(02)
喫煙室の窓の外。
青く丸い月が遠く、夜空の最奥にある景色。
そこに一つ、硬質で繊細で、そしてキラキラとした音が響いた。
「この音って……」
「……電気ギターかい?」
そう、それはギターの音であった。
それが恐らくは、階上どこかの一室から響いている。
アンプ(?)を通した音量だが、歪みのない音色で、軽やかな細い鉄弦の印象だ。ロックで聞くギターと比較すれば、その音はもっとずっとすんなりと鼓膜の奥へと浸透していく。
主張のない開放弦のワンストローク。そんな音だ。
「おゥ、行ってみるかい?」
「あー、まあ。そうするか。……多分レオリアだろうし」
そんな会話の節に、今度はもっと旋律寄りのフレーズが聞こえてくる。
短音が幾つかと、それをまとめ上げるようなストロークが一つ。淀みのない指運びが、ここから聞いているだけでも脳裏に鮮明に映るようだった。
夜空から聞こえるそれに、
「ンじゃヨ」
「……、……」
……背中を向けて、喫煙所の戸を後ろ手に閉じる。
そうすると、ギターの音は殆ど聞こえなくなる。ここからだと、戸の向こうに耳をすませば微かな音量が聞こえる程度だろうか。
「……、」
対する施設内は、とても静かだ。
夜気の揺れる音一つもない。それが妙に圧迫感に感じられて、俺は強いて耳を澄ます。
……絨毯越しの足音がくぐもって鳴る。
宵闇を浴びた通路に、流動した空気がふと音を立てる。
ユイの先行く姿から、
――紫煙の残り香が、ふわりと届く。
「上なのァ分かるが、しかしさてね。どっから昇ったらいーもんか」
「確かに、無駄に広いよな。……近づいて行って、さっきの音が聞こえてくれたらいいんだけど」
とまあ、そんな道中を経て。
「……、」
見つけた階段を二つ三つ上っていくと、はっきりと音が近付いてくるのがわかる。
……また、向こうでも何やら演奏に熱が入ってきたらしい。控えめだった短音のフレーズには次第にストローク音が混ざり始め、またアタックの強さで、時折音が歪んで響く。
「こっちかな……?」
「らしィね。そこの部屋じゃねえのかい?」
と、ユイがとある一室を指す。
確かに、この音は向こうから聞こえているものらしい。改めて様子を見まわしてみると、官営施設なりのシンプルな造りの通路が確認できた。
「(……どの扉にもネームプレートがある。私用オフィスの階ってところか?)」
果たして、
……音の出どころと思われるその一室の扉には、予想通り「領主室」の文字があった。
「……、」
聞こえる音は、先ほどまでの「フレーズを手探るような」途切れ途切れのモノではない。明確な曲調があり、またその奥には、彼女のモノらしい鼻歌なんかもあるだろうか。
「(いい曲じゃァねえか。ジャズなようでジャズじゃねえってかねェ?)」
「(……なんで小声?)」
俺が聞くと、彼女は、
「(分かるだろい? ――女神センセーサマの吃驚ヅラ、見たくねーかい?)」
「(――確かに)」
ということで、ユイが努めて静かに扉を開ける。
それから、……あちらに気付かれた様子もなかったので、そのまま更に戸を押して、
「――――。」
その向こうにあったのは、
――なるほど確かに、女神の威光であった。
「うん? ――ああ、お二人とも」
まず、その部屋は明かりを落としたままであったらしい。
正面の広い窓は解放されていて、その向こうからは、月が柔らかく室内を照らしている。
ほの暗い部屋の片隅で、彼女は、
――ただ窓際の壁に寄りかかって、俯き加減でギターを弾いているだけであった。
「……。」
しかしそんな姿が、広い窓から降りる「月明りの枠」の外で、影に塗れ、冷涼な青い香りをふわりと滲ませる。
金糸の髪や睫毛が、時折光の加減で煌めく。
次いで持ち上がる視線の奥には、宵闇よりも純粋で、そして透き通った湖畔の色がある。
月の影が降りる室内に、流れて積もる夜の風に、――彼女の姿は青白い闇と同化している。
絵画じみた光景だ、と俺はふと思ってしまう。
それほどまでに、今宵という世界の色彩が、彼女のために設えられたものに見えたために。
「……」
「起こしてしまいましたか? それならごめんなさいですけど」
「……いや、起きてきたら聞こえてきたんだよ。それより、結構な部屋だな」
言って俺は、彼女から目線を切る。能動的にそうしなければ、もしかしたら俺はいつまでたってもあの「絵画」に見入っていたかもしれなかった。
はてさて、
「――ええ。どれも私のお気に入りのコレクションですよ」
そこにあったのは、いくつものギターと、いくつかの音響機器。そして、それ以上に数えきれないほどのエフェクターの陳列であった。俺自身そこまで楽器に詳しいわけではないが、ギターはどれも、俺が前世で見たものに似たシルエットをしていた。
……それで言えば確か、彼女、レオリアの使っているのはテレキャスターとかいうモノであっただろうか。
「大した量だ。全部アンタが作ったのか?」
「ええまあ。コレは、私の前世の数少ない趣味の一つでしてね」
それから、……ちなみにそちらはどうして? と彼女、
「察するに、タバコミュニケーションってトコロですか?」
「懐かしいフレーズだけど、そんなところだ。……あれ待って? もしかして臭う?」
「あー、いえいえ。ここは下の喫煙所の真上なんでね、窓が開いてると匂いで分かるんですな」
キラキラと音を鳴らしながら、彼女はそう応えた。
「……ンでよ、お邪魔しても構ァねーかい?」
「おっと、気が付かないですみません。どうぞどうぞ」
俺の背後からユイが言って、レオリアがそれでピックを下ろした。
それを得て、まずはユイが、俺を追い越すように先に部屋へ入る。それからすぐに、後ろ手にしていた一升瓶を、レオリアに「紹介」した。
「昼間言ってたおべんちゃの礼なァ、持ってきたァ良いが出すのを忘れてたんでヨ。良けりゃァどーだい?」
「……まさか、まだ飲みます?」
「なんだァ意気地のねェ。アタシらはね、宵越しの酒は持たねぇってハナシになってんだヨ」
「……、……」
そう言われては、引くのも癪だ。とレオリア。
「徳利なんて洒落た物はないんですが、グラスで構いません?」
「ヨゥとも。ちまちま飲むんじゃァ味気が足りねえわな?」
「では、用意させていただきます」
と、レオリアがギターを下ろす。その間にユイが我が物顔でソファに座ったのに習って、俺もそのように。
「あァ、……肴がねェや。しまったね」
「……えー? 別にいいんじゃね? 今日なんてもう死ぬほど食ったじゃねえの」
「一応クッキーとかは置いてたはずですよ。……まあ、そのお酒に合うかはわかりませんが」
「クッキー! いいねェ、甘味は何にアテても一等と来てヨ!」
ということで……、
テーブルには人数分のグラスと、それから平皿盛りのクッキーが用意された。
まずはそれに、ユイがもしゃもしゃと手を付ける。
……ちなみに手掴みで豪快な食べっぷりである。たぶんクッキーってそうやって食うもんじゃないと思うんだけど。
「ウメェじゃねーの。良いヤツだァ?」
「……、……」
ほら見ろレオリアドン引きだよ。……ってのは置いておいて、
「ンじゃ、失礼しましてねェ」
宵闇積もる室内に、
――こぽこぽと、きれいな音が響く。
「……、」
ユイ手ずからに注がれたその酒は、……匂いの感じ日本酒で間違いないだろう。青い月明りをそのまま落とし込んだような、透き通った色の品である。
甘い香りは、しかし鼻孔に残ることなくさらりと消える。窓から差す風よりもなお繊細な風味らしい。俺はそれに、すっと消えるような口当たりを脳裏に思う。
「気にィったら、おたくらも、今後とも御贔屓に一つ」
……氷を落としてやっても旨ェぜ? とユイはにやにや笑う。
なるほど確かに、邪道だが一興だろう。特にこんな、夏の夜に頂くきりりと澄んだ一杯であれば。
「兎角一つ、最初はそのまま試してくださればってンでヨ」
「ええ、ではいただきます」
「あー、じゃあ」
――乾杯、と。
静かな声と、綺麗な衝突音が、それぞれ三つずつ宵闇に浮かび上がった。