02.
不穏。
それが、目前の孔から、煙の如くして立ち昇っている。僕は不可思議な感覚で以って足下の、日向と日陰のその境界線を踏み越えるのに躊躇する。
「……、……」
後ろを振り返る。妙に、今までと比べて静かに思えたためである。
と、そこには――、
「……はは、なんだこりゃ」
森の生物全てを並べて揃えたような一群一列が、一様に、恭しくこちらに首を垂れていた。
「……、……」
『みゅう、みゅう』
先ほどの気魄を失い、見た目通り小動物チックに怯えた一匹が、惧れたようにこちらに瞳を上げる。
……なるほど。
『みぃ、みぃ……』
「ああ、察した。言葉が分かるなら君らは帰れ」
つまり、――この先には外敵がいる。
僕はそんな折にあるこの森にて、武力と慈悲を彼らに先ほど示してしまったわけである。
『みぃみぃ』
「分かるなら帰りなさい。分からないなら蹴飛ばすぞ? 一応言っておくと、助力は足枷でしかない。僕はここで正体不明の『外敵』と一戦交えるつもりはないし、様子を見たら一度帰ってゆっくり体勢を立て直す。その撤退に、こんな大所帯じゃ邪魔になるだけだ。ほら、入り口だってあんなに狭いしね?」
『みぅ……』
野生相手に理屈を説明する、というのは妙な感覚だ。
それでも、
『みぃ!』
彼らは、理解をしてくれたらしい。僕の言葉を受け取った「彼」が何やら後方一群に指示を飛ばし、……そのまま、隊列に加わって僕に礼を送った。
『みぃ』
「見送りは結構だ。各位自分の生活に戻りなさい。……気に病むことはない。むしろ感謝をしたいところだ。僕も、たぶんここに用事があった」
彼に感じた理性を僕は認めることにして、そして彼らに指示を飛ばす。すると、先ほどの整序極まる一列が次第に解れ、彼らは、それぞれ木立の奥に姿を消した。
僕は、
「……さて、どうしたものか」
言って、今一度洞窟の「孔」を見やる。
そこには変わらず、昼を塗りつぶす闇色が沈殿しているのみであった。
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見分したところ、孔は、薄岩が階段状に積み重なるようにして地面の下へと続いているらしい。
風が通る様子はなく、ひとまずは行き止まりに続いていると考えていい。
「(しかし、規模は分からないし、奥にいる『外敵』何某の正体も不明だ。……ここは一旦、グランとパブロを呼ぶべきか?)」
少し考えて、僕はその選択肢を否定する。
なにせこの先にいるのは丘の生態系一つが怯えて助けを乞うような手合いだ。僕やあの二人の身の安全以上に、まずここで推理をすべきはいなくなった行方不明者の安全の、――更に言えば、その結末だ。
「(……過保護かもしれないけど、子どもを、人の死体があるかもしれないところに連れて行きたくないよなな)」
当たり前の予測として、行方不明となった人物の身柄は十中八九この奥にある。察するにその何某氏はこの丘に出かけた際、見慣れたここが様変わりをしているのを確認して孔の先に進んだ。或いは、率直にこの木立の中で例の「外敵」に襲われた可能性もあるか。
……どちらにせよ、ストラトス領がこの件を行方不明事件として扱っている時点で、――つまりはストラトス領が未だに被害者の行方をつかめていない時点で、その人物がどこか別の集落に逃げ込んだ可能性は皆無である。これは、不要な混乱を避けるためにあの衛兵には言わなかったことであるが。
さてと、では選択肢は二つ。
進むか、退くか。これだけだ。
「……じゃあ、いきますか」
この身を不用意に危険に晒すことは本意ではない。自分自身この第二の生はどこまでも惜しいものだし、それでなくても僕はこの領の時期党首である。これは間違っても無意味に散らしていい責務じゃない。或いはそれ以上に、ただの私情としてだけれど、母を一人遺すのは絶対に嫌だ。
ただし、――それらは全て僕が危険に晒されるという前提の話である。
僕にとっての危険地帯とは、今まさに飛び道具が飛び交う流れ弾の最中か、或いは察知不能の暗殺者の刃の圏内、それだけだ。
目に見える脅威は、僕にとって脅威ではない。なにせ、僕には自由に呼び出せて即座に逃げ込める絶対の安全地帯があるゆえに。
……何のことはない。一方通行の通路なら、敵が来るのは「道の奥からのみ」である。ならば僕はその敵を一度視認した時点で、先ほどのランチバスケットよろしく図書館結界に逃げ込めばいい。その程度のリスクを背負うだけなら、まだ確実に死んでいるとは言い切れない行方不明者を探すのも問題にはなるまい。
「……、……」
日陰の範囲内へと、僕は日向から一歩踏み出す。
途端に、僕のうなじを寒気が差した。錯覚ではない。この洞窟の胎内には、明確に冷気がわだかまっていた。
「(……いよいよ正体不明だな)」
最悪、洞窟の規模を確認するだけで戻ってくることになるかもしれない。なにせそのくらいめっちゃ怖い。実は僕ってばあんまり狭いトコ得意じゃないんだよね……。いや、行くしかないんだけれども。
「……、」
孔に踏み出した一歩目は、覚悟していた以上に硬質な感触であった。階段状の薄岩は、どうやらそれなりの硬度であるようだ。というか……、
「(階段、なんだよなあ。ギリギリ人為的に見えない感じだけど、でもこれ全然人工物の可能性あるよね? 見たことないけど、この奥にいるのってもしかして魔族とか?)」
静かで冷ややかな洞の中に、僕の思考が反響して聞こえる。
決めた。ここが人工物だって確証を得たらその時点でしっぽ巻いて逃げよう。分かんないけど魔力性の罠とかあったら流石に僕察知できる自信ないし。……いや待て。その場合ってあれじゃないの? 人工物が確認できる深度まで進んだらその時点で罠も張ってるくない? 発見者を生きて返したらここに拠点があるってバレるもんね? あれ? 帰った方良くない?
「(仮に相手が『侵入者とも一旦会話はして見定めておこう』みたいな理性的な手合いだったら非常に助かるけど、……ダメだよなあ、甘い賭けで危ないトコ行こうとしたら)」
考えれば考えるほど臆病風の風速が上がっていく気がする。ダメだダメだ、領民見捨てたら血税でご飯食べる資格ないよ僕。お仕事しなくちゃいけなくなるよそしたら。仕事は前世で懲りたよ僕は……っ。
「(ちくしょうぅ。明日のおいしいご飯のためにぃ!)」
昏くなる視界と感情を紛らわせるつもりで、僕は(音出すのはダメなので脳内で)歌を歌う。お化けなんていないさ。お化けなんて嘘さ。生きていくためには、目をつぶるのも大事さ。
……そうだ、そうとも、よく言うじゃないか僕の前世でも。先人の言葉をいまこそ反芻するときである。昔の人も言ってたよお化けなんていないってね! 五七五でね! そうさそうだよレッツセイ! 幽霊の、正体見たり!
『(かたっ)』
「枯れ柳ぃぃぃいいいいいいいいいいいい!!!?????」
ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……、と、反響が抜けて行く。ちなみにさっきの異音は、僕が小石を蹴っ飛ばした音であった。
「……、……」
……いや。
これはむしろ、逆に考えよう。これだけ分厚く悲鳴を上げたら、誰かいたら絶対飛んでくる。飛んでこなかったとしたらそれはこの奥に誰もいないか、或いはそいつが僕と同じで暗闇に心が毛羽立っている臆病者かの二択である。
後者なら絶対に交渉の余地があるし、前者であればそれはもうとっても素敵な展開だ。そして、誰かがこっちに走ってくる気配を感じれば、僕はきっと半狂乱に陥りつつも本能的に図書館結界に逃げ込むだろう。ゆえにこそこれは、理想的な展開に違いない。
「……ひぃひぃふう! ひぃひぃふう! よぉし来るなら来いやぁ!!」
深呼吸(?)を二つ。そして僕は背筋を伸ばす。
もう、心に恐怖はない。さっきの悲鳴でなんか吹っ切れた。ゆえに行こう。僕は、
――なおも昏く闇を湛える自然の回廊に向けて、まずは一つ、灯火の呪文を呟いた!