或る独白_(02)
ヒトとは何か。
死とは何か。
文明とは何か。倫理とは何か。
彼は、すぐにそれらを忘れた。
長き悠久があった。
その世界は凪のように穏やかであった。
春の日向じみた静寂に、彼は不快感を欠落した。
不快がなく、心地よさだけがあった。ゆえに彼はそれにただすら身を浸した。彼は思考の必要性を失った。
必要性のない思考が、それでも時折言葉を紡いだ。
ヒトが言葉を発見しそれを洗練するのに必要な時間さえちっぽけに思えるような膨大な沈黙。それが彼に、独自の言語を成形させた。彼はそうして前世の言語を忘却した。
そもそもが未熟限りなく、更には「様々なヒトたちのため」にある言語を捨てて、彼は「自分だけのための言語」を成立させた。
その時点で彼は、「それまでの言語」で以って描写される全てに価値を感じられなくなった。
知っている全ての文学は、未熟であった。
表現が不足し、語彙が不足し、自由度が不足し、ルールに粗が多い。
そんな未熟な言語で描写された文学は、つまり未熟である。
先人たちが血反吐を吐いて生み出した数多の文学は、この世界の真理のたった一片すら描けてはいない。
彼は、彼だけのための言語で文学をしたためた。それが彼に、より実際的な哲学を生み出した。
それは、当然の事であった。先人どもが未熟な言語で削り出した真理など、彼のもつ言語からすれば原石そのままとも変わらない。
この世界にはまだ未知がある。世界を、彼は、その言語のメスで以って更に解剖する。それで以って彼は次に、既存全ての数学に勝る唯一絶対の数学を発見した。
世界が変わる。
世界が変わる。
更新されていく。
見えなかったものが、暴かれていく。
彼のすぐ近くにあった「世界」を、彼は遂に発見/定義した。
この時点で彼は、死なぬ生命になる以前に得たもの全てを亡失していた。
言葉も、哲学も、倫理も、数学も、何もかもが更新された世界で、以前の発見物は無価値であった。
彼は『ヒト』を、亡失した。
その後、更に悠久を経て、
猿が、霊長を名乗り始めた。
高度に独自化した言語/倫理/哲学/数学を持つ彼にとってはしかし、その猿どもの黎明の叫びは、獣の咆哮とも大差がなかった。




