第十二話 知識と実践と
わたしが精霊の領域で暮らし始めてから一か月が経ちました。
野宿から始まってそこから少しずつ身の回りを整え、今ではなんと家を持つまでに至ります。勿論わたし一人の手によるものではありません。
わたしがここに馴染むのに必死であった頃、ブラン達が配下の精霊に命じて作業させていたらしくある日突然強引に連れ込まれたのが木材と石で造られた二間程の小さな家でした。
出来上がったのは建物だけなので中の家具もこつこつと作り上げ、ようやく一般庶民程度の生活が出来るようになったと自負しています。
そして現在、この家は精霊の溜まり場のようになってしまいました。
「もう、どうして皆様がここにいるのですか」
沢山のクッションを乗せた石のソファーで腕を組んで目を閉じているブラン、その向かいで髪を指先で弄ぶルージュ、足を大きく開き深く腰掛けているグリス、ひどい気の抜き方です。わたしの苦情が届くとブランがゆっくりと目を開き顔だけこちらに向けました。
「外よりこちらの方が居心地が良くてな」
「それはそうでしょうとも。その為にわたし随分と努力したのですから」
しれっと答えるブランの言葉にこれまでの苦労が思い起こされます。ベッドを作り、布団を作り、浴室を作り、調理場を作り……毎日毎日何かしらの不足に気付きそれを補う日々でした。
城暮らしであったわたしも知らないような事はルージュが人里に降りて調べてくれました。そうして作り上げた我が家が占拠されているのですから文句も言いたくなるものです。
「別にいいだろ減るもんじゃなし」
「そもそも我らの協力あってこそのものではないか」
「それは確かにそうですが……それならば同じような家をそれぞれで建てればよろしいではありませんか」
作ろうと思えば宮殿だって作れるでしょうに。このような小さな家より余程自分好みの空間に出来る筈です。
「既にある物を新たに作り出すなど面倒なだけではないか」
そんな事も分からんのか、と切り捨てられました。
「ここしばらくはお前相手の魔力訓練で時間が潰せたがそれが無いとどうにも暇でな」
「最近は呼び出される事もないからねぇ、仕事が無いのがいい事とはいえ」
「暇なのはお前らだけだろ。俺は馬鹿な人間の数の多さにうんざりしてるんだが」
……そういえば精霊の仕事とは何なのでしょう。ブランなどは一時期魔力指導と護衛も兼ねて殆どの時間を一緒に過ごしていたりもしましたが、最近はこの家で過ごす時以外は何をしているのか知りません。
「……今までは何をして過ごされていたのですか?」
「ぼーっと空見てたり瞑想してたり、たまに人里に降りてたりってとこね」
ルージュの返答にブランとグリス両方が頷きます。長い寿命の間そういったことしかせずに過ごしていたなんてゾッとしました。
「よく飽きずにいられますね」
「精霊とはそういうものだ。世界の安寧を司る以外の役目は無い」
彼らはわたしには途方もつかない長い時間を生きてきて、その間楽しいと思える事も無く過ごしていたのでしょうか。
「では、お暇でしたら人間の文字を覚えてみませんか?」
「何だと?」
「これは実用性も兼ねての事ですから、是非お願いします」
この家が出来てからというもの困った事に彼らは事前に連絡無しで出入りをするようになってしまいました。精霊同士であれば思念でいつでも連絡が取れますがわたしが不在の時などは勝手に部屋の様子が変わっているなど少々問題にもなっています。
せめて置手紙の一つでもあればそのような問題も無くなる為どうにか納得してもらえないか言葉を尽くしました。
「どのような事でも覚えていて損はないと思いますし、後々人間を相手にする際にも役立つはずです」
「……まぁいいだろう。所詮人間の使う物だ、習得など造作もない」
こうして突発的な文字の書き方教室が始まってしまいました。
地の力で大きな石板を作りそこに木炭で基本文字を一つずつ書いていきます。文字の練習は得意ではありませんでしたがわたしが書く文字が精霊にとっての人間の基準となってしまいます。その為いつもの何倍もの時間を掛けて丁寧に書き上げました。
「では文字の読み方から覚えていきましょう。まずはこちらから……」
今まで教わる立場であったわたしが彼らの前で指導するというこの状況に思わず顔が緩みます。色々常識の違いに戸惑う事はあっても基本的に彼らはわたしによくしてくれましたから。せめて少しでもこれがお礼になればと思います。
「覚えたぞ」
「えっ」
一通り読み上げたところで今度は彼らに復唱してもらおうと考えていたというのにあっさりとそれは打ち砕かれてしまいました。
そうでした、彼らは精霊。長い時間を生きてきてその間の出来事を記憶して済ませるような方々です……だから文字による記録を必要としなかった、と。
試しにいくつか文字を指差してみれば完璧な解答でした。
「流石の記憶力ですね。ですが文字は書けなければ意味はありませんからね!」
「文字の書き方も既にお前が書いていた所から学んだ。最早お前に教わるような事はないな」
ブランが心なしか得意になっているような気がします。ですが諦めません! 少しでも先生らしいところを見せなくてはお礼にはならないではありませんか。
「では実際に書いてみてください。わたしが判定しますから」
わたしの言葉に皆が石板に文字を書きつけていきます。一人ずつ見ていきましょう、まずはグリスから。
「あ、持ち方はこの方が書きやすいと思います。」
少しの指導をするとまだぎこちないものの文字自体はわたしの手本と殆ど変わりがありません。これでしたら問題はないでしょう。続いてルージュ。
「まだ初めたてですから。その内慣れるかと」
彼女はグリスより不器用なのか少々文字の大きさが不揃いになったりしています。文字を覚えたての子供くらいでしょうか。ですがこれもすぐに整うでしょう。最後はブラン。随分自信を持っていましたから、さぞや完璧な文字を見せてくれるでしょう。
「こ、これは……!」
「……何が言いたい」
石板に文字などありませんでした、いえ文字のような何かがありました。
線は曲がり墨が滲み子供の落書きにしか見えません。驚きに言葉を失うわたしへ睨み付けてきますがそれが負け惜しみのようにしか思えないのは気のせいでしょうか。
「いえ……知識だけあっても実践は違うのですね、と」
「このような手の使い方をした事が無いのだから当たり前であろう」
隣のグリスとルージュも同じ条件だという事は棚に上げています。
「仕方ありませんね、しっかり指導して差し上げますからね」
くすくすと笑いが零れると彼は顔を背けて機嫌が悪そうにしています。ブランの苦手なものを知って少しだけ優位に立てたような気がしました。
それから何度か文字教室は開催されましたがブランだけは上達することはなかった、という事は教えておきましょう。




