04.
アレに捕捉をされたというのは、どうやら僕の錯覚であったらしい。
「はァ! はァ! はァあっ!」
ゆえに僕は、理性と正気を手放した全力の逃走を滞りなく完了させて、今また夏日向の木立の最中に舞い戻った。
「起動! クソッ! 起動だ!」
思念で以ってウェイトなく発動するはずの「結界内への移動」が妙に遅い。僕は、存在しないはずの待機時間に正気を焦がしながら、それでもようやく結界の内側、――図書館の内部へと移動をした。
「いらっしゃいまませ、レオリアさm――」
「ふは、ふっ、ふっ、ふゥッ……!!」
張り付いた喉が嗚咽を吐き出す。悲鳴を上げなかったのはひとえに僕の矜持によるものだ。叫び出したくてたまらないのを抑えて、僕は窓口に立つ司書さんに食って掛かる。
「モンスターを調べたいッ。名前は分からないけどそれでも可能か!?」
「レオリア様、どうか落ち着いてください。静粛にお願いします」
「ば、ばs、――場所を、貸してほしいっ。情けないけど、声を張り上げないと気が触れそうなんですッ!!?」
「――――。深層のカギをお渡しします」
「ありがとう、ございます……!」
差し出したカギをひったくるようにして僕はエントランスを走り抜ける。今ばかりはこのマナー違反を謗る声は聞こえない。僕は、そのまま深層に繋がる階段を駆け下りた――。
………………
…………
……
「落ち着かれましたか?」
「…………どうも、ご、ごめんな、さい」
「今ならまだ、喫茶店の方も開いております。良ければ気を落ち着かせてきては?」
「いえ。あ、い、急ぎの用事です。ご迷惑は、お、かけしませんので、検索依頼をお願いします」
――了解しました。と司書さんは、至極いつも通りの表情で僕に了承を返した。
「………………。はぁ。はぁ」
図書館の外は、今朝はどうやら雨天らしい。
地響きじみた雨音が僕の鼓膜を叩く。少しばかり声を上げないと、隣人との会話もままならぬほどである。
否。――見れば、ここにいるのは僕と彼女の二人だけであった。
「検索内容は、いかがいたしますか?」
「……申し訳、な、ないんですけど、モンスターの名前は分かりません。見た目、見た目の特徴ならある程度、あ、説明できるんですけど、それでは不足です、か?」
「……力になれるかは保証できませんが、それでもよろしければお聞かせください」
彼女の理性的な物言いが、いまだ狂騒の最中にある僕の思考から粗熱をさらう。
それで、僕の震える舌が、少しずつ平常を取り戻し始めた。
「すみません。……なんだか、う、上手く、喋れなくて」
「いいえ。構いません」
深呼吸を、僕はする。
一つ。二つ。……三つ。……四つ。
「はぁ。……ふぅう」
「……、……」
「……すみません。もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「いいえ。それよりも、急ぎの用なのでしたら」
「……、」
彼女が優しく急かすのに背中を押されて、
僕は、ようやく文脈を吐き出し始めた。
「ええと。……さっきも言ったように、モンスター情報の検索依頼です。ただし、名前は分かりません。見た目情報をお伝えするのでも検索は可能ですか?」
「モンスターの索引も当窓口の管轄です。ただし、複数種類がヒットする可能性は、ここで先にご説明いたします」
「構いません」
逸りそうになる舌をいなすつもりで、僕は、もう二つ深呼吸をした。
そして、なんとか喋り出す。
「まず、アレは卵の殻の中にいる蛇です。半透明の、青白く発光する卵の中に蛇がいました。卵殻の体高は、……目測ですので曖昧ですが、成人男性の身長4~6人分程度に見えました。鶏の卵のような、楕円形をしていました。その中にいたのが蛇です。……ええと」
「レオリア様?」
「失礼、大丈夫です。……半透明の卵殻の中にいた蛇は、何と言うか、非常に細かった。卵の中で、ええと、鉛筆でぐちゃぐちゃに落書きしたみたいに絡まっていました。細い線が幾重にも重なっていて、身体の幅はもしかしたら僕のふとももくらいかもしれません。それから……」
「……、……」
「それから、……きっと、ヤツの被害者なんですけど。ヒトが石化してた。石化、してました。せ、石化してたんですっ。あのっ」
「焦らなくて結構です。どうぞ、落ち着いて」
「あぁ、……はい。…………以上が、モンスターの特徴です。巨大な半透明の卵の中にいる、絡まったようになった蛇。もしかしたら石化を使うかもしれない。この情報で、検索は可能ですか?」
「……、……」
彼女は、少し俯くようにして考える。それから、すぐに、
「検索結果は十分に絞り込めると思われます。資料のご準備にはおよそ二二分五十秒程度を予定いたします。こちらでお待ちになられますか?」
「……、」
いいえ、と僕は答えた。
「この場で別の活字の検索と、お分かりでしたらそこのカギをお願いしたい」
「了解いたしました」
「バスコ共和国ストラトス領ジルハ街道付近の危険エネミー発生の記録にアクセスしたい。該当する資料が、司書さんになら分かりますよね?」
「……、……」
首肯を、彼女は返す。
「では、そのカギを――」
「レオリア様」
彼女が、妙に雰囲気を変える。
いつもの儚げな様子ではなく、その目がまっすぐに僕を見据える。
「――バジリスク=オルムの討伐記録をご確認になられるのですか?」
「…………。」
バジリスク=オルム。
聞きなれぬ名だが、どちらも僕の前世に存在する単語である。バジリスクとは石化の毒を持つ蛇のことで、オルムとは、確か、どこかの神話に出るミミズのことだっただろうか。
つまりは、どちらも非現実の魔物の名前だ。異なる二種のフィクションの名を冠する「何か」を、彼女は呼んだ。
……ここで察せぬわけはない。
あの「蛇」の名こそが、彼女の言ったバジリスク=オルムに違いない。
「まさか、ご存知ですかっ」
「詳しくは存じ上げません。どうか、ご静粛に」
そう諭されて、僕は窓口に乗り出した身体を諫める。
そして改めて、――彼女の眼を見る。
「司書さん」
「はい」
「どうして、名前をご存知なんですか?」
「……。」
彼女は、
僕の返答に対して、
「――レオリア様は、私共にとって特別なお客様です」
「……、……」
と、
……それだけ応えた。
「それは、……すみません、どういう?」
「いいえ。これ以上はお答えできかねます。それよりも」
――この部屋に行って、この数字のある本棚をお選びください。
そう彼女は僕に短く告げて、そして直ぐに、視線を切った。