01.
――夜の帳を、卓上の暖色灯が放逐する。
開きっぱなしの窓から、風が、夜気をはらんで部屋を撫ぜる。
肩の凝りに視線を上げると、広い執務室の部屋の向こう。
そこに、灯と夜が綯い交ぜになったような、抽象的な境界線がある気がした。
――からり、と。
私の手元から、冷たく澄んだ音がした。コーヒーの入ったグラスの中で氷が崩れた音である。
私、エイリィン・トーラスライトは、
「……、……」
そのグラスの中身、……しばらく手を付けないうちに緋色と透明色がすっかりと二層に分かれてしまったそれを、空にするつもりで一気に呷った。
バスコ共和国、ストラトス領。ストラトス領事館にて。
私はストラトス領領主レオリア・ストラトスから借り受けたその宿直執務室で、公国に送る報告書の作成作業を今しがた終えたところであった。
「……、はぁ」
――その文面は、カズミハルとの再会のシーンから始まる。
桜田會とストラトス領の和解。
ハルから聞いた、「北の魔王」による飛空艇襲撃事件の顛末。
桜田會首領サクラダユイの持ち込んだ、「北の魔王」による「悪神神殿」攻略作戦の知らせ。
そして、我が国にとっても忘れられぬ仇、『パーソナリティ』の襲来。
……更に言えば、『パーソナリティ』の発見によって、カズミ・ハルのウォルガン・アキンソン部隊襲撃容疑が完全に晴れたことと、『パーソナリティ』の一件でレオリアが禁忌目録魔術の使用を行ったことについてもしたためておいた。一応後者については、国際法要綱に照らし合わせて「緊急及び重大性を要する偶発的な魔物の強襲においては、全ての人民生活の保護を優先するべき」という項目が適用される、とも再三付け加えつつだが。
まあ、とにかく、そんなわけで、
「つっかれたぁ……」
一つ伸びをして、デスクチェアに深く埋もれる。
上品な造りのクッションが、私の肩を抱くようにして受け止めて、私はふと目頭に残る違和感のような、根深い類いの眠気を感じた。
「このままねむれりゅ、ねむれりゅよわたし……」
……欠伸を一つ。
デスクチェアのクッション上で私は、寝返りを打つように身体を横向きにする。
すると一層深く、私の頬と肩がクッションに埋もれて、
…………欠伸が、もう一つ。
「(だ、だめら、これ本当にねちゃうやつだ……っ!)」
クッションの抱擁は、春の日向に寝転がるような感覚で、
加速度的に眉間の力みが消えていき、視界がぼやけて、抗いようもなく私の身体が、クッションの上で更に更にと丸まっていく……。
そして、
――がたん! と椅子の足が鳴った。
「っどわぁ!?」
ほぼ完全に意識を手放していた私の身体が、虚空に投げ出される。
側頭部に響くガツンとした痛み。自分の視界が妙で、まるで床にでも横たわっているかのような角度になっている。そしてその最中央には、ひっくり返ったクッションチェア――。
「いったぁ……。なんだよぉ」
それで私は、……遅れて、自分が椅子の上でバランスを崩したらしいことに気付いた。
びっくりした。すごい音だった。誰かにぶん殴られたのかと思った。
「…………目が覚めちまったデス」
いや、良いことではあるんだけど。何せやることまだあったし。
でも、……でもやっぱり、私はいるのかいないのか分からん神サマに悪態をつく。オーマイゴッデス。私はこんな風に叩き起こされるようなカルマを背負ってはいない、と。
「……………………。仕事しよ」
じゃあ、それにあたりまず、飲み物をもう一杯。
特別に苦いコーヒーと、少しばかりの甘味も欲しいところだ。コーヒーについては先ほど淹れた残りを、もっとアイスを少なく用意するとして、さてはておつまみがあっただろうか……?
「……、……」
執務室に用意された魔石式冷蔵庫の中から、アイスとグラスをそれぞれ用意。近くに置いておいたポットの肌の温度を手の甲で確認して、まだ冷気を発しているのを確認してからグラスに注ぐ。
グラスの、掌に返る寝ぼけた感触が、コーヒーを注いだ途端にきりりとした刺激感を増した。グラスの側面がぽつぽつと汗をかき、それが指先を濡らす。甘味ではないが、不用意な量を嚥下すれば頭痛を起こしそうな冷感である。
「(アイス、……アイスかぁ)」
アイス。いいなぁ、アイス。
……まあ、この部屋には用意してないんだけどね。残念。
「…………、はあぁぁあぁ」
お腹を空にするような溜息を一つ。
それで以って、気持ちに無理やり区切りをつけて。
私は空腹感と、こびりつくような眠気にやや呆けながら、グラスを手元にデスクへ戻る。
仕事が一区切りしたら、街に出てみるのも一興かもしれない。甘味処は、……まあこんな夜に開いているとも思えないが、風の一つでも浴びたら気持ちがシャキリとするかもしれないし。
仕事は、きっと今日中に終わらせよう。それが明日の私への投資になるのだ。日々の頑張りを少しづつ積み重ねて行ったら、きっといつか素敵な未来に追い付ける。そう思ってデスクチェアに腰を下ろそうとしたその瞬間……、
そーいや椅子戻し忘れてるくね? と、――今更気付いた。
「ぉわっ!? っわぁーーーーーーーーーー!」
再びひっくり返る私。虚空を舞うコーヒーグラス。私はそのスローモーションの光景に、自らの行きつくクソッタレな一秒後を思い描いて、
――冷えっ冷えなアイスコーヒーの飛沫に痛打されながら、声にならぬ悲鳴を上げることしかできなかった。
「……………………、だれか死ねよマジで」
言ってて自分でこれはちょっと情緒がやばい感じであった。
決めた。今日はもうシャワー浴びて寝よう。
――ということで、備え付けのシャワーを浴びてきて、
「……、ふぅ」
幾分もすっきりした気持ちになりながら、私は頭にのせたタオルでくしゃくしゃと髪を撫でる。
やはり、仕事を切り上げることにして正解だったに違いない。なにせこんなにも晴れやかな気分なのである。こりゃあ明日も明後日も仕事しない方がいいね絶対精神衛生上の観点で見れば。
「……、……」
改めて泣けてきそうなので閑話休題。今日は明日より価値がある。私が考えるべきは明日じゃなくて今である。
ということで、……先ほど憤懣に任せてほっといた氷の掃除を済ませて、椅子も立たせて、
では、
「…………今日の仕事は、終わりっ」
コーヒーの香りが未だ残るグラスを取って、私はそれに、この街で見繕ったスピリッツを注ぐ。ちなみに合法である。私はお酒を飲める年だ。誰に言ってんのか我ながらわっかんないけど。
ってのも関係ないので忘れておいて、
「――――。」
……とぽとぽとぽ、と。
静かで、少し粘性を感じる音が立ち上がる。
ややツンと来るような、独特な匂いが鼻腔に届く。
液体の赤みの差した黄金色が暖色灯を浴びて、黄昏で琥珀を透いたような色が、キラキラと向こうの壁に投影されている。そこに私は、氷を三つ落とす。
一様だった光のシルエットが、それで以って、万華鏡のように複雑になる。
それを私は、少しだけ眺めて、
「乾杯」
虚空に、そう言う。
今宵の晩酌の肴は、私が先ほどまでまとめていた資料である。
ちなみにこちらの資料は、先ほどのぶちまけコーヒーの災禍を辛くも逃れていたらしい。いくつか手に取ってみる限り、目につくようなシミの類いはない。
……ということで、表面の見分はここまで。
ここから先は、「中身」の見分である。
「……、」
資料を書くのも、或いはまとめるのも、私は基本的に親の仇が如く嫌いである。……が、しかし不思議と、自分がまとめたそれらに目を通すのは好きであった。
他人の書いた資料ではいけない。自分で書いたものだからいいのだ。その作業だけは、私にとって苦ではない「業務」であった。それこそ、酒のアテに出来る程度には……。
「……、……」
手に取ったのは、この国の立ち当たった事件を私なりにまとめたものである。
行きずりの成り行きによって、私は「公国騎士」としてストラトス領が直面する「戦争」に、公式に立ち会うこととなっていた。この資料は、それにあたって「敵」となる存在の内情を確認した「非公式」の手記。
さてとでは、その内容は――。
『北の魔王について。
・むかし、バスコ王国との戦争を繰り広げた魔族グループの通称。
→ 戦争:「世界樹の苗争奪戦」のこと。北の魔王の勝利。
・イマはバスコ北に拠点アリ。
魔王領:ストラトス領と同程度の規模?
→ 構成のほぼ100パーセントが亜人種。
・逆条八席と呼ばれる構成員で成る。
一席『魔王カルティス』
魔王種。北の魔王とされる人物。
能力:「魔王のようだし英雄のよう」 ← これは能力なの?
二席『白銀のマグナ』
人間種。(唯一の人間種らしい?)元騎士とのうわさ。
「世界樹の苗争奪戦」の主要人物?
能力:身体強化?
三席『誇りのバロン』
猫族。ヒト種(主に女性)との接触報告多数。← ナンパ野郎らしい
能力:光属性魔法。槍術(高練度)
四席『虚無のダーマ』
スケルトンナイト?
「不思議な格好」をしてるらしい?
能力:不明(神出鬼没と共通報告される)
五席『理性のフォッサ』
魔族。ヒトに敵対的。捕縛済み。
能力:星堕とし ← 軍艦撃ち落としの逸話はコレでやったっぽい。
六席『苛烈のベリオ』
鬼族。ヒトに敵対的(一部友好的な事例も報告アリ)
現在消息不明。
能力:不明(怒ると強くなる?)
七席『知己のニール』
竜人(リザードマンとは別らしい)?
コレクション癖( ← これは蛇足)
顔が広い( ← なんで顔が広いのか? ← ホントの竜種だからってハナシもあった ← マジならヤバい)
能力:不明(念動力らしき報告アリ)
八席『妖精王ティア』
妖精種。名前の通り妖精の女王とのうわさ。
能力:妖精の女王としての権能?』
「ふむ……」
以上が、北の魔王について私がまとめた内容の大枠である。
彼らとは直接衝突が大いに予測されるため、纏める内容も具体的な戦力を重視している。仔細は別紙の各メンバー項を改めて確認するとして、私はまず、文字文面から受ける「印象」のようなものに、思考を没入させる。
……過日、「世界樹の苗」を奪い合ってバスコ王国他様々なヒト種権力と競い合った、「対ヒト種における英雄」とも呼ぶべき存在。それが彼らである。
その衝突の戦記や顛末は概ね割愛していいものとして、特筆すべきは、彼らが最終的に「世界樹の苗」を手に入れたというところにある。
――世界樹の苗。
詳細は不明だが、曰く「世界を根付けるモノ」であるとか。
一説によると、北の魔王の拠点はそれで以って盤石となっているらしい。北の魔王を攻略する上では、或いは、世界樹を切り倒すということさえ視野に入れる必要があるということになるわけか。
「……、」
それから、逆条八席なる彼らの詳細については、その概ねが不明であった。
調べて見つかるのはごく限られた戦闘記録だけ。この情報の少なさは、どうやら、逆条八席と呼ばれる彼らによる戦闘行為自体が稀であるためらしい。或いは、ギルドや冒険者方向の情報網を探れば、また違った結果になるかもしれないが、それは追々として。
……ようやくマトモに情報が入ったのは、「五席・理性のフォッサ」によるバスコ王国空軍騎士の掃討一件と、――そして、「一席・魔王カルティス」の武勇の数々であった。
特に、この魔王カルティスについては、「北の魔王」と呼ばれる本人だけあって東奔西走の(亜人にとっての)英雄譚にあふれている。
――曰く、亜人を奴隷化している国を一人で壊滅させた。曰く、ヒト種の作った「神を模したホムンクルス」を降した。曰く、神そのものへと至る間際まで行った。エトセトラエトセトラ。
「(………、大昔の神話みたいなスケールの話ばっか)」
頭の痛くなる話である。それに、彼の魔王の逸話に伝え聞くヒト種の悪魔っぷりも筆舌に尽くしがたく、そこもまた私にとっては頭痛ポイントだったりする。……いやまさか、この「お話」がマジということはあるまいが。
「……、……」
一度、
私は資料を置いて、そして代わりに、グラスを煽る。
――きりっとした口当たりに、とろりと滑り落ちるような甘みと刺激感。
ほぅと息を吐くと、それだけで私の思考は空虚に冴えわたる。
「……、」
ふと、視線を資料の山に落として、
私は「ソレ」を見つける。
その資料の銘題は、――『悪神ポーラ・リゴレットと邪教の巫女について』だ。
「……、」
邪教の巫女。
つまりは、「リベット・アルソン」のことだ。――私と、ほんの一瞬だけれど、とても忘れられそうにもないような鮮烈な時間を過ごした友人の名前である。
調べれば調べるほど、かの『悪神』とその信者どもの宗教は邪悪に尽きた。あれは、ヒトの倫理を冒涜するためだけに存在しているような集団であった。――その中心に「彼女」が置かれていたなんてことをどうしたって心が受け入れられないくらいに、アレは最低な宗教であった。
私は、
「……。」
『敵の情報資料の山』に「彼女の歴史」をしたためた物が挟まっているのが気に入らなくて、
その『資料』を手に取って、
……だけれど、もう一度読む気には慣れず、
「…………はぁ」
――結局、置き場を失って、
私はそれを、資料の山の一番上にそっと乗せた。
※次回は、12月30日のいつもぐらいに投稿予定です。