(12)
――ダーティー・トラッシュの拠点にて。
「……、……」
ふと、ドアが二、三叩かれ、拠点に戻っていたエイトがそれに応答を上げる。
それから、彼が椅子から立ち上がって見れば、……窓から差す日差しはすっかりと黄昏の色をしていた。
「……仕事が早いネ。良ィ心がけだヨ」
「当然だよエイト。本当にすまなかった。……あの女は無事かい?」
その言葉には取り合わず、まず彼は来訪者、ロベスの差し出す布袋の重みを確認する。
「……結構な気持ちじゃァねえか。ンじゃ、これで十分。助かるヨ」
「そうか、そうかい。よかったよ。これで、ハナシは手打ちにしてくれるんだろ……?」
「あァ。そいでじゃァ、借りン方だ。今からでもいいかい?」
「あ、ああ! 当然だろエイト、何をすればいいっ?」
「ほンの見張りだヨ。しばらく家ェ空けるンで、ヒトの来ねェよーに頼むわ」
「分かった! ア、アレか? 中にいるさっきの女が逃げねえようにってことか?」
「怯えンなって、歯の根もあってねェ。さっきのァもォ手打ちでいいって言ってンだろ?」
「だ、だよな。……ははは」
「ンじゃァ頼んだヨ? でも中にァ入ンじゃねェ。いいか? 外から見張れ、そンで、中からガキが出ンのも外から誰かが入ンのもナシだ。ヨロシク頼むヨ?」
「分かった! 任せてくれ。本当に悪かったって思ってるからよ、借りは返すからよ」
「気張る仕事でもねェさ。ンじゃ一つ、しばらくヨロシク」
この街において、外の倫理や規律は全く通じないのが一般的である。
弱者はサンドバックの生まれ変わりであるのが当然だし、女があれば犯すのが礼儀だし、食事の代金は払う方が馬鹿である。さて、ならばこの街は全くの無法地帯であるのかといえば、……実のところ、この街にも一定の規律は存在している。
この街におけるルールは一つ、全ての人民は「強者」に従う。
それは個人対個人の諍いにおいて、その帰結を死者なくスムースに決めるためのものであると同時に、弱者がこの街で生きるための救済措置のような一面もあった。
ただの弱者はサンドバックだが、強者の庇護下にある弱者は一定程度の人権を持つ。犯されぬ女は確実に誰かの子飼いだし、経営の成立している食事処は、強者の誰かに気に入られた店である。そうやってこの街は、冷戦じみた緊張感の伴う秩序を、ひとまずは確立させている。
「……よォ、相変わらず繁盛してンね」
「ああ、どうもエイトさん。どうぞよろしければ、こちらのカウンター席に」
――エイトのいるその店も、かような事情下における「休戦地帯」の一つ。
ダーティ・トラッシュに唯一対等な態度で接するマスターがいるそのバーは、この街で最も確実なセーフエリアであり、……そんな事情から、あくまで公平な立場で「様々な事業」にも手を出している。
「今日は、なんの用事で? 『情報』ですか?」
「いやァ、食事だネひとまず」
それと、とエイトが布袋をカウンターに置いた。
「あとァ『銀行』だ。仕舞っといてくれ」
「かしこまりました」
袋を受け取った店主が、それをカウンター下に仕舞い込む。その所作は誰が見たって「あそこに大金がある」と分かり切ったものであったが、それなりの人気のうちに視線を注ぐ客は皆無であった。
「お食事代は、こちらの中身から頂いても?」
「あァ。あとァ酒と、もしかしたら情報も貰うかもだネ。信用さして貰うンで、相応引いといてもらえるかい?」
かしこまりました、と店主が言い、背景の棚に並ぶ酒瓶を見分し始める。
「食事は、どのように?」
「昼ァ肉でヨ。それじゃァないのがいいネ。あとァ、そこまで空腹でもねェや」
「では、幾つかつまめるものを用意いたします。まずは、食前酒の方を」
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「しけてんねぇ……」
街の、とある路地裏にて。
彼、ピラーは、すっかり夜色となった虚空に、そう呟いた。
手元にあるのは、やたらと重い「タマナシ」の長銃と、火をつけた「味ナシ」の煙草である。
彼は吸って、それを吐いて、
……どうにもやはり金にはならなそうだ、と。胸中にて独り言ちた。
「なあ、お前らよ? いっそお前らがこれ買ったりしない?」
「…………。」
「こっちは聞くに名高い『テッポー』で、こっちがこの国じゃ珍しい『煙草』なんだが、どうにも買い手がつかねえのよな。今なら、安くしてやってもいいんだけど?」
「…………。」
「聞いてる?」
「きぃ、聞いてるよ、ピラーさん。でも俺たちには、そんなカネ無いって……」
それよりも、見逃してくれないか、と彼は正座をしたままピラーに言う。喋る度、「穴の空いた頬」から血液を吐き出しながら。
「見逃すって、何を? お前ら、なにかいけないことでもしてるのか?」
「いやっ、そんな事ねえよピラーさんっ。でもほら、コイツ、早く手当てしてやらねえとさ……っ!」
正座をする男の傍らには、ボロキレのようになって昏倒している別の男がいる。生きているのかも死んでいるのかも分からないような惨状ではあるが、しかしよく見れば、かすかに胸が上下しているのが分かる。
「お前ら、ノーグースんとこのロベスの連れだよな? 俺は別にさ、聞きたいことがあっただけなんだよ? 何で逃げたんだよお前?」
「逃げたんじゃねえよピラーさん! 俺はただ、一刻も早くこいつを医者に見せようと思ってよぉ!?」
「その頬の火傷、見覚えがあるんだよな。爪の垢サイズの高楼石でも噛み砕けば、ちょうどそんな火傷になるんじゃねえの? それでだ。それ、誰にやられた?」
「誰って、……あの、えっと」
「おいおい何を言葉を選んでるんだ? 何か隠し立てでもしてるのか?」
「違う! 違うよ! あの、……ウチのロベスがよ、なんつーか、借りを貰ったって餓鬼がいてよ、そいつにやられたんだ」
「餓鬼? どんなだ?」
「……女の、餓鬼で。……アンタのっ、アンタのところの餓鬼だ! 悪かった! 知らなくて手を出したんだよ! アンタらの獲物だって知ってたらこんなことはしなかった! 頼むから見逃してくれ! コイツ死んじまう!」
「うーん? 状況がよく分からねえな? ウチらの獲物だって知らずに手を出して? 今はウチのだって知ってんのか? ……あー、さてはアレか。そっちの雑巾はエイトにやられたのか」
「いや、こっちはロベスがよ。焦っちまって……」
「ふーん?」
ピラーが脱力し、正座の男から視線を切る。それを見た男の方は、ピラーの、こちらから興味を失ったような様子に思わず息を吐き――、
「信じると思うか?」
「あ、がががががががががががががッ!!!!!??」
その頬のかろうじてつながっている部分を強引に引っ張り上げられて、吐いた息に倍するような悲鳴を吐き出した。
「ひゃめっ、ひゃめへうれェ!」
「だっはは、なんだってェ!? はっきり喋れボケカスゥ!!」
頬の穴から二指を突き入れて、親指を男の唇に差し込み遠慮なくつまみ上げる。そうすると男の頬が、べりべりと筋肉から剥離する音を上げた。
「ぁぁあああああああああああああああああああ!?」
「嘘ついた顔したなあお前っ? したよなぁ!? テメエどうせ、エイトの野郎を上手く丸め込めたからって俺のことも舐めたんだろ!? ちげえかコラ! あァ!?」
「ふあぇえ! ふぁうあっはァ! ひゃめへぇ!!」
「何言ってんのか分かんねえけどよ! 嘘ついたらごめんだろ普通よぉ!? ごめんて言わねえの? 俺に謝ったりできねえってェ!?」
「ふぁへえ! ふあぁはっあぉお! ぉぇん! おぇんっへ!」
「いやだから分かんねえって、……あー、まあいいや。許すよ。許す。ごめんって言ってくれなくても俺ってば許しちゃう」
「っぁ」
ぶちん、
と、そんな音を立てて男が後ろに崩れ落ちる。その挙動に、或いは風に布がたなびくようにして、伸び切った男の頬がだらりと肉を垂らした。
「許すよ、許す。だけど埋め合わせはしないとな? するよなあ?」
「ふる! ふるぉお! ひゃめてくれぇ!!」
「よしよし、その言葉が聞きたかったんだ俺は! じゃあ一つ、頼み事な?」
ピラーは満足げに言ってしゃがみ込む。
「――――。」
男の視線の高さに、敢えて合わせるようにして。
そして、彼の瞳孔をのぞき込んで言う。
「エイト、殺してこい。……あ、俺の差し金だって言うんじゃねえぞ?」