(11)
……暴力の音が克明となる。
エイトはその鳴る方へ、子どもが手を叩かれて誘われるように、素直にまっすぐに遅々と行く。
辿る道筋は、教科書通りという他にないほどの「裏通り続き」であった。この街を知らぬもの、或いはヒトの悪意を知らぬものがこの街で逃走をしようとすれば、きっと誰だってこの道を通る。そのまさしくド真ん中のルートを、エイトは進んでいた。
「(悪ィ予感ァ的中だな、こらァ)」
そもそもこの街の裏通りは全て「加害者側による設計」である。逃げる羊の足をいかにして止めるか、いかにして先回りするか、いかにして、逃げるその背中を見つけるか。この街の構造はどこまでも雑多だが、ただ一つ「被害者への迷路」という意味で言えばどこまでも整然としている。
ゆえにこその、これはエイトの慢心であった。
この街では、捕まった弱者は決して逃げられない。それはエイトら強者側以上に、弱者にとっての「常識」であった。だからこそエイトはホームに着いて気を緩ませて――、
「(甘ェ、マジでオレァ甘ェ。……気の抜け始めたってェ自覚ァあったンだがネ)」
しかしそもそも、あの少女には「常識」がない。
ならば、彼女がどうするかなんて、最初から分かり切っていたことだ。
……次の角を、左に曲がる。
布袋を叩くような音が幾つも。それらが刻一刻と輪郭を鮮明にする。日差しの匂いに、汗と血液と、何かくすんだような匂いが混ざりこむ。
そして、
――その先の光景を目視する直前に、エイトは、
「……爆発音?」
思考を空にして、思わず足を止めた。
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少女と腰の引けたチンピラが衝突するのを、ロベスは冷静に俯瞰する。
「(ホントに肝が据わってるな。普通、俺への警戒を完全に切るかね?)」
その少女は既に、ロベスを完全に思考から切り離しているように見えた。察するに彼女はさきほどのロベスの様子や物言いを見て、その『意図』について看破したということらしい。無論ロベスにしても、それが都合の悪いことというわけでもない。未だ救援を求めてこちらに視線を振るチンピラを冷たく睨みながら、彼はただすら戦況の一歩後ろで光景を見下ろしている。
『意図』。
つまりは、あの少女の戦力分析である。乞食一歩手前の身の上ながらに「この街の冒険者」を一手に追い返したその能力。状況を冷静に掴む思考力と、大人三人の威勢に、あまつさえ激痛に悶えながらでも食って掛かるその胆力。どれをとっても一級品だ。ロベスはその、「出どころ」が知りたかった。
……或いはあの美貌を見れば、案外彼女はどこかの貴族の出である可能性も考えられる。不詳の貴族が没落などして、彼女は、その身に貴族水準の教育を宿しながらに野に放たれた。そう思えば、「先ほどの爆発の手品」にもある程度想像が付く。あれは魔法ではなかったが、「魔力の弱い貴族が護身用に持つ何らかの魔法具」という線なら納得できる。
「(さてね)」
思考を区切る。
彼は、強いて意識を目前に割く。
――少女が今、
「――――っ!」
すっかり腰の引けたチンピラに突貫をした。
「っは! ナメんじゃねえ!」
しかし流石に対格差がありすぎる。少女の体当たりじみた突貫は、結局、男の体軸を僅かもずらせず捕まえられる。……いや、
「んな!?」
それは、体当たりではなかったらしい。ラグビーボールのパスでも受けるように少女を捉えていたはずの男の両腕が、すんで空を切る。勝利を確信していた男の方は、それだけで彼女の姿を見失った。
「(上だ、バカタレめ)」
それは、実に鮮やかな三角飛びであった。少女が傍らの壁を蹴って宙を舞い、そしてそのまま、曲げた膝で男のこめかみを狙っている。その一連を俯瞰して眺めるロベスからすれば、チンピラの無様に溜息も禁じ得ない。
――ただし、これで終わりではあった。
「っご!? クソガキテメエ!」
「ッ!?」
とび膝蹴りの衝撃に貫かれた男の意識は、確実に一瞬消失していただろう。しかし、一瞬だけだ。男ははっきりと瞳孔を揺らしながらも、それでも強引に意識を取り戻し、未だ虚空にある少女の足を乱暴に掴んで――、
「!? っ!!????」
そのまま振り回す。あの小柄な少女からすれば、何せあんなにも最高の一撃を入れた直後である。自分の見る光景が唐突に攪拌されたことに、わけもわからず思考を手放してしまったに違いない。
……如何な少女が不意を突き、そして一番の体術を打ち込めたとしても、あの両者にはそもそも圧倒的な対格差がある。少女の攻撃はあまりにも「軽く」、そしてあのチンピラは、腐ってもこの街の構成員の一人であった。空手で打つような攻撃では、どうあったって有効打に届くはずがない。
「(あのガキ的には、まあアイツぶっ飛ばしてから俺との交渉にでもつくつもりだったんだろうな。そうじゃなきゃ相手に一撃入れようなんて悪手は選ばない。走って逃げるのは最初の一手から諦めてたってトコロか。……やっぱ、結構なタマだよなぁ)」
玩具のように振り回され、血肉を撒き散らしながら周囲の壁を削り飛ばしていく少女を眺め、ロベスはのんびりとそう思考をする。……問題は彼女を今日の肴にすると「宣言」しまったことであるが、どうにか今宵を生き延びてもらえれば、自分の手札に加えるのもやぶさかではないのに、と。
……そう「思考」をしていた彼の脳が、
空転をする。
「 」
「よォ?」
それは、「錯覚」であった。
ロベスの身に何らかの具体的な攻撃が降りかかったわけではない。ゆえに思考が空に転じたように感じられたのは錯覚だ。彼の身に、何かが起きたわけではない。そうではなく、ただ、
――ただ、彼の肩に「手」が載せられただけだ。
「あん、た、か」
「そォだネ。オレだ。楽し気じゃン? 何してンだヨ?」
「――――。」
友人にそうするように、気の置けない仲の相手に親愛を示すように、
掛けられたその「手」、その「声」が、ロベスの血の気を根こそぎ奪い取った。
「聞いてくれ、……きい、聞いてくれ!」
「なンだい?」
「知らなかった! アンタの獲物だって言うんだろ!? そう言いたいんだよな!? 知らなかったんだよ! 頼むから見逃してくれ! 借りでいいよ! なんでもする! だから許してくれ! なぁ!?」
「……、……」
耳元で、溜息が鳴った。
紫煙の香りを残す、錆びた匂いがする。それにロベスは、うなじにあてがわれた凶器をどうしようもなく想起した。
「なァ、よォ?」
「なんだ! なんだよ! なんだよエイト! なんでも言ってくれよ!」
「ソレ、やめろ」
言われてロベスは、ようやく視野を取り戻す。暗転していた光景が色を取り戻し、そして彼は目前を見て、――そして改めてパニックを引き起こす。
未だ、
未だあのチンピラは、嗜虐心に支配されたような表情で少女を振り回していた。……ふざけるな。本当に、この状況に気付かないのか? どうして貴様はいつまでも脂ぎった顔で玩具に気を取られている? やめろ、今すぐやめろ。今すぐに、今すぐやめろ!
「っぁらあ!!?」
「っか――!!??」
動転したままでロベスはチンピラを殴り飛ばす。それで即座に男の意識は刈り取られたが、ロベスが男の気絶に気付くことはない。倒れた男の腹を蹴り、鼻を蹴り上げ、飛び散った肉片一つ一つを徹底的に踏みつぶし叫ぶ。
「悪かった! コイツも気づかねえでよ! 俺の不始末だって認めるよぉ! だから許してくれ! 本当に知らなかったんだよ! ただ俺は、この街でその女の顔を見ると思わなくってよ!? 気持ちが焦っちまったんだ! なんでもする! これは借りだからよ! 本当に何でもするんだ俺は! だから、だからエイトぉ!?」
「良いヨ。やめろホラ? そいつもう死んでンじゃねえのか?」
「あっ、……はは、ははは」
エイトの言葉に、ロベスはようやく我に返る。しかし足元の肉袋への感慨はそれ以上示さず、脂ぎった「笑顔」のままで、彼は靴底の血を石畳に擦って拭った。
「…………ま、まずはよ、治療費を出す。いくらだって出すから言ってくれ、そいつを治すんだよな? いくらかな? 今手持ちがねえから、後でそっちに顔を出すからよ……?」
「……、……」
返らぬ答えに、ロベスは背骨を丸ごと引き抜かれたような感覚になり、……それでもどうしようもなく振り向いた。
その先、振り向いた後方の光景にて。
……エイトはしかし、こちらから視線を切っていた。
「……治療費ァ、気持ちでいいヨ」
「わ、わかったよ、エイト……」
「オレァ行くからヨ、今回ァま、借りで覚えとくぜ?」
「ああ、ああ! 当然だ! 絶対に返す! 本当にすまなかったエイト! 本当に! 許してくれてよ、ありがとう!」
「……、……」
顔中に脂汗を流して叫ぶロベスに、エイトは一つ鼻を鳴らして、
――それから、傍らでズタ袋のようになって痙攣している少女を担ぎ上げて、そのまま表通りの日差しに消えた。