(08)
食卓上の皿が、もうすっかりと空になって。
しかし、いない店主に気を遣うこともないとばかりに、彼らはそのまま店に居座っていた。
「――こっちに来てしばらくは、あの村の近くにいたよ」
彼女の話すのは、この世界に「来てから」の来歴である。昨晩のエイトは話が長くなるのが面倒でそこから先を聞かないでいたが、しかし彼女が言語理解スキルの稀有性、有用性、換金性などを知らぬとなると話が変わる。
スキルの価値を測れず、あまつさえ聞かれたら素直に答える。ともすれば彼女は、この世界における『常識』にマトモに触れてすらいない可能性さえあった。
「あの村の近くってのは?」
「あの、魔物の群れに襲われて壊滅した村な。始めは身内に入れてもらえねえかと考えて中に這入ってみたんだが、どうにもあの村は景気が悪かったらしい。よそ者の私を匿う余裕どころか、置いておくスペースさえないような状況だった」
近く、という表現は奇妙に聞こえたが、少女の物言いでエイトは概ねの事情を理解する。
村への参加は拒まれても、彼女からすればその「ヒトのコミュニティ」はようやく見つけた命綱だ。「加工され利便性や安全性を拡張した食品や日用品」との縁を、そう簡単に手放すことはできなかったに違いない。たとえそれが、「非参加者」という身の上であっても。
「……、……」
「悩んだが、とかく生きなくちゃ。だから私はあの近くの森に居ついて、夜に紛れてメシをくすねた。しかしどうにも景気の悪い村が相手なんで、取れるモンは残飯紛いだし、それでも向こうサンは必死に私を追いかける。だもんで私も厭いが出てよ、出立するだけの用意を集めたら、さっさとあすこ辺を離れてやるつもりだった」
「誰か、人との関係みたいなンはなかったのかイ?」
「ないね。なかったよ。こんなに長く言葉を話すのは、あんたとが久しぶりだ」
――だから彼女は、話し始めればこうも饒舌になるのか。とエイトは思考の片隅で納得する。
「そういえば、私がここを『違う世界』だって思ったワケだが、いや、驚いたよ。この世界には魔法があった」
「? どーいうことだヨ」
「どれもこれも言葉通りだって、私の言うのはね。……私の世界には魔法はない。例えば、村を襲った魔物、つまりは狼の群れだけど、私の知る狼ってのは火を吹いたり毒を吐いたりなんざしないのさ」
「……、……」
「当然、むこうじゃこっちみたいに目を凝らしても靄は見えない。生きるにあたって私は、まずその辺の魔物程度には魔法を使えるように練習したね。成果は、まあ、人と比べたこともないんで自分の程度が知れんけど」
でも結局、火を吐いたり毒を吹いたりはできなかったよ。と彼女。
「……話を戻すが、村で用意を集めるのは苦労した。食い物をくすねるのもそうだが、何よりどうにも情報が集まらない。私としては近隣の村の居場所一つくらいすぐにでも話に出てくれるつもりだったんだけどね、景気の悪い場所はヨソとのやり取りも少ないらしい。どれだけ聞き耳を立ててみても、ヨソの村なんかがどこにあるのかって話は聞けなかった。……そろそろしびれを切らして、大人一人捕まえて聞き出してやろうかって頃にさ、あの村が壊滅した」
食べ物の貯金も満足に溜まってない頃で、ありゃあ困った。と彼女はジョークを言うように茶化して、
「悩んだが、ひとまずは方針を決めるまでの暇のつもりで、あの森ん中の拠点に引きこもってたよ。踏ん切り付けてあてずっぽうにでも出発しちまうか、或いはいっそ、本意気で森の拠点を広げて、狩りや採取で生きていこうか。しかしまあ、そんなのを悩む時間も長くは続かなくってよ、……その辺は、あんたらも事情が分かるだろ?」
「そりゃァ、あれか。奴隷狩りだ?」
「そうとも。ハイエナどもが生き残りの身柄にたかりに来た。他には火事場荒らしの類や、どっちの用事も済ませに来たって言う風な不信心者がね、それはもうたくさんだ。……当然、私からすれば迷惑この上なくてさ、まずは私の拠点がバレて、私は、この辺りにいられない身柄になった。襲ってきた連中を何人かのして帰しちまったからね。報復が来る。……んで、そいつらとやり合ってるうちに、じゃあいっそ、村じゃ集められなかった近くにあるような別の街の情報をこいつらから聞けばいいって気付いてさ。そこからは逆に、私が森に罠を張った。……ほんの何日の諍いだったが、ずっと気を張ってたもんでやたらと長く感じたね。どうにも捕まえ損ねてみんな逃げ帰っちまうと来て、仕方ねえから路線変更だ。連中が来る方を探ってみようかと方針を変えたわけだね。何せ人が来るってことは、来て帰る方には村や街がある。当然の帰結だろ? 森からそこまでの距離は分からんが、拠点も捨てなきゃ一生報復屋とイタチごっこだ。覚悟を決めて、私を狩りに来た連中から少しずつ物資を拝借して、それを集めて、……そんで、そろそろ森を出ようかと思った頃に出会ったのがあんたらだ。その先の話は、話さなくっても構わねえよな?」
「……。」
その先。つまりは、彼女がほとんど手も足も出ずにエイトらに捕縛され、馬車で日を明かし、この食事屋で食卓を共にするに至るまでの話である。
「この世界の魔法には驚きっぱなしだが、それでも最たるはあんたらだよ。何が起きてるかてんで分からねえし、分かるヤツは逆にふざけたスケールで、どこまでも一目瞭然と来る。まさか私が、あんたの相方の頬に青アザ一つしか作ってやれないとは」
そう嘯く彼女にエイトは、曖昧に表情を濁して答える。しかしながらこの街に住む人間であれば、「ダーティ・トラッシュのピラーに一発入れた」という事実の価値は誰にしたって理解できる。彼らはこの街において、ある意味では「英雄」とも肩を並べるような存在であるゆえに。
「流石に観念したよ、ありゃ無理だってね。勝てる気がしねえや。逃げられる気もしねえしよ。それで、私はさ? ――。」
「……、……」
「…………これから、どうなるんだ?」
少女の流暢な語り口が、
――唐突に鳴りを潜める。
それで、エイトはふと、耳鳴りじみた静寂を聞いた。
「……」
彼のうなじに、かすかな厨房の音がかかる。怜悧な刃で肌を撫でられるような、それは不快な静寂であった。だからエイトは、どこか急かされたような口調で、彼女の問いに率直に答えた。
「言ったろ? 奴隷になンだヨ」
「…………。」
「オマエの見てくれなら、娼館落ちってこともねェヨ。金持ちの家にでも嫁げるンじゃァねえかネ」
「…………。」
「せーぜェ今のうちにヨ、媚の売り方でも学んどけ。オマエは|あのスキル《》もあるし、役に立つウチァ死にァしねーヨ」
「…………。それでも、いやだ」
ざく、と湿った音が鳴る。
音を聞いたエイトはまず、その音にナイフやフォークで鳥肉のグリルを突き刺した感触を思い出す。ふと、自分の右足首辺りにじっとりとした熱を感じ、それが急速に冷たさに変わり、
――彼はそれでようやく、何が起こったのかを理解した。
「あ……っぐ!?」
「悪いなにーさん。ごちそうさま」
それだけ言い残して、少女は弾かれたように店を出る。それをエイトはどうしようもなく、苦々しい表情で眺めることしかできない。少女の後姿が店の入り口から向こうへ消えて、人のいた名残も次いで尾を引くように霧散して、店内の静寂がもう一段階濃くなって、……それでようやくエイトは、熱のこもった荒息を吐き出し、自身の足元を確認した。
「チックショウ。やられたァ……っ」
……思い出す限り、
少女の両手は、最初から最後まで卓上にあった。
ならばこれは、察するに彼女が足の先でも器用に使ってしでかしたモノらしい。エイトは、自分のアキレス腱を綺麗に貫く一本の箸を見て、
――怒りや痛みよりも先に、まずは厚ぼったい嘆息を、喉の奥から吐き出した。