼いた。
久しぶりなような気がするその熱感で以って、俺は半ば条件反射に瞼を開ける。
そうして、まず視界に入ったのは、細い風に揺れる木の葉の緑であった。
「……、……」
木漏れ日が俺の頬を照らす。
木立ちが衣擦れじみた音を立てるたび、俺の視界が柔らかく明滅する。日差しの白と、木陰を透いた淡い緑が、俺の、未だぼやけた視界を揺する。
「あ、あー……?」
自分の声を聴いたのは久しぶりだ、とふと思った。
いつぶりかは分からないが、それでも、ひどく懐かしい音のように思う。そして、遅れて気付く。――音を聞いたの自体が、たしか、久しぶりのことだ。と。
木陰の擦れる音がやけに瑞々しい。
それは寝起きの、コップ一杯の水のように、俺の身体の芯に浸透していく。
頬を照らす熱に気付く。
それから、地面に伏せた背中に溜まる、やや厚ぼったいような熱にも。
背筋に降りる汗の不快感に俺が身体を起こすと、背中が、新鮮な風を浴びた。
「あー、えっと?」
視覚も、熱感も、音を聞くのも、それに、背中の汗が不快なのも。なぜだろうか、久しぶりな気がした。
ならばさて、それは具体的にはいつ以来のことであったのだろうかと想起し、それが「この光景」の違和感を思い出させる。
――俺は、どこにいるのだろうか?
未だ鮮烈な、俺の死んだときの光景を脳裏に思い描きながら、俺は、
しかし五体満足な自分の身体と、そして視線の先、どこまでも続くような平原への異邦感に、眉を顰めることしかできなかった。
</break..>
ある日、俺こと鹿住ハルは死んだ。
それは、どう考えても明確過ぎる死であった。
不可思議な直観ではあるが、俺は、死んだこともないのに、アレなら死んだはずだと確信じみた感覚を覚えていた。
さて、ではそれから、そのあと俺はどうしたのだっただろうか。
「……、……」
そう、その後に俺は夢を見た。
幾星霜の夢だ。無限に近い時間の夢を見ていた気もするし、あの夢はほんの数秒のことだったようにも思える。とにかく、そんな夢を俺は見て、
そして、次の瞬間に迎えたのがこの光景だ。
……掛け値なしに断言できる。あの夢を見た「直後」に俺の意識が捉えたのがこの平原だ。俺の主観で言えば、少なくとも、俺は絶対に「あの夢」と「この平原」の間には何も見てはいない。
死んで、あの夢の世界を見て、そして俺は今に至る。その<中継>など何もなかった。
ならば、
俺には一つ心当たりがあった。
「……。いや、うそだ?」
俺は、死んで、
夢で何かの声を聴いて、
そして今、この世界にある。
これが、案外最も妥当な過程なのではないだろうか。
少なくとも、素人がこんな大掛かりなドッキリにハマったなどと言うよりは。
……何よりも、俺があの時死んだのは、先に言った通り根拠などなくとも確信をもって断言できる記憶であった。
「……、……」
俺は、どうしようもなく、辺りを見回してみる。
――そこにあるのは、別の言いようもないほどに「ただの平原」であった。
「……。」
俺が日陰を享受するこの木立ち以外には、岩叢も、木峰も、人の文明の気配も、どれの一つも存在の気配さえない、それは地平まで続く平原であって。
仕方がないので、俺は身体を起こすことにした。
</break..>
まず、自分の服装に気付く。
どうやらこの服は、俺が死ぬときに着ていたものと同様のものらしい。
シンプルなシャツに、シンプルなパンツ。下着や靴下に至るまでブランド揃えの安物商品であって、ただし靴だけは、俺のこだわりで多少値の張ったものだ。
しかし、なにやらここは、俺が死んだ時分と変わらぬ気候であるようで、衣服の厚さによる寒気暑気などは感じない。
こうなってくると、俺は死んだのだという確信が先立って「ここは異邦の世界である」と思い込んでしまっていたのだが、それも再考の余地があるかもしれない。
ここの気風も、俺が死んだあの日のあの場所と同じ、爽快な春の日和であった。
「……、……ううむ」
――しかしながら、こうも平原一辺倒の景色が続いてくると、やはりここは「だだっ広い野原しかない異世界なのではないか」という不安は出てくる。
なにせ、見渡せどここには本当に石くれ一つさえもないのである。
「……どっか、行くか」
誰に向けたものでもない言葉を、俺は言う。景色に起伏がない以上、進む先にアテもなく。俺はひとまず風を追いかけることとして歩き始める。
しかし、
さてと、
日差しが傾ぐのを見る以外に、俺の当てなく往く景色には代わり映えというモノが無い。
「……、……」
待つまま、そのまま黄昏が来て、
「……。」
その後すぐに夜が来て、
「 」
そして俺は、朝を迎えた。
「……………………。」
妙なことに、俺は全く眠気や飢餓感などを覚えるということが無かった。
身体の方も、コンディションには概ね問題が感じられない。
夜通し歩いていたはずなのに、である。
俺の後方にはもう、目覚めたときの木立ちは影さえも確認できない。
「……、はあ」
しかしながら、幾ら違和感を覚えたところで俺に出来ることがあるわけではなく、俺はただすら、まっすぐにどこかへと向かって歩くことしかできないわけで。
……ゆえに、そうしていて、
ようやく地平線に起伏が顕れたのは、
更に二日ほど歩いた後のことであった。
</break..>
「……、おおう」
三度目の昼間の地平線にて。
多少程度の起伏が遂に現れた。
それはどうやら、小さな村であるらしい。或いはいっそ、集落というべきだろうか。
遠目にも設えの悪そうな家屋の集まりを見つけて、俺はそちらに歩を速める。
果たして、そうして見つけた、その「初めての起伏物」は、
「……、おぅ」
集落と呼ぶのさえ気が憚りそうな、率直に言えばただのコテージの集まりであった。
まず目につくのは、頭三つ分飛びぬけた高さの、木造りの「塔」である。
或いは、俺の自前の知識で言えば、あのシルエットは物見小屋に近いだろうか。
それから、幾つかの簡素な小屋がある。それらを、これまた質素な木造りの門が覆っている。
どれをとっても丸太を継ぎ接ぎにしたような簡単な造りではあるが、しかしはてさて、……妙に何か、どっしりと構えているような印象がある。
言うなればそう、あの「集落未満」は簡素に過ぎる造りではあるが、しかし不思議と整然としているのだ。
平原の原っぱの上にぽつんと立っているのはどことなく牧歌的に見えなくもないが、しかしあの構え、設え、他者を排除する意思を感じる門の高さには、どこか、攻城拠点のような印象が喚起される。
……ただし、先に言った通り、かような「攻城拠点」が純朴極まる原っぱにポツリ浮かんでいるのは、何度見てもあまりにシュールな光景であったが。
果てさて――、
「――おうい、お前。何者だ!」
「!」
向こうから、声が届いた。
それで以って俺は、いつのまにやら自分が返事の出し方を忘れていたのに気付く。
「……、……」
声の主は、どうやら物見小屋の上にいるらしい。
目を凝らして確認した限り、その目鼻立ちは日本人のものではないようである。しかしながら、具体的に外国人だと断じられるほど、俺のそれと乖離しているわけでもないような?
「……。」
……当然、あの顔の造りが彼特有のものである可能性は否定できない。ただ、今に至るまでの三日間の行軍で、俺は、ここは日本ではないのだとひとまずの仮定をしていた。
それゆえに、まずもって出会った人物の見分はおろそかにできない。
いや待てよ? それで言えばアイツは今、どう考えても日本語を話していたはずだが……、
「ここはメル・ストーリア公国の軍事拠点である。お前、そのまま接近するつもりなら我々には迎え撃つ用意があるぞ!」
――絶対にここが日本じゃないことは今確定した。
なにせ、メル・ストーリア公国などと言うやや恥ずかしめの名前の国を俺は知らない。
「あ、あの!」
「!」
俺の三日ぶりの発声に、物見小屋の男は威嚇を解いた。
それで以って言葉が通じるらしいことを確認した俺は、更に継ぐ言葉を選ぶ。
「えっと、道に迷ったみたいな感じでして! 助けてもらえませんか!」
「な、なにっ?」
さてと、
これは、俺がこの三日間の歩きっぱなしで考えておいた「最初に出会った相手への一言目」の、その数ある手札の一つである。
そもそも、空腹感や疲労などもなくただ歩くだけの生活をしていた俺に出来るのは妄想一個のみであって、それにあたって俺は、この世界に人がいたら、まずどうやって意思疎通を図ろうか、という問題についてを考えていた。
言葉が通じないなら、ひとまずは逃げ一辺倒だし、言葉が通じたとしても、その相手がこちらに好意的か否かで対処は変わる。
ここで俺が選んだのは、「比較的好意的だけど、異邦人であるこちらに一定の警戒を持っている相手の場合」に用意したものだ。
……いやなにせ、渡る世間に鬼はいないのである。
助けてくれと言えば、相手はひとまず「助けるか見捨てるか」の良心の呵責に苛まれるというのが人の世の常だろう。
仮にこれがうまく行かなかったら、俺としては更に全力でヤツの良心の呵責を呷る用意もあったのだが、
……果たして、彼は思った以上にすんなりとこちらへの警戒を解いた。
「待っていろ、今そちらに行く!」
そう言って彼は、何やら物見小屋の足元に指示を飛ばす。
それからほんの少しだけ待っていると、丸太づくりの門扉が開いて、その内から彼が、こちらに歩み寄ってきた。
「なるほど、君、見ない顔だね。それに若いな」
彼はまず初めに、俺にそう言った。
表情から察するに、敵意は特に無いようである。
俺は、ひとまずは言い訳のしようもなく、彼に事情を率直に説明した。
「あの、目が覚めたらここでして……、」
「目が覚めたらここ? それまでの記憶がないのか?」
「ここはええと、メル・ストーリア公国なのですか?」
「そうだ。君は、どこから来たんだ?」
「日本という地名のモノです。もしもよろしければ、そちらの拠点で話を聞かせてもらえませんか?」
……ニホン? と彼は妙なイントネーションで言葉をオウム返しした。
しかしながら、国でも主要都市でもなく「地名」である「ニホンなる名前」に心当たりがないのはそう珍しいことではないと解釈してくれたらしい。彼は改めて俺の姿を検分して、……そしておそらくは俺を無力な市民であるとひとまず断じたようであって、
そうして俺を、ログ造りの門の方へと案内した。
「遅れたがね、バルク・ムーンだ。君の素性は、我々の上司に話してくれ」
「ありがとうございます。本当に、困っていたんです」
俺の名をそのまま答えれば、聞き馴染みのない発音であるとかなんとか、何かしらの不都合があるかもしれない。
名乗り返す代わりに、俺は再三の感謝を彼、バルク氏に告げ、それを道中の時間つぶしとすることにした。
次回投稿は大体一時間後です。