1-4
ティアの用意したお茶を頂いてしばらく。
私とマグナは、再び夜の回廊に戻っていた。
「結局、ティアからは大した話が聞けなかったなあ」
「……、……」
マグナの物言いに、私は心中で大いに同意する。何せあの部屋で私が彼女から聞いたのは、一から十までが悪意と害意に満ちた「邪道の戦法」であった。全く、あのいたいけで儚げな童女の口から吐き出される悪役ワードの数々たるや、世界中の男を女性不信にさせてなお余りあるに違いない。
「あー、そうだ。さっきアナウンスで言った通り、この後は八席の他の連中に会いに行く感じです」
「うん、分かってる」
つっても四席から六席は、今は不在ですケドね。とマグナ。
……ちなみに、二席が彼女で八席は先ほどのティアであるからして。残る三席と七席がそれぞれ猫亜人と竜である。先ほどまで食卓を共にしていた彼らにわざわざ会いに行くというのは、妙に、二度手間じみた感覚があって申し訳ない。
「バロンとニールは、たぶん、……今だと城下街にいるのかなあ?」
――言いながら彼女が、窓の外を見た。
そこには、いつもと変わらずに正円の月がある。
「……いつかニールが説明した通り、申し訳ないけど君を城下に連れて行くわけにはいかない。二人に話を聞くのは、この後にさせてくださいね」
「構わないよ」
ここ、北の魔王の居城には、城下街があり、そして臣民を抱えているのだという。
私はヒトであり「こんな身の上」であるからしてその街に降りたことはないが、……いつかバロンとニールに聞いた限りだと、街はそれなりに賑わっているらしい。
――魔族の街など、想像が付かない。
ただでさえそれら民草は常夜の国の住人である。これがヒト種に仇為す魔族の巣窟だなどと聞けば、誰だってまずは戦慄とするだろう。
だけど私は、……きっと、もうこの街に恐怖を覚えることが出来ない。
城の外に降る月の明かりが、人の世の夜を照らすそれと一つだって差異がないと、私には、そんな確信があった。
「だけど、じゃあ、どうするの? 今日はもうお休み?」
窓の外から視線を切り、
私は、彼女にそう問う。
対する彼女は――、
「まずは」
「?」
そんなふうに切り返した。
「あんたは、北の魔王のことをどれだけ知ってるんでした?」
「……。ええと、基本的には一般知識と変わらないと思うけど」
私が言い淀んだのは、私が、その手の「まともな常識教養」を当たり前に学ぶ機会がなかったためだ。必死に学んで、必死に覚えた。だけどきっと私の「勉強」には、私には気付けない穴がある。
彼女は、
「一般知識。……まあ、せっかくなんで確認しとくとね」
などと言って、呼吸を一つ置いて、
「『北の魔王』。バスコ共和国が未だバスコ王国だったころに、王族連中とやり合って『世界樹の苗』を勝ち取った勢力って感じで伝わってますよね?」
……世界樹の説明は割愛しますけど。と彼女。
私は、それにひとまずの首肯を返す。
「この国じゃ、前の王族の悪行はしっかり広告宣伝されてますね? 共和国のレオリア氏って言ったら、この国の政治の善性の象徴ですね。……ってのは蛇足か。とかく、ウチの大将の出身は、バスコ王国の時分にあります」
「その辺くらいの事情なら一応私も知ってるよ」
「あー、っとね。えー、失礼。……まず聞きたいんですけど、ウチの大将が元人間だってハナシは、聞いたことあります?」
「……っは?」
私は、その言葉にどうしようもなく瞠目をする。
対するマグナは、私のそんな表情を見てか「たはは」と笑った。
「ウチの大将は人の英雄だし、魔族の王なんですよね。……そこで一旦話を変えてきますけど、リベットさん」
「……、……」
「あなたの身体に根差した神サマは、素性は置いといて、とかくヒトの神様ではあるんでしょう?」
「……………………。」
私は、その言葉に沈黙を返す。
「あたしが大将に頼まれたのは『大将に勝つまで』ですけども、あたしは、別にそれに拘泥するつもりはない。大将のするのは、いつでも、命令じゃなくてお願いなんですね」
静謐の回廊に、そんな、呟くような彼女の言葉が立ち上る。
それが、足音と一緒に、床の絨毯に吸われて消えた。
「バロンにもニールにもどうせまだ会えない。それじゃ、大将の言う次のフェーズとかいうのはひとまずお休みにしときましょ。……せっかくの暇は、本道の方に費やしとくべきだ」
「……、……」
「大将のとこに行きましょう。バロンとニールに会うのは、その後ってことで」
〈/break..〉
『北の魔王』。
――魔王カルティス。
その名は、この国に限らず人なら誰もが知っている。
彼の王は過日、この国に芽吹いた世界樹の苗木を、バスコ王族とめぐり勝ち取った人物である。世界樹が何なのかとか、「魔王」というのはどういう生物なのかとかは、ひとまずここでは置いておこう。問題は、彼の王の武勇であった。
天を裂き、地を割り、湖を作り、人に仇為す。彼の伝説はどれも、いっそ神話じみたスケールで語られる。……風聞に尾ひれがつくのは人の世の常であるが、しかしそれにしても、魔王の伝説はあらゆる英雄譚より一段階分格が違う。
そんな彼と私との初対面は、ほんの数週間前のことに遡る。彼の顔を始めて見たのは、私がこの城を訪ね、その場で(あくまで客人をもてなす顔で以って)拘束をされ、そして三日ぶりに軟禁を解かれた直後の食事の席であった。
あの時の衝撃、或いは違和感は、未だなお払拭できてはいない。彼の王は、……ニールの言葉を借りれば「意思に希薄」であって、だからこそどうにも「底」というものが見通せなかった。或いはいっそ、「底」なんて無いのかもしれないとさえ私には思えた。見通すべき「底」などなく、彼はどこまでも「ああいう人物」なのかもしれない、と。そんな感覚である。
「……、……」
彼と出会ってから数週間。
以来毎日晩餐を共にしているはずの彼の「内側」が、在るのか無いのかというところからして不明であった。ゆえに私は、――率直に言えば彼が苦手だ。
「どうも、大将」
「うん? ああ、マグナにリベットさん。……さっきのアナウンスなら、ちゃんと耳を塞いで聞いてなかったよ?」
そこは、魔王の執務室であった。……とはいえ、書類に目を通したり判子をついたりみたいなタスクが机上に乗っているわけではないらしい。空っぽの机には飲み物の入ったグラスが一つあり、彼はデスクチェアに上体を預け、至極リラックスした様子で読書をしていた。
彼のそのシルエットは、凡そ魔王と呼ぶにふさわしいものに見えた。黒く滑らかな布地のローブを羽織り、その下に垣間見える肢体は、端から端までが武人のそれだ。
肌は浅黒く、頭部と腰には魔族の証である角と尻尾がそれぞれある。椅子に座ってさえ私がやや見上げるほどの上背で、その長い銀髪や精悍な顔つきには、全く魔王たり得るだけの威風が垣間見えた。
しかし、そんな感じで彼がいくら「魔王っぽい」威圧感を放っていても……その手にある本一つで全部台無しだった。
「(エロ本だぁ。……エロ本だよぉ)」
エロ本である。何やら半裸の少女のイラストが描かれた手のひらサイズの本に、魔王は、どこまでも真面目腐った表情で向き合っていた。
「読書中申し訳ない。今いいっすかね?」
「うん? ああ、いいけどちょっと待った。あと二分だけ待って。そしたらちょうどいいとこまで行くから」
「(エロ本のちょうど良い所って何なの……? というか女の子二人待たせてエロ本を読めるメンタリティって何なの……っ?)」
戦慄する私をよそに彼は、「そこ座ってて」と革製のソファを指した。
……なお、彼の視線の動きを見る限り、アレは小説の類であるらしい。つまりは官能小説だ。官能小説の「良い所」ってあまりにもご禁制じゃない? 文面上の営みが1ターン終わるまで待たされる私たちってマジで何扱いされてんの?
「おっと?」
……という私の視線に気付いたらしい魔王が、
そこで何やら、そのように呟いて視線を上げた。
「勘違いしている顔をしてるなリベットさん。さては君、これをエロ本だと思ってるだろう?」
「……。(首を縦に振ったら不敬で首飛ぶんじゃないのその質問っ!?)」
「いや分かる。分かるけどね、それは勘違いなんだリベットさん。これはね、この表紙、これは資本主義のインパクト商法が生み出した、あくまでマーケティングの一環なんだ。だってほら、本が無地装丁じゃ読者は内容が推し量れない。これはマーケティングだよ。タイトルで作品内容を説明して、官能的な表紙イラストで目を引き付けるんだ。決して、決して不埒な理由で女の子の服がはだけているわけじゃないんだ分かるだろう? この作品、『モンスターに転生した俺はチートSSSスキル持ちの元騎士ですが国から追放されまして冒険者を始めましたところとある魔族の悪役令嬢美少女に付きまとわれて困ってますケドひとまず貴族になって領地をもらって村を運営してて元クラスメイトは全員手籠めにしてスローライフでモフモフに囲まれておいしいご飯を食べつつ折を見て復讐もします。あと俺実は魔王です。前世は賢者でした。母も世界最強です』は文学なんだよ。名前やイラストに惑わされてはいけない。ほんの三行も読めば君にもわかるこれは文学だってねこれは文学さ。先入観はより良い作品に出会う機会を無くすだけじゃないかな俺はそう考えるね」
「…………。」
めっちゃ早口ぃ……、とは心の中の独り言にとどめておく。というか、ここ数週間掛けても掴めなかった気がしてた彼のキャラクターがマッハでストップ安に落ち着いたこの感覚ってホントに夢じゃなくてマジなの? この部屋を出て入ってからやり直して全部一旦なかったことにしたいんだけど私。
……という慟哭は、しかし、ひとまず置いておこう。
私は一歩踏み出して、まずは彼に、礼を一つ。
「よく分かりました。ありがとございます。十分です」
「分かってなさそー……」
これを一つの区切りとして、
傍らのマグナが、私に代わる。
「とかく、用事で来たんでさっさと読み終わってください大将」
「あ、うん……」
不承不承気な彼はしかし、
……ほんの数秒も待たず、また手元の活字に没入を始めた。