#2 「ヤケ酒」
口止めの意味も含められた多めの退職金によって満たされた懐に反して、ユキヒロの心は刺々しいと形容できる程に荒んでいた。
言い訳がましく正当化しながら責任の全てを押し付けてくる企業側の物言いが未だに耳に残っており、本音を言えばそんな連中から渡された金など地面に叩き付けて踏みにじってやりたいところである。
が、先立つものが無ければ生活出来ないのは人の常であり、最低限稼ぎを得る環境を得るまで食い繋ぐためには必要不可欠であることは間違いない。
結論として、怒りと苛立ちを持て余した彼の足は歓楽街の片隅に構えられた酒場へと向いていた。
日頃はスーパーに並べられた安い酒を買いだめしていたものだが、気晴らしという名目で普段ならまず手を出さないであろう高級酒を煽ってやろうという魂胆である。
自分が稼いだ金ではないのだから、いっそ景気よく使ってやろうというのである。
やや薄暗い店内の明かりを頼りに入店したユキヒロは、カウンター席の一角を陣取ってアルコールの、値段の高いものから順に頼んでは酔い潰れる覚悟でグラスを飲み干していく。
溜め込んでいた鬱憤を酔いで洗い流そうとしたその思惑は、結果として外れることとなった。
酒が、不味いのである。
嗜好品とは個人が楽しむ為に嗜むものであり、味の良し悪しどころか銘柄すらろくに確認しない程度の心の余裕しか持たない状態であれば、至極当然の有様であった。
わざわざ高い金を払う店にまで出向いたのに、という逆恨みの感情も加わって酔いの回りの進んでしまった彼は、無様に酔い潰れる醜態を晒すことになる。
そんな、客としては最低の行いをしたユキヒロであったが、目を覚まして顔を上げた彼の視線に飛び込んできたのは、その行いを最も咎めるべき立場にある存在。
スミレと名乗った、この酒場の主である。
歳の頃は自分と同じはやや年上だろう、黒服に派手すぎない装飾を伴った立ち姿の彼女は、ただ静かに微笑んでいる。
酔いに任せて騒ぎ立てるような男を前にして、その全てを包み込んでしまうような包容力を感じさせるのは、この店を仕切っているが故だろう。
ほんの僅か、自分自身の心と向き合う余裕を得られたユキヒロは、自分自身の軽率な行いを恥じ入るばかりである。
対するスミレは笑みを崩さないままに首を横に振り、告げた。
「気にしないで下さい。今まで真面目に通して来たんだから、少しくらい羽目を外しても罰は当たりませんよ」
「そういうもの、かね……」
釈然としない思いを抱えながらグラスに残っていた酒を口にすると、思った以上にすんなりと喉を通った酒の味は、先程までよりずっと美味しく感じられた。
気持ち1つでここまで変わるものなのかと驚いていると、そんな店主が笑みを堪えながら肩を震わせている。
急に気恥ずかしくなったユキヒロはグラスをやや乱暴にテーブルに置きながら、ぶっきらぼうにもう一杯の酒を注文すると、スミレは変わらない笑みを浮かべたままこれに応じた。
理不尽に晒された現実から切り離された、夢のような時間。
それは店じまいまで居座った後に差し出された、領収書の額面を見るまで続いたのである。




