第十八話 初めての体験
この日のわたしはとても気分よく過ごしていました。ついつい鼻歌など口ずさんでしまいますが誰も見ていないので構いません。
でもこういう時に限って来るのですね、彼が。
「……何を浮かれている」
振り返ると怪訝な顔でこちらを見ているブランがいました。無断で入ってくるのでいつからいたのか分かりません。若干水を差されたような気分になりましたがいつもの事なので気にしないようにしましょう。
「今日もですか、本当に暇な方ですね」
「精霊が暇なのは世界が安定している証なので問題ない……で、何がそこまでお前を浮かれさせている?」
そのままの表情でブランがわたしの手にしたグラスに目を向けました。最近は人間の食事にも随分興味を持ってきたようで、見慣れないものがあると気になって仕方ないようです。
「料理に使ったお酒が余ったので果実酒を仕込んでたんです。今それの味見をしていたんですが我ながら美味しく出来たかと」
数か月前に仕込んだもので実は密かに完成を楽しみにしていました。何せ手の込んだものが欲しければ自分で作るしかないという環境ですから。わたしは新しいグラスにそれを注ぎ、彼に手渡しました。
「ブランもどうぞ。水で薄めてあるので飲みやすい筈です」
彼と食事を共にするようになって知りましたが、精霊は人間より遥かに感覚が鋭いせいか味覚に関しても鋭敏で人間の味付けでは濃すぎるのだそうです。物によってはこうして薄めてあげなくてはなりません。
「……酒の類は初めて口にするな」
グラスに鼻を寄せて匂いを嗅いでは難しい顔になっていましたがやがて意を決したように一気に飲み干しました。すると突然彼は口元を抑えてその場に膝を着いたのです。
「ブラン!」
何が起こったか分からず慌てて俯いた彼の顔を覗き込みました……苦痛で歪んだ顔なんて初めて見ます。もしかして精霊にとっては危険な物が入り込んでいたのでしょうか? 彼の身に万が一の事があったなら……心配で胸が張り裂けそうだというのはこういう気持ちの事をいうのでしょう。
「う……」
「大丈夫ですか!? 水を用意しますから吐き出して……」
蒼ざめた顔で呻く彼の姿にわたしの方が倒れてしまいそうになりながら介抱を試みますが、それを止めたのは彼自身でした。
「大したことではない……放って置け」
「そんな顔色で何を言っているんですか! 何が原因かもわからないのに……」
「原因は恐らく……それだ」
そう言った彼が指差したのは机に置かれたままの果実酒の瓶。
「わたし毒なんて入れてません!」
「今更お前が毒を盛るなど思っていない……そうではなくて、どうやら精霊の身体には酒が良く回るらしい」
要は、二日酔いに近い状態だと。
「お前の差し出す物だからと油断した……情けない」
ふらつきながら立ち上がる彼の姿に罪悪感が募ります。味付けにさえ気を配れば何でも平気で食べていたので、食材でも精霊の身体によくないものがあるかもしれないという考えが至りませんでした。元々精霊は感覚が鋭敏なのですから少し考えれば想像も着いたはずです。
「今日はもう戻る……邪魔したな」
だから背を向けて立ち去ろうとする彼をそのままにして置けませんでした。
「そんな顔色でそんな状態なのを他の精霊に見られてもいいのですか?」
「む……」
「以前ブランが言っていましたよね? 下位の精霊は弱みを見せると襲い掛かる事もあると」
ある程度の力と地位を持った精霊ならば知能も高く上位の者に逆らったりしませんが、下位の者だと力の差も理解出来ずに攻撃を仕掛けてくるのだとか。
当然彼が後れを取る筈はありませんが体調不良の時にわざわざ無駄な相手をする必要もないでしょう。
「心配なんです。ここで休んでいてください」
その言葉に俯き気味だった顔を上げた彼は二、三度目を瞬かせると力なく溜息を着きました。
「……好きにしろ」
それから現在は、寝台に横たわるブランの介抱に努めています。とは言っても薬がある訳でもなく、あったとしてもまた何が反応するか分からず不用意に使う事も出来ない為ただ水を飲ませ額に氷を当てるくらいのものでした。
「余程重症みたいですね」
「人間のような病に掛かる事もないこの身体では不調などこれが初めてだからな……」
身体の造りも人間と違うでしょうから今やっている事が彼の為になっているかすら分かりません。なので今は彼の要求に従っていました。
「ほんの少し体調が乱れただけでここまで気分が沈むとは……人間は常日頃こういった体験をしているのか」
手で目元を隠し、彼が呟きました。
「これは人間が生に執着するのも仕方がないかもしれん」
「二日酔いで随分大袈裟ですね。しばらくすればお酒も抜ける筈ですからもう喋らない方がいいですよ」
それはわたしにとっては無意識の行動でした。こんなに弱気になっている彼を見るのは初めてで、つい彼の頭に手が伸びて何度か往復させました。
「何をしている」
「何だか急にしたくなって……いけませんか?」
「……別に構わん」
彼の髪は引っ掛かる事もなくさらさらと流れるようで、頭を擦りながら密かにその指通りを楽しんでいました。その間彼は頭が痛むのと気持ちが悪いのとで苦し気な顔をしていましたが触れられるのを嫌がっている素振りではないのでそのまま堪能します。
「おい」
「はい。何か御用ですか?」
静かに休んでいればいいのに彼が唐突に口を開きました。撫でる手を止めて椅子から立ち上がろうとしたところを引き留められます。
「お前は死を恐ろしく感じた事はないか?」
「急に何の話ですか?」
意図がさっぱり分からず首を傾げていたら、彼が寝台から身体を起こして目線を合わせてきました。これは答えない限り納得してくれそうにありません。寝ていればいいのに何なのでしょう。
「そんなこと、何度だってありましたよ? そもそも初めての出会いが死刑台の上に立っていたのと同じような状況でしたから」
あの時の絶望は今思い出しても背筋が寒くなります。強制されて子を孕み、しかもその間監禁された挙句の死亡だなんて相手がブランでなければ確実にそうなっていたのです。つくづく、あの時召喚されたのがブランでよかったというべきでしょう。
「あとはブラン達と話し合いをしていた時もですね」
彼らを知った今なら絶対にあり得ないと言い切れますが、当時は少しでも機嫌を損ねれば簡単に処分されてしまうと常に緊張していましたから。それが今では倒れたブランの看病をわたしがするなんて。
「本当に変ですよ? 初めての体調不良で不安かもしれませんがわたしが側にいますから安心してください」
上半身を起こしていた彼の肩を掴んで身を乗り出し、力を込めて押すと思ったより呆気なく彼は寝台に沈みました。彼も本当に辛いのか何かを言おうとしていたのですが結局布団を被って背を向けてしまいました。
「四、五十年か……」
「何か言いました?」
「別に、大した事ではない。しばらく眠るから放って置け」
追い払うような言い草が若干気になりますが元は自分の迂闊さが原因ですから何も言えません。
「では何かあればすぐに呼んでくださいね。貴方が望む事は何でもしますから」
小さく返事があったのを了承と取り、この日はずっと彼の邪魔をしないよう静かに過ごしました。余談ですが彼の寝顔を見れたのはこの日が初めてで珍しいものをみた記念日にもなりました。




