(09)
「はぁ、はぁ。っはァ!」
毛布に身を包んだ少女は、はだしの足裏が石畳に擦れて血を吹き出すのも構わず走る。
この野暮ったいボロ切れをその辺に脱ぎ捨てられたらどんなにいいか。それは、彼女がその肺のはち切れるような全力疾走のうちに幾度となく思ったことであった。しかし無論、そんな一手を選べるわけもない。
……森の、彼女の拠点への最初の襲撃者は、西から来た。
次も西、その次も西。更に言えば、怪我をさせて追い返した連中が報復で再び顕れたのも西からであった。
聡明な彼女でなくても分かる。襲撃者が来る『西』、つまり『この街』は今、自分の敵で溢れかえっている。
自分を狙う襲撃者、自分が追い返した報復者、或いはそれ以外の大抵の連中。この街はまさしく、彼女にとっては敵の胃袋の中であった。
ゆえに、素性を往来には晒せない。足を止めることも、呼吸を整えることも、裏路地をたった一歩はみ出すことさえ彼女には許されない。彼女はただすら、そのボロ布を強く首元で押さえつけ、蒸れる汗さえ意識に昇らないほど全力で走っていた。
それが目立っていけなかったのかもしれない、と。彼女は「その瞬間」、そう思った。
「っごぁ!??」
裏路地の曲がり角から、何か「黒いものが飛び出したように見えた」。それが強かに少女の鼻面を叩く。ただ一瞬で彼女の視界がスパークじみた衝撃感に埋め尽くされ、その澱の向こうに彼女が見たのは、擦り切れたボロの「靴底」であった。
「――――。」
小さな身体が、虚空に舞ってエビのように反り返る。それを見た誰かがどこかで下品な笑い声をあげたような気がした。そんな錯覚じみた感覚が彼女に、殆ど手放しきっていた「意識」を強引に掴み直させる。
「――ッ!?」
「よォこのクソ餓鬼! 俺のこと覚えてるかオイ!」
声は一つ、人影は三つ。
どれも少女に倍する上背で、転がり地に伏す彼女を見下ろしていて、またその暴力的な体格は、狭い裏路地を埋め尽くさんばかりの圧力を放っていた。それが、――未だ先ほどの衝撃の最中にいる少女の身体を、まるでフットサルのパスボールを中継でもするようにして思い切り蹴り飛ばした。
「がッ!!???」
視界が幾度もひっくり返る。身に余る衝撃に少女は抗いようもなく弾き飛ばされ、裏路地の壁に跳ね返り地に落ちる。
「い、……っでぇ、」
それだけ呟く。そして地に伏したまま、片腕で何とか上体を起こそうとする。
視界がぼやけて、光景が判然としない。先ほどなら靴底の擦り切れ具合さえはっきりと見えたはずの彼女の視界は、しかし今、すりガラス越しに見たそれのようにして全くのモザイク調である。そして……、
「――ぁ、ぁあぁあああァあッアァガアアアアアアアアアアアアアアアア!!?????」
身体の中を暴れまわっていた衝撃が消えると、それに立ち替わり、全身が痛みの感覚を思い出す。彼女のコントロールを離れた四肢が勝手にのたうち回り、腹を抱え込み、身体ごと「くの字」に折れ曲がって硬直する。腹のド真ん中に灼熱の鉄球でも埋め込まれたかのように、いつまでたっても消えない鈍痛が視覚と聴覚を塗りつぶす。地面に投げ打った側頭部が踏まれたような感覚があるが、それに意識を裂くことさえできない。先ほどの衝撃に倍する濃度の痛みが、彼女の腹部を起点に身体中を駆け巡った。
「ギャハハ! 足バタバタしてるやつリアルで初めてみたよオレ!」
「死ぬのかオイ! オラ! 死ねよオラ! クソガキィ!」
「死なすなアホタレ。嬲るのは結構だが全部服で隠れるところにしろよ? ツラがお釈迦になったら売れるモンも売れなくなる」
少女は、必死に痛みを身体から追い出す。そして、何とか取り戻した思考をこの状況の理解に回す。
まず、これは絶対に報復だ。ぼやけた視界に移る三つの人影は判然としないが、耳鳴り越しの声の一つには聞き覚えがある。最後のあの声、他の連中の頭に血が上ったような声とは違う、粗暴だが理性的な口調。あれは間違いなく、彼女が森の拠点で追い返した襲撃者の一人の声だ。
「ダハハハ! 旦那を追い返したって言うから俺らも覚悟決めてましたけどねェ! こりゃこのままシメて終わりなんじゃないですか!?」
「バカヤロー油断すんな。普通に考えてみろよ、俺がこんなガキに普通に負けるわけがねえだろ?」
「っつーか旦那、よくよく考えたらこいつほんとにあの森の『賞金首』なんすか? なんでこの街にいるのか分かんないんすけど」
「見間違えるかよ。ホラ」
冷静な声の男が、少女の毛布を乱暴に剥ぎ取る。周囲の二人はその、苦悶に目を見開いてなお美しい彼女の相貌に半ば無意識で小さな吐息を漏らした。
「よお、ノーグース中の変態を集めるぞ。ここで手に入ったのはラッキーだ。今日の肴は、こいつにしよう」
その言葉に、「売り物にならなくなる」だの「今のうちに使っとかねえと」だのと好き勝手な笑い声が上がる。少女は、激痛に呼吸もままならないままで、湧き立つ不愉快なやり取りに思考を煮やす。
「(うごけねぇ……っ。手も足も言うことを聞かねえ! クソっ、立ち上がれたとしたってこの状況じゃどうしようも……っ!)」
途切れ途切れだった思考が文脈を為し、それとともに少しずつ、身体の感覚が戻ってくる。激痛以外の何も返さなかった四肢が地面の冷たさを思い出し、側頭部が、押し付けられた靴底の不快な感触を思い出す。
そこで、
「(――――。)」
感覚と共に、彼女は「一つ」思い出して、
正常に立ち戻った思考が、「ソレ」に賭ける他ないことを真っ先に理解した。