#1 「私に会えるなんて運が良いですね!」
その人の朝は、いつも早い。
隣の住宅に住む日雇い労働者、アサミヤ=ジロウは1日の始まりを告げる朝日の到来より前に目を覚まし、近場の住宅に間借りしている他の住人の誰よりも早く行動を開始するのだ。
真面目の一言で言い表すことの出来る生活態度ではあるが、その行動がどこか意図的に距離を置く行為の様に思えているのが隣人、タチバナ=サクラコであった。
普段から大した寄り道もせず職場へと向かっているらしい彼の行動理念には自己完結が行き届いており、関わりを持つための切っ掛けというものを掴みづらいのである。
率先してお近づきになる理由は全くないが、恐らくは生来人付き合いが苦手な部類であることを自覚しているサクラコにとって、親近感のようなものを抱いているのだろう。
しかし、当然ながらろくに接点のない両者の距離を縮めるような要員などある筈も無く、視線が合えば挨拶する程度の関係でしかないというのが現実であった。
強いて挙げるなら彼の住む賃貸住宅の大家がサクラコの祖父母という点だが、他人の身内の身内などと言う遠回しな関係者である彼女に意識を向ける道理は、やはり無いと言っていいだろう。
たまたま日頃から早起きをしているサクラコの方が早朝という時間帯に彼の姿を見かけるというだけの、言葉にしてしまえばその程度の間柄なのである。
そんな彼女の視線の先に、彼は居る。
他の近所の住人よりも早くに行動を開始し、自らの出勤の準備を淡々と進めているジロウ。
朝の空気の入れ替えの為に開けた窓から、そんな彼を何を思うことも無く眺めているサクラコ。
日常の一部と言って差し支えない、そんな当たり障りのない光景に於いて、いつもとほんの少しだけ違う展開に至ったのは次の瞬間であった。
何気なく振り返ったらしいジロウと、視線が合ったのである。
「あれ、大家さんところの。おはよう、今日は早起きなんだな」
「え? お、おはようございますアサミヤさん! あ、朝から私に会えるなんて運が良いですね!」
脊椎反射というのは正にこういう状況の事を言うのだろうと、そんなことを思う余裕があったというよりは一切の思考を放棄した結果、返って冷静になれたと言うべきなのか。
サクラコは自分が何を口走ったのか脳の理解が追い付かず、僅かな間を置いて瞬時に理解した。
冷静に分析すれば、"朝から会えた"と"運が良い"が別の文脈であり、突然話し掛けられて動揺した結果混同してしまったのだろうと推測される。
ただ、それによって導き出された言葉そのものは"自意識過剰な自己表現の域に到達した暴言"そのものだ。
サクラコは形容では無く顔から火が出るような感覚を覚え、間違いなく羞恥で真っ赤に染まっているであろう顔を隠しながら慌ててその場を逃げ出したのである。
日々後悔を積み重ねていることを自覚している彼女にして、それは1、2を争う程の大失態であった。